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文法的世界【9】

【9】アレゴリーとカテゴリーと私的言語・承前──現実世界の構成(3)

 先へ進む前に、議論のための舞台設営の続き、もしくは、設営された舞台で上演される出し物の主役をめぐる、若干の考察を加えておきたいと思います。

 前々回の議論を(ここでの関心事に即して)一言で“要約”すると、「私的言語=(文法)カテゴリー+アレゴリー」という定式になるでしょう。
 この右辺の二項のうち「アレゴリー」[*]は、「仮面的世界」の議論において、パース記号論における「類似記号(イコン)/指標記号(インデックス)/象徴記号(シンボル)」の三つの記号に「仮面記号(マスク)」なる第四の類型を加え、さらに第五の記号として「広義の仮面記号」を導入した際、これに与えた名にほかなりません。

 ……アレゴリーは髑髏であり、死者のおもかげ(肖)であり、「仮面」である。アレゴリーは純粋経験、無内包の現実性の「記憶」の痕跡、お零れ、幽霊、天使的質料性を「響き」として蓄える「空虚な器」である。アレゴリー(≒私的言語)は、神懸かりの言語(文字)であり、シャーマンの語りである。……(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第65章5節)

 また「推論的世界」では、アレゴリーを、「帰納(induction)/演繹(deduction)/洞察(abduction)/生産(production)」に次ぐ第五の推論としての「伝導(conduction)」に関連づけて考え、先立つ四つの推論を総括する伝導の稼働フィールドである「伝導体(conductive field)」の別名もしくは異名として、この語(概念)を採用しました。

 ……他の誰でもない、唯一例外的な現実的実例である「この私」の実存(現実存在)という端的な事実。この「伝わらない問題」をめぐる「伝達」と「理解」(悟り、禅的あるいはキェルケゴール的な実存論的飛躍)の両側面を、私は、一連の「(高次の)推論」の過程と捉え、それらを総じて「伝導」の名で呼びたいと考えています。そして、そのようなプロセスが展開されるフィールドのことを「伝導体」と呼びたい。……(「推論的世界」第4節)

 かくして、アレゴリーは、本論考群におけるいわば“最重要概念”の位置を占めるに至ったわけですが、そうであればなおさらのこと、上記定式右辺のいま一つの項である「(文法)カテゴリー」──前々節に掲げた模式図において、私はそれをアレゴリーと相並ぶものとして位置づけました──を考える際、これと類比的な概念である「アレゴリー」を参照することには、なにがしかの合理性があるのではないかと思います。

 さて、以上のことを踏まえ、次回以降の「四つの文法カテゴリー」をめぐる考察を意識しながら、(つまり「(文法)カテゴリー=私的言語-アレゴリー」の定式を念頭に置きつつ)、「哥とクオリア/ペルソナと哥」の関連する議論──「四つの私的言語」をめぐる第62章6節および第83章2節の議論、「アレゴリーの四態」をめぐる第65章5節とこれに関連する「アナロジーの四態」をめぐる第48章3節(「推論的世界」12節において縮約のうえ引用)の議論──を合成したうえで、紹介したいと思います。
(「見立て」「縁語」「本歌取り」「掛詞(懸詞)」という「四つの和歌のレトリック」をめぐる議論は、本稿のこの局面では不要なものだが、第二の論点(日本語文法)あるいは「文法的世界」以後の議論への伏線として、削除せずそのまま掲げておいた。)

α:〈 私 〉をめぐる私的言語

〇〈現〉のアレゴリー
・存在次元を異にするAとBの根源的同一性(A=B)を深層の「地」とし、そこからactual かつ real なフィールドと actual かつ imaginal なフィールにあいわたる表層における「図」──「A→B」(見立て)と「A←B」(見顕し)の二つのベクトルから成る──を導出する。
・この二つのベクトルは相互反転的な(あれかこれかの)関係を切り結び、やがて移動・変換と重ね描き・複合・圧縮からなる「伝達=模倣」のプロセスを経て、「現」のフィールド(actual field)において、A=実像(言葉の領域での顕在的・現実的統合)とB=虚像(心の領域での可能的統合)との同一性を実現=回復する。(一と多、根源的一者と現象的多の連結)
〇文法カテゴリー:人称(person)

β:〈 今 〉をめぐる私的言語

〇〈虚〉のアレゴリー
・actual かつ imaginal なフィールド(表、浅い夢)が virtual かつ imaginal なフィールド(裏、深い夢=無)へと落ち込み、「いま・ここ」という現実性が星雲状に分岐・増殖し無限に織り重なってネットワーク化していく。
・すなわち、可能的統合の世界と不可能な統合(夢)の世界が縫い合わされる。そして、「いま・ここ」という現在性とともに心の鏡像としての言葉(縁語)のネットワーク(A∨B)が、いわば合わせ鏡のごとくそこにおいて映現する「虚」のフィールド(imaginal field)が設営される。その時、無限に織り重なった歴史的時空が拓かれる。(表と裏の縫合)
〇文法カテゴリー:時制(tense)・相(aspect)

