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文法的世界【10】

【10】文法カテゴリー①人称─現実世界の構成(4)

 今回の課題は、①「人称」の文法構造の成立を通じて独在的存在である〈私〉から一般化された「私」が構成される道筋を示すこと、②その(〈私〉→「私」の)プロセスが「一と多の連結」という逆理(パラドックスもしくはアナロジー)とがどのような関係にあるのか──逆理がプロセスを稼働させる動力源なのか、それともプロセスの展開が逆理を解消(治癒)するのか、等々──を明らかにすること、この二つです。
 最初に断っておきます。私は、現段階ではこの自問に対して自信をもって答えることができません[*1・2]。そのための蓄積と能力、熟慮熟成のための時間が足りないからです。だから、以下に述べることは、「悪戦苦闘のドキュメント」ならぬ試行錯誤の記録、覚え書、備忘録か素材集の類でしかありません。ここで述べたことは、次節以降の議論にも妥当します。

     ※
 人称構造もしくは人称的世界をめぐって、「哥とクオリア/ペルソナと哥」から関連する議論というかキーワードを抜き出してみます(いわば個人的な備忘録として)。

 ──「非人称的な日本語的表現」(永井均『西田幾多郎』)、「純粋小説はこの四人称を設定して、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ」(横光利一「純粋小説論」)、「特定の視点からはまったく自由ないわば〈無人称性〉(ないしより正確には〈無限人称性〉…)」「〈多重人称〉(ないし…〈原人称〉)」(坂部恵『かたり』)、「人称的規定を脱した情念の深みの原初の律動」(坂部恵『仮面の解釈学』)、「シテが自らを3人称で語ることによって表現されるものは何であろうか」(小西甚一「能の特殊視点」)、「非人称の中動態的な言語[=純粋言語]」(互盛央『言語起源論の系譜』)、「非人称の文字空間」(子兜太との対談『他流試合』におけるいとうせいこうの発言)、「「かたる」とき、語り手はすでに多重化した人称を帯びてしまっている」(川田順造『聲』)、「引用の人称=四人称(物語人称)」「ゼロ人称」「擬人称」(藤井貞和『〈うた〉起源考』)、「物語人称」「無人称あるいは虚人称(作者人称)」(藤井貞和『物語論』)、等々。(ちなみに、私は藤井氏の「ゼロ人称」を「言霊の人称」または「よみ人しらずの人称」と呼んでいる。)

 これらはいずれも、興味深いのですが、ここでは深掘りすることはせず(精確に言うと、深掘りする余裕がないのでそれは断念して)、いま現在、気になっている“素材”を拾うことに徹します。

◎人称という問題の源泉

 永井均氏は、「なぜこの人が私なのか」という問いをめぐって、世界に人が一人しかいない場合と、二人いる場合と、三人以上いる場合で、「問題の意味が少しずつ変わるであろう」と書いている(『〈私〉の哲学 を哲学する』序章)。
「一人(一つ)しか(い)ない場合、問題の意味は最も純化された形で理解されるはずだが、にもかかわらず理解は非常に難しい仕事となるだろう。現実世界には三人以上の人がいるが、それは後に述べる分裂の思考実験でやっと理解されることになるべき第一歩がすでに生起していることを意味する。ここに「人称」という問題の源泉があるだろう。」(30頁)

 ここに問題の源泉があるという「ここ」とは、「現実世界」が(哲学的省察を経ずに)すでにして生起してしまっていることを指すのだろう。つまり、「人称」という文法カテゴリーが成立することと、現実世界が生起することとが不即不離の関係を切り結んでいるということ。
 ここで「カテゴリーとアレゴリー」の関係について確認しておく。
・カテゴリーは「現実性」を「実在性」に接続するための装置・概念群であった。たとえば文法カテゴリーは世界を言語的に制作するための装置・概念群である。
・アレゴリーは「実在性」から「現実性」へ向かう志向性を表現する。カテゴリーとは真逆の方向(世界の消失へ)をもった装置・記号群である。

◎一般的な「私」や「今」が構成されていく、という図式
 ─言語的伝達によって「現実性」が絶えず言語の内部へ組み込まれ続けること

 青山拓央氏は、前言語的な〈これ〉と言語さえあれば世界は復元されると述べている(『〈私〉の哲学 を哲学する』第Ⅲ部)。
「自分にとっての〈これ〉、特別な〈これ〉があり、そして‘この’言語──私の解する言語──がある。この言語はなぜか人称構造や時制構造を含んでいますから、私の〈これ〉とこの言語さえあれば、みなさんには意識があることになり、過去や未来もあることになる。ちゃんと世界は復元されて、うまくいく。だから、この本は正しい、と思うわけです。」(138頁)

