仮面的世界【4】
【4】旧仮面考─舞は声をもって根となす(前段)
これより本論に入ります。まず、旧仮面考の概形の確認から。
★仮面考・第一回「音=声を通して」
http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU/19.html
★仮面考・第二回「顔=貌に面して」
http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU/21.html
★仮面考・第三回「身=実を割いて」
http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU/22.html
★仮面考・第四回「名=徴を超えて」
「仮面(的なもの)」を構成する声・顔・身の三つの要素、あるいは(必ずしもこの三項と専属的な対応関係にあるわけではないが)、機能(現象)と形態(形相)と物性(質料)に関する原理的考察、およびそれらの契機の三位一体的な関係をめぐる理論的探究を試み、その‘成果’の上に「仮面の記号論」なる第四のものをうち建てたい、それが、当時漠然と思い抱いていた目論見でした。
作業を再開するにあたって、いま一度その原点に立ち戻り、かつ、「それは実はこういうことだったのだ」との後知恵による‘発見’と、これにもとづく補足を加えたうえで、原理的考察と理論的探究の趣旨を確認しておきたいと思います。(これより先、「仮面(的なもの)」を「仮面」と略記する。)
初めに、旧仮面考に取り組むに際して、その理論的な起点となった坂部恵の文書を、長くなりますが引きます。『仮面の解釈学』の冒頭におかれた論考「〈おもて〉の境位」から。
《さて、〈おもて〉は、原初のカオスの不安から、方向づけと意味づけをもったコスモスがかたどられ、かたり出る、まさにそのはざまに成立の場所をもち、わたしたちのいわゆる相互主体的な了解の領野の〈おもみ〉の方向としての〈重て〉すなわち重心を定め、〈おもみ〉=〈思ひ〉をかたどり、かたり出る。では、この〈おもひ〉と、〈おもひ〉の場所としての〈おもて〉のその〈かた-どり〉と〈かた-り〉の「かた」すなわち形は、つまるところ、どこからしてその究極的な統一を得るのか。
〈かた-どり〉と〈かた-り〉の「かた」=形の統一は、ほかならぬその〈かた-り〉=語りに由来する。ここに、〈おもて〉のかたどりにとって、広い意味での音声による〈かたり〉が不可欠の根底として要請される所以がある。
「舞は音声より出でずば、感あるべからず。一声の匂ひより、舞へ移る堺にて、妙力あるべし。又、舞ひおさむる所も、音感へおさむる位あり。」(『花鏡』舞声為根)
ギリシャ悲劇の登場人物がもと合唱隊から分出したものであることを説いたのはニーチェであった。〈仮面〉を意味するペルソナ(persona)の語が、もと、「音」sonaを「通して」per-の意味をもつことは、その来歴について何ほどかのことを語っているとは考えられないだろうか。〈素顔〉に対する〈仮面〉が二重化された主語であり。二重化された〈意味されるもの〉であるとすれば、地謡や合唱隊に対する〈おもて〉としての仮面や舞台面は、反対に、派生的に二重化された述語であり、二重化された〈意味するもの〉であるということができるだろう。
「舞は声をもって根となす」(同前)。同一性と差異性の固定されがちな視覚空間とちがって、対象化されえぬ述語面にいわばより密接した〈声〉は、まさにどのペルソナ(仮面・役柄)のものでもありうると同時にどのペルソナにも固定的に属しないことによって、同一性と差異性のたわむれのうちに、〈おもて〉の自在なメタフォルと変身をかたどり、かたり出す〈根〉となる。》(『仮面の解釈学』16-17頁)
文中に、素顔に対する仮面が二重化された主語であり、二重化された意味されるものである、云々、とあるのは、引用の個所に先立つ次の議論を踏まえたものです。
いわく、素顔(近代的・自己同一的な自我)との対立のもとで見られた仮面(外部からかけられた覆い)が表象・現象としてしか感受されない「おもて=表面」であるのに対して、本来の〈おもて=仮面〉は、一義的に固定されることなく、自在な「メタフォル」によって変身をとげつつ、西田哲学の言い方をかりていえば、「述語となって主語とならない」根源的な述語面、目に見えぬ「心」の統一をあらわし、かたどる。
「時枝誠記の説くように、述語は、具体的場面におかれ、ひとの口にのぼることによって、完全なものとして生きる。〈仮面〉もまたこのような〈述語〉にほかならない」(9頁)。「〈おもて〉は、ものごとのあらゆるかたどりの源としての根源的な〈述語面〉であり、あらゆる同一性と差異性の源である」(10頁)。
またいわく、意味するものと意味されるものの統一としてのソシュール的な記号の概念をもってしては〈おもて〉はとらえられない。〈おもて〉に対応する客体、充実した現前をもった実体的なものが考えられないからである。強いていえば、〈おもて〉は「意味されるもののない意味するもの」(ロラン・バルトがとらえたマラルメやカフカの極限のことばに似たもの)である。
「〈おもて〉とは、自我と世界、自己と他者との一切の意味づけの失われるわたしたちの存在の場の根源的な不安のなかから、はじめて同一性と差異性とが、意味と方向づけとが、〈かたどり〉を得、〈かたり〉出されてくる、まさにそのはざまの別名にほかならない。」(13頁)
ここのところは、今後機会があれば立ち帰り、あらためて沈潜し熟考するすることにしたいと思います。
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