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試合に負けて
試合の直前、彼女はひとり、床屋の前に立っていた。
勇気を出してお店に入り、女性理容師にすぐに案内された。
床屋のカットチェアに座る、彼女はどこか遠くの景色を見つめるような目で鏡を覗いている。
なぜか、しばらく無言で、やっと決意が固まったのか、ベリーショートにして、耳をしっかりと出すようにと注文した。
その髪型が、鏡の中で自分の顔をすっきりと引き締めた。
その女性の名は、瑞希(みずき)。プロの運動選手として活躍してきたが、最近は調子を崩し、試合に負け続けていた。
試合での敗北が続くにつれて、心の中に蓄積された疲れが、少しずつ表情にも現れてきた。
今日は、バッサリですね。本当にいいんですか?と理容師の声に、瑞希はぼんやりと目を向けた。
彼女はあまり、髪のことにこだわりがない。だからカットを床屋に来ただけだった。
「ベリーショートにして、耳を出してほしい。」
理容師は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに優しい笑顔を見せて答える。
「わかりました、すっきりしますね。」
瑞希は鏡の中で自分の姿を見つめながら、過去の試合を思い出していた。あの試合のことを。何度も負けては、涙をこらえてきた自分がいた。今思えば、その涙は単なる敗北に対する悔しさだけでなく、自分を信じきれなかった自分への悔しさでもあった。
「どうしたんですか?」
理容師の声が、瑞希の思考を中断させた。振り返ると、彼女の顔には心配そうな表情が浮かんでいる。
「え?あ、何でもない。」
瑞希はにっこりと笑って言ったが、その目にはどこか痛みを感じさせるものがあった。それに気づいた理容師が、刈り上げる手を一度止め、軽く口を開いた。
「もしよかったら、話してみてください。試合、うまくいかなかったんですね?」
瑞希はその言葉に、ふっと肩を震わせた。少しだけ