 この本は正しいという「この本」とは、永井均著『なぜ意識は実在しないのか』のこと。実は青山氏は師でもある永井氏を目の前にして先の発言をしている。
「ですが、そう思った瞬間にふと疑問に思うのは、私はこの本を書いていないということです。この本を書いた人はいま目の前に座っている。これはしかし冗談ではなく、決定的に重要なことだと言えます。この本を書けるような人がそこにいるということによって、前言語的な〈これ〉がそこ(永井さん)にもあるという感じがするからです。私の〈これ〉と同等であり、私の言語によって復元されたのではない本物の〈これ〉が、やっぱりそこにある。そうじゃなかったら、他人がこの本を書けるわけがない。このように感じるのです。」

 これらの発言を受けて、当の永井氏は次のように括っている。
「要するにやっぱり二本立てなんですよ。青山さんが、否定的な意味で、前言語的な〈これ〉と言語さえあればいいことになっちゃうじゃないか、という疑問を出されましたが、そうだ、なっちゃうんだ、だって実際なってるじゃないか、と。二本立てだから、前言語的な〈これ〉は必要で、そして、それと言語によって、現実性が…言語的伝達によって絶えず言語の内部へ組み込まれ続けることで、一般的な「私」とか一般的な「今」というものが構成されていく、という図式になっている。この本はね。この本だけで終わる可能性はありますけどね、この方向の議論は。うまくいくかどうかわからないから。でも、どちらかというと、これでずっと行ってみたいという感じはしてるんですけど、それはまあ一種の投機というか、それでやってみよう、みたいな感じですから。」(175頁)

[*1]課題①に関して、かつて「哥とクオリア/ペルソナと哥」において、永井均氏の議論を踏まえ次のような道筋を描いたことがある。以下、第62章1節から加筆修正のうえ抜萃する。

 ……私的言語の生成とその“受肉”をめぐって。

【Ⅰ】〈 〉=〈私〉:「そもそもの初めから存在する(=それがそもそもの初めである)ある名づけえぬもの」すなわち〈 〉が、世界開闢の「あとから」他のもの(たとえば他人)との対比が持ち込まれて〈私〉と名づけられる。

 しかし、この、科学的・歴史学的な客観的事実を超えた「超越的な存在」をめぐる等式は、やがて「世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈」のもとでとらえられるようになる。すなわち、次のようなかたちで。

【Ⅱ】《私》=「私」:「対比が持ち込まれた後では、あたかも対比が成り立つための共通項[私と他人に共通の「人間」]がもともとあったかのような錯覚が生まれる。そして、この錯覚こそが現実になる」(『私・今・そして神』41頁)。

 ここで、【Ⅰ】から【Ⅱ】への推移(頽落)のプロセスを、空想的に追跡してみる。

①〈私〉=『私』:超越的世界における【Ⅰ】の等式が、この世界の内部へと類比的に繰りこまれる。メタフィジカルな世界における独在性の〈私〉は、この世界の内部における愛と経済の主体である特殊・個別の『私』(かけがえのない唯一の私、自己利益を追究する私、等々)と類比的に同一である。
②〈私〉⇒《私》:独在性の〈私〉(この世界の客観的事実を超えた語りえない存在)は、単独性の《私》(この世界に実在する他でもないこの私)として語られる。
③《私》=『私』:①と②によって。
④『私』⇒「私」:愛と経済の主体である特殊・個別の『私』は、公的言語(日常言語)における一般的な「私」として語られる。
⑤《私》=「私」:③と④によって。

 ここまでに登場した四つの等式(〈 〉=〈私〉,〈私〉=『私』,《私》=『私』,《私》=「私」)の、それぞれの等号を矢印に変形すると、次の四つの式が得られる。

・〈 〉⇒〈私〉:世界の開闢
・〈私〉⇒『私』:キリストの受肉
・《私》⇒『私』:並列的な世界の描像(モナドロジー、華厳経の世界)
・《私》⇒「私」:平板な世界解釈(公的言語の世界)

 最後に、この四つの式を一般化する。──それらは、「名づけえぬもの」(開闢の奇蹟)がこの世界の内部で、「その内部に存在する一つの存在者として位置づけられ[=受肉され]、名づけられる」(『私・今・そして神』43頁)プロセスを示している。(永井均氏は『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』で、「私の見るところでは、超越的事実を平板な世界像の内部へ強引に位置づけることは、一般に宗教というもののもつ特性の一つなのだ」(293頁)と書いている。以下の四式は、そのような宗教のはたらきを示すものと理解することができる。)

【A】〈 〉⇒〈E〉
【B】〈E〉⇒『E』
【C】《E》⇒『E』
【D】《E》⇒「E」

 これらの式に用いた「E」は、ドイツ語「Etwas」の頭文字で、それは、「言語的な象徴によって心にもたらされる「何か」」(井筒俊彦)とか、「〈私〉は、だれでもないどころか、何でもないのだ。しいていうなら、ただ‘これ’でしかない。それが‘何であるか’は決してわからないどころか、いやむしろ、それは‘何であるか’がない」(永井均)などと言われるときの、その「何か」や「これ」を指している。

