見出し画像

ペルソナ的世界【10】

【10】昆虫のペルソナ・生けるペルソナ─ペルソナの諸相1

 ペルソナという概念をめぐって、いくつか素材を蒐集します。まず、『エピステーメー』vol.1-2(1975年11月号)に掲載された三つの論稿を、二回に分けて取りあげます。

その1.日高敏隆「昆虫におけるペルソナ」
   ─チョウの変身、プシケーの姿

《われわれがいつも見かける‘イモムシ’や毛虫は、すべてペルソナであり、‘かいこ’も‘かいこ’の‘まゆ’も、その中にひそむ‘サナギ’も、すべてある意味ではペルソナである。
 何にとってのペルソナか? それはいわずとも明らかであろう。彼らはチョウの、あるいはガのペルソナなのである。
 一匹のチョウの産んだ卵は、けっして小さなチョウの姿に孵ったりしない。それは必ずイモムシに孵る。イモムシはやがてサナギになり、このサナギが何日か、あるいは長い冬を越して何か月かたったのち、突如として美しいチョウに変身するのである。
 ギリシア人は、チョウがこのはげしい変身の過程でなおみずからの姿を忘れず、さいごにはちゃんとチョウになることに心を打たれた。姿はいかに変わろうとも、チョウの魂は滅びない。そこでギリシャ人は、チョウのことを魂と同じことばでプシケー…と呼んだ。》(『日高敏隆選集Ⅴ』59-60頁)

《しかし、より正確にいうならば、イモムシはじつはチョウに変身するのではない。なぜなら、イモムシはチョウのペルソナであるからである。
 サナギから抜け出たばかりのチョウには、まだ伸びていないとはいえ、立派に翅が生えている。美しい色模様もすっかりできあがっており、チョウは血液の力でみるみるうちに翅を伸ばしてゆく。(略)
 ではチョウのこの翅はいつできなのか?(略)
 こうしてわれわれの質問は、ついに卵の時代にまでさかのぼってしまう。チョウの翅は、じつに卵の中ですでにできているのである。いやできているといっては、いいすぎであろう。翅の芽がすでに卵の中でできているのだ。(略)
 翅はイモムシの体の中で、イモムシの成長とともに大きくなってゆく。イモムシは脱皮という現象の存在によって、不連続的に、階段状に発育してゆくが、内部の翅はそうではない。まったく連続的に、着々と、大きさを増し、終局的なチョウの翅に近づいてゆく。
 そこには何の変身もない。ただ成長あるのみである。外から見れば、ギリシア人に魂にまで思いを致させた驚くべき変身も、その内部には何の変身もはらんではいない。これは逆説的である。そしてそうであるがゆえに、イモムシはペルソナなのだ。》(『日高敏孝選集Ⅴ』64-67頁)

《昆虫においては、プシケーの姿はあらかじめ決まっている。(略)そして、その変身のシナリオも、そのペルソナの顔も表情も、すべてその種によって決まっている。種の「遺伝的プログラム」というこの認識は、近代生物学のものではなく、現代生物学の基型をなす認識である。ギリシア人はそれをギリシア風に、プシケーと言う美しいことばで表現したのだ。
 ぼくはイモムシがペルソナだといった。けれど、それはチョウをプシケーと認めたからにほかならない。種とはチョウすなわち親によって代表されるものではない。すでに繰り返し述べたとおり、アゲハチョウは卵のときからすでにアゲハチョウ以外のものではない。どこをプシケーと見ても、いっこう差し支えない。種として見れば、すべて等価なのであるから。もしそのように見たとき、チョウはイモムシの美しいペルソナとなる。》(『日高敏孝選集Ⅴ』67-68頁)

 ──日高敏隆が言う「ペルソナ」は、「プシケー」(ゲーテ形態学における「原型」と同義とみていいだろう)の異なる等価な「姿(現われ)」である。それ(ら)は、私の語彙で言えば「メカニカルな界域」──すなわち「実在性(reality)」(©永井均)の水平軸であり、あるいは「地平(Horizont)」(フッサール)にして「地平線」(三浦雅士『スタジオジブリの想像力──地平線とは何か』参照)でもある水平面──において、転々とメタモルフォーシスを繰り返していく。

 その2.渡邊二郎「生ける全体としてのペルソナ」
   ─ 世界によって貫き通されること

 渡邊二郎は、①「仮面」から発して──すなわち「面が生きた人を己れの肢体として獲得」(和辻哲郎「面とペルソナ」)して──その背後に「人格」の「現われ」や「役割」を想定する方向を「求心的志向」と呼び、②役者が「仮面」をつけて「役柄」を演ずる中で、当の役者も「登場人物」もはじめて具体的に存在すると見る考えを「遠心的志向」と呼んでいる(著作集第10巻、621-622頁)。
 前者の「求心的志向」は、「長い論争ののちに三八一年のコンスタンチノープル公会議で確立されその後中世を支配し続けた「三位一体」論、すなわち「一つの実体」である神が「三つのペルソナ(ヒュポスターシス)」においてそれぞれ固有な働きの主格として現われているという教義のうちにも、生きている」(623頁)。
 これに対して「遠心的志向」(現代の哲学的状況)においては、「理性的なペルソナではなしに、「生ま身」のペルソナや、「役割」としてのペルソナ、そして「個体」としてのペルソナよりも「世界」の中に連れこまれ、捲きこまれ、それと連関しているペルソナが、前景に浮かびあがってきている」(626頁)。

《…ここでは、遠心的志向において、ペルソナが、野生の自然のうちに浸され、歴史社会的現実の役割諸関係の中に分断され、事物や他者とかかわる諸連関の中におき戻され、世界全体の流動のうちに解消されかかってさえいる。「知覚の束ないし集合」にすぎないヒューム的な人格解体と、これはもう一衣帯水の間にあること、言うまでもない。
 もしも、「西欧の精神」の伝統が、「世界」を「思惟」と「行為」によって「響き渡らせ」「貫き通し」(ペル・ソナーレ)、こうしてみずからをも「意識」と「自由」の「高次」の「包括的」段階に高めるところにあったとすれば、これは、それの崩壊なのか。それとも、その同じことが、ただ逆の符牒を帯びて、人間が、世界によって「響き渡らせられ」「貫き通される」という事態において、現われているだけなのか。
「ヴォワイヤン」になり「詩人」でありたいと希ったランボオは、「われ思う」は誤りで、「〈われ〉は一個の他者である」と、一八七一年ジョルジュ・イザンバアル宛書翰で書いた。「森の中にあって、私はなんども、森を見ているのは私ではないと感じた。樹々の方が私を見つめ、私に話しかけるのだと、感じた日々もあった。……画家は世界によって貫かれるべきであり、世界を貫こうと欲したりしてはならないと、私は思う。……」と、アンドレ・マルシャンも書いた。》(『渡邊二郎著作集 第10巻 芸術と美』626頁)

 ──「求心的志向」のもとにおけるペルソナは「昆虫におけるペルソナ」と実質的に同等であり、一方、「遠心的志向」のもとにおけるペルソナはこれと異なり、「マテリアルな界域」と「メタフィジカルな界域」の両界域にまたがって──すなわち「現実性(actuality)」(©永井均)の垂直軸に沿って、“世界”の側から──響き渡り、「メカニカルな界域」(“人間”の言語の界域)を貫通する力の働きがもたらすものである。
 ところで、“人間”(水平軸)と“世界”(垂直軸)が、一方向ではなく相互に響き渡らせ・貫き通す関係を、坂部恵は「うつし身とうつし世がたがいにうつり合う関係」として論じている。次回へ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?