γ:〈現実〉をめぐる私的言語

〇〈実〉のアレゴリー
・virtual かつ real なフィールド(潜在的統合の集蔵体)から actual かつ real なフィールド(言葉の領域での顕在的・現実的統合)へと、“力”のはたらきを通じて立ち現われる、「部分がすなわち全体である」ような「A=内側からの視点(現実)でもB=外側からの視点(虚構)でもないもの」が表現される。
・すなわち、①潜在的な統合可能性の懐胎(被憑依)、②A=内とB=外の連鎖(A∧B)、そして③声と文字の物質的痕跡をまとった個別具体のものの晶出(本歌取り)へと到るプロセスが「実」のフィールド(real field)において進行する。そこに立ち上がるのは、イマジナルな心からアクチュアルな言葉へ、潜在的統合から顕在的・現実的統合へという存在様態と存在次元の転換(置き換え)がもたらす「歓び」である。(内と外の往還)
〇文法カテゴリー:様相(modality)

δ:〈感情〉をめぐる私的言語

〇〈空〉のアレゴリー
・virtual かつ imaginal なフィールドと virtual かつ real なフィールドにあいわたる深層、すなわち心の鏡像としての物の圏域において化肉した“声”(死者たちの記憶)が共鳴する。
・「¬A=~」(有から無)と「~=A」(無から有)の逆方向のベクトルがあたかも二重螺旋のごとく絡まりあい、「空」のフィールド(virtual field)に響きわたる。そこからダイレクトに、物と照応する「言葉」が立ちあがり、二重化された言葉(掛詞)として表出される。(無=不可能な統合と有=潜在的統合の反転)
〇文法カテゴリー:態 (voice)・法(mood)

          【現】Actual
           ┃
         ←─α─→
        │  ┃  ↑  real
    【虚】━β━━╋━━γ━【実】
   Imaginal ↓  ┃  │
         ←─δ─→
           ┃
      Virtual【空】

  α 〈 私 〉をめぐる私的言語-〈現〉のアレゴリー≒人称  :一と多の連結
  Β 〈 今 〉をめぐる私的言語-〈虚〉のアレゴリー≒時制・相:表と裏の縫合
  γ 〈現実〉をめぐる私的言語-〈実〉のアレゴリー≒様相  :内と外の往還
  δ 〈感情〉をめぐる私的言語-〈空〉のアレゴリー≒態・法 :無と有の反転

[*]アレゴリーという概念をめぐる私の“イメージ”の骨格は、(ほぼ)次の二つの文章に接した経験から出来ている。

◎道籏泰三「髑髏のにたにた笑い──廃墟からの構築としてのアレゴリー」(『ベンヤミン解読』二章)。

「恣意的かつ暴力的に意味を引き寄せ、言葉のもつ通常の意味を自由に歪曲し、変容させるアレゴリーは、それ自体が暗号としての謎めいた絵であり、ヒエログリフ(象形文字)としての絵文字であり、さらに広くいえば、物質そのものとしての文字である。ベンヤミンがアレゴリーにおいて問題にするのは、ちょうどカフカにおける事物の名の攪乱の試みに似て、言葉の意味性、記号性に対立するものとしての文字、図像としての文字がもつ反乱性に他ならない。文字像としてのアレゴリーは、慣習的な記号としての言葉の閉じた主観的世界から暴力的に排除されてゆくものを、言葉の意味や概念に媒介されない直接的な図像のかたちで、いわばゲリラ的に奪回しようとする試みであり、そこには捨て去られ忘却されたものの痕跡が瓦礫の下に隠れひそんでいるという意味で、他でもない「それ自体が知に値する対象」なのだ。」(66-67頁)

「彼[ベンヤミン]においては、物質としての言語音声もやはり記号性に対する歴然たる反乱的要素なのであって、文字像が意味の撹乱としてのアレゴリーに収斂するのに対して、こちらは究極的には、意味を無化したうえでの純粋な感情の表出としての音楽に収斂してゆくものとして考えられている。」(69頁)

◎石牟礼道子「夢の中の文字」((『石牟礼道子全集 不知火 第9巻』)

 ……あの世(生まれぬ前)からこの世へ、川底(川床)から川面へと水中を浮上してくる解読できない文字。一度も形になってくれない文字、生まれることが出来ない文字、書かれざる(書けない)文字。濡れた髪のように、和紙(基底材)と共に溶けてゆく毛筆で書かれた仮名文字。題名のない音楽(虚無的な無限をあらわした、白い静かな炎を伴っている曲)と、ことば以前のイメージをまとわせた文字。(石牟礼道子は「ことば以前」と題されたエッセイで、もの心つく頃に「無語の世界」を垣間見た最初の記憶(遠い景色)として、「赤い罌粟の花一輪を持って、白い象と共に旅をする自分の姿」を語っている(同書450-451頁)。)
 ここに描かれた「夢の中の文字」こそ、「それは何であるか」(リアリティ)の軛から解き放たれ、純粋に「それが在ること」(アクチュアリティ)に根ざした私的言語の、本然の姿をかたどったものではないか、(それはまた「意味」の軛から脱しつつある文字像としての、そして題名のない音楽がそこから湧きだすところのアレゴリーの本然の姿そのものではないか)。……(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第64章5節)

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