 本稿で考察しようとしている私的言語は、永井氏によって余すところなく定義されたそれ、つまり、固有名で置きかえることができる《私》ではない〈私〉の言語、あるいは、私秘的な感覚──永井氏が『〈私〉の哲学 を哲学する』の序章「問題の基本構造の解説」のなかで、「現実性の累進構造こそが「私秘的な意識」(あるいは「クオリア」)という不可解な概念の根源にあるのではないか、ということが、私が『なぜ意識は実在しないのか』で論じた問題であった」(36頁)と書いていた、その「クオリア」──を語る言語ではなく、独在的な存在を語る言語にほかならない。
 このことをいいかえると、私的言語とは、語り得ない純粋経験を語る言語である、となる。そして、その純粋経験(〈E〉)には、独在性の〈私〉のほか、〈今〉や〈現実〉(や〈感情〉)が含まれる。……

[*2]課題②に関しても、前節で一応それらしいことを仄めかそうとしてはいるが、到底納得できるものではない。この課題を考える上でヒントになりそうな“素材”の一つとして、「梵我一如」をめぐる永井均氏の議論を引く(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第61章4節)。

 ……『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』の付論「自我、真我、無我について──「気づき(サティ、マインドフルネス)」はいかにして可能か」から、永井均の文章を引く。

《バラモン教(やヒンドゥー教)の説くところによれば、それぞれの個我の世界である小宇宙は宇宙に遍在するその根本原理であるブラフマン(梵)と、通常は切り離されているのだが、アートマン(真我)という自分の真のあり方を自覚すれば、それと合一することができる。これは、世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈の内部でだけ理解しようとすれば、何やら神秘的なお話のように思える。しかし、そのような平板な世界解釈を超えて、端的な事実をありのままに捉えれば、むしろ端的な事実をありのままに語っているだけだ、と見ることもできるだろう。たくさんの個我たちのなかになぜか〈私〉が存在しているとは、つまり一人だけ世界(宇宙)そのものと合一している不可思議なものが存在しているということであり、じつのところはそうとしか捉えようがない(通常の平板な世界解釈では捉えられない)からである。》(290頁)

 文中に「世界にはたくさんの人間が並列的に存在し、それぞれに自我があるというような、通常の平板な世界解釈」とあるのは、「一般的な自己意識」としての「私」たちの、つまり、「だれかとして(すなわち固有の属性を持った者として)捉えられ」、「属性の違いによって他の人々から識別される一人の人間(たとえば永井均氏という人物)」たちの世界を描写するもの。
 これに対して、『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』の文章に出てくる、「相互の含み込み合いみたいな形で並列的に描」かれる「ライプニッツのモナド世界や華厳経の世界」の方は、同じく「並列的」であっても、これよりはもっと複雑である。というのも、それは、「この世界の客観的事実を超えた超越的な存在」という本質を持ち、あるいはそのような概念によって規定され、そして同時に、固有の属性によって捉えられ、固有名でもって他から識別されるところの単独性の《私》たちの世界を描写するものだから。
 これらに比べて、「端的な事実」として「超越的な存在」(=ブラフマン)であり、したがって「本質的に属性を持たない空っぽの存在」(=無我)であるところの独在性の〈私〉(=アートマン、真我)の世界は、ほんとうは、これ以上単純で明晰かつ判明な事実はないにもかかわらず、《私》たちの世界よりもっとずっと複雑で精妙な構造をはらんでいる。というのも、《私》たちの世界の並列的な描像こそがそこから、そして「後から」創作されるものだからにほかならない。
 さて、ここに三つの私が登場した。私はそれらに加えて、第四の類型を呈示したいと考えている。それは、第一の一般的な「私」(のうち、科学的・歴史学的要素を捨象した、純粋に言語的な「私」)と、第二の単独性の《私》とのあいだに位置づけられるものである。すなわち、たんなる言語上・文法上の存在ではなく、この世界に実在する科学的・歴史学的な存在(物質的・生命的かつ心理的・精神的な存在)としての私。この、第一の「私」から分岐してできた、いわば愛と経済の主体ともいうべき私のことを、ここで『私』と表記する。
(この第四の私は、永井氏の処女作『〈私〉のメタフィジックス』の章立てで言えば、第Ⅱ部「利己性―─『私』の倫理学」で論じられた利己的な『私』と、第Ⅲ部「自己愛─―“私”の人間学」でとりあげられた人間学的な(生物としての)“私”を合成したものと言える。)
 永井均解説による「梵我一如」の宗教的特性を、私をめぐる四つの表記を用いて表現すると、次のようになる。すなわち、〈 〉=〈私〉。この等式で、〈 〉はブラフマン(あるいは「空っぽの存在」=空虚な器)に、〈私〉はアートマンに、それぞれ対応している。そして、これと対比されるキリスト教の思想は、〈私〉⇒『私』と表記することができる。この「受肉」の定式において、〈私〉は父なる神(=〈 〉)に対する子なる神・キリストに、そして『私』はナザレのイエスにそれぞれ該当する。……

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