推論的世界【12】
【12】誤謬推論─“推論”をめぐって(5)
承前。夢の推論(伝導)を稼働させる原動力であり、かつその成果物でもある「逆理」をめぐって。
ドゥル-ズ/ガタリは『アンチ・オイディプス』で、「オイディプス」とは「内なる植民地」であり、「誤謬推論 paralogisme」こそが「精神分析が無意識を去勢し、去勢を無意識の中に注入する[オイディプス化の]操作」であるとして、「かつ」(連言:∧)、「または」(選言:∨)、「ならば」(含意:⇒)、「同じ」(同値:=)、「でない」(否定:¬)という五つの論理詞に関連づけて論じていました。
私はこれに触発され、かつ木村敏著『時間と自己』の議論をそこに織り込んで、人間社会に病理現象をもたらすものとして誤謬推論を捉えたことがあります(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第48章4節)。
以下は、その簡略版です。
……第一の誤謬推論は、個人と個人のいまここでの部分的かつ特殊的な結合(A∧B)の中から、一般化された普遍的な関係、すなわち共同性を抽出することである。
第二の誤謬推論は、このような共同性を実体的な価値として外在化させ、二者択一的緊張をはらんだ関係(A∨B)のうちに受肉させることである。
第三の誤謬推論は第一と第二の誤謬推論を基礎として、異質な諸個人に同質性を外挿し、これを同一のタブローの上に並置すること、そして「~から~へ」と至る多数多様でメタフォリカルな諸個人の連鎖(A⇒B)を破壊し、「~ならば~である」という本来恣意的な因果関係のうちに編制してしまうことである。
以上の誤謬推論の結果、すべてはトートロジカルな相互同質性をもって融合し、社会は“共同体”として実体化され、「イントラ・フェストゥム」(祭のさなか)的な病理現象──そこでは、あたかも終わりなき祝祭のさなかにあるように、社会は外部性と他者性から遊離し聖なる自己のイメージに自縛されている──を呈することになる。
第四の誤謬推論は、第三のそれが諸個人の連鎖の多数多様性を破壊することで生成させた因果的世界の恣意性・無根拠性を隠蔽し、これを基礎付けるため、外部世界を消去し、もしくは超越的・象徴的な外部世界を仮構し、因果的世界に禁忌(抑圧)あるいは全員一致の排除のルールを外挿することである。
禁忌の対象とされあるいは排除されるもの、つまり虚構の他者(あるいは内部の敵、スケープゴート)の存在をもって、外部世界の存在証明とするまやかしの置き換え(~=A)を遂行することである。
第四の誤謬推論が蔓延する時、社会は「ポスト・フェストゥム」(祭のあと)的な病理現象──そこでは、社会は聖なるものとの合一がもたらす祝祭的な眩暈から醒めた、日常的で慣習的な役割関係が支配する儀礼的な世界となって現れる──を呈することになる。
第五の誤謬推論は、第四のそれと類似した推論を、置き換えではなく否定(¬A=~)の操作を介して行うことである。すなわち、因果的世界の恣意性・無根拠性の基礎付けを、いまここにではなく否定という人為的な操作を介して虚構の過去に求めること、因果的世界の自己完結性を後から遡及させることである。
社会の「アンテ・フェストゥム」(祭のまえ)的な病理現象──そこでは、社会は外部の荒々しい力による聖性破壊への予兆に染め上げられ、純潔無垢な共同体の価値を保全するため細胞分裂さながらに内部検閲作業に明けくれる──において、外部からの危機(否定)という虚構を介して観念される「純潔無垢な共同体の価値」とは、まさに第五の誤謬推論が導き出す仮構である。……
以上を参照しながら、私は、(夢の推論のプロセスを誤謬推論の進行と類比的に捉えつつ)、五つの誤謬推論を──第四の誤謬推論(~=A)と第五の誤謬推論(¬A=~)を一つ(¬A=A)に合成して──四つに集約し、これを帰納・演繹・洞察・生産の推論形式に対応させて考えました。
そして、誤謬推論(夢の推論)の起点にして終点でもある四つの「逆理」[*]──「内と外の往還」「裏と表の縫合」「一と多の連結」「無と有の反転」──を導出したことがあります(「哥とクオリア/ペルソナと哥」第48章3節、ただしそこでは「逆理(パラドックス)」ではなく「アナロジー」として考察した)。
判じ物めいた生硬かつ強引な記述になりますが、以下、その‘要点’のみ掲げます。
【帰納/A∧B】
virtual かつ real なフィールド(潜在)から actual かつ real なフィールド(顕在)へと、“力”のはたらきを通じて立ち現われる、「部分がすなわち全体である」ような「A=内側からの視点(現実)でもB=外側からの視点(虚構)でもないもの」が表現される。(内と外の往還)
【演繹/A∨B】
actual かつ imaginal なフィールド(表、浅い夢)が virtual かつ imaginal なフィールド(裏、深い夢=無)へと落ち込み、「いま・ここ」という現実性が星雲状に分岐・増殖し無限に織り重なってネットワーク化していく。(裏と表の縫合)
【洞察/A⇒B】
actual かつ real なフィールドと actual かつ imaginal なフィールにあいわたる表層において、本来存在次元を異にするA=実像とB=虚像が「A→B」(見立て)と「A←B」(見顕し)の相互反転を繰り返しながら深層における同一性(A=B)を回復する。(一と多の連結)
【生産/¬A=A】
virtual かつ imaginal なフィールドと virtual かつ real なフィールドにあいわたる深層において“声”(死者=他者たちの記憶?)が共鳴し、「¬A=~」(有から無)と「~=A」(無から有)の逆方向のベクトルがあたかも二重螺旋のごとく絡まりあう。(無と有の反転)
以上述べたことに、かの四つの夢の体験フェーズを対応させ、これを図示しておきます。(たとえば「内と外の往還」が「虚構の現実化」となぜいかにして結びつくのか、等々について充分な説明ができていないが、これらの難点についてはいずれ機会を見て、たとえば「文法的世界」をめぐる議論のなかで解決することができればと思う。)
★帰納/A∧B :内と外の往還∽虚構の現実化/様相
★演繹/A∨B :裏と表の縫合∽時間の変容/相・時制
★洞察/A⇒B :一と多の連結∽自己の分裂/人称
★生産/¬A=A:無と有の反転∽他者への変身/態・法
《洞察》
【現】
γ ┃
←─╂─→
│ ┃ ↑α
《演繹》【虚】━┿━━╋━━┿━【実】《帰納》
β↓ ┃ │
←─╂─→
┃ δ
【空】
《生産》
【空】:virtual 【実】:real 【現】:actual 【虚】:imaginal
α:内と外の往還∽虚構の現実化 β:裏と表の縫合∽時間の変容
γ:一と多の連結∽自己の分裂 δ:無と有の反転∽他者への変身
[*] 清水高志氏は『今日のアニミズム』(奥野克巳氏との共著)において、「主体/対象」と「一/多」の二項対立に「内/外」という第三の対立を組み合わせた「トライコトミー trichotomy」のアイデアを提唱し、これを古くから二元論の克服を課題としてきた東洋の思想的営為に関連づけた。
いわく、西欧の形式論理では、古代ギリシャ以来矛盾律(Aは非Aではない)による「二者択一 dilemma」が常套であったが、インドで発達した四句分別すなわち「テトラレンマ tetralemma」では、①Aである、という命題に対して、②Aでない、という命題が立てられるのはギリシャでも同じだが、さらに、③Aでありかつ非Aである、④Aでもなくかつ非Aでもない、という二つの命題が加えられる。(81頁)
第三レンマは二元論を相対的に否定しているに過ぎず、第一レンマでも第二レンマでもない第四レンマこそがまさしく二元論の絶対的否定である。(82頁)
(第7節の註で取りあげた山内得立の『ロゴスとレンマ』は、第三レンマと第四レンマの位置を入れ替えていた。清水氏によると、第三レンマから第四レンマへの移行こそがテトラレンマの議論においてもっとも本質的なのであり、山内得立による「この操作はむしろ致命的であったといわざるをえない」(95頁)。)
《トライコトミー trichotomy 論において、「主体/対象」、「一/多」といった複数の二項対立を組み合わせることによって最終的に見出されたのは、いたるところに中心と周縁があり、それらがどこまでも可逆的な網の目状の世界、包摂(外)がまた被包摂(内)でもあるような拡張的モナドロジーの世界であった。《はじまり》も《終わり》もない無始無終の世界を考えるために、あえて状況論としての主客混淆の状態が「主体/対象」、「一/多」という二項対立によって考察され、アトミズム的な構成の方向づけが否定される必要があったのである。──そこにおいてようやく、無数の結節点を持つ網の目状の世界が、世界観そのものへと上向することとなり、一即多、多即一の世界が開現する。もっとも根源的なテトラレンマは無始無終であって、そこにおいて主客混淆の部分的状況の繋縛から逃れた端的な主体もあり、対象──これはもちろん自然である──そのものもある。
この自然との出会い、繋縛を離れた自由な自己との遭遇が、アニミズムという宗教体験の意味するところである。(略)無始無終ということは、生命と生命が捕食し、捕食される世界、人類とさまざまな非人類が目まぐるしくその立場を入れ替える、その意味で主客混淆の世界──仏教的にはこれは、輪廻の世界でもあろう──にあっては、その繋縛からの離脱を通じて、自己と自然をともどもにふたたび肯定するための要請でもあった。(略)
このような立場から見るならば、「主体/客体」、「一/多」という二種類の二項対立が組み合わされた主客混淆の状況は、第三レンマまでをしか実現していなかった。しかしそこを経由して、「内/外」(被包摂と包摂)という二項対立が連鎖的に調停されるようになると、それらの両極のいずれにも一方的に還元されないというかたちで、無始無終の第四レンマが明確に実現し、先の三種の二項対立のいずれもについてそれが成立し、しかも第三レンマまでとの対比で言えば、端的な主体や対象、端的な一と多(この場合、むしろ全)もこれによって明らかになったのである。》(『今日のアニミズム』223-225頁)
私は清水氏の議論に強烈に惹かれているが、その実質をつかみきれていない。だから四つの「逆理」(テトラコトミー?)をめぐる本文の叙述に生かすことができなかった。ただ、その議論の射程が夢の推論の世界に及び、かつ、それがおそらく旧石器時代の洞窟を舞台とする“はじまりの論理”や“はじまりの哲学”に根ざしたものであることを教示してくれるスケールの大きいものであることは間違いないと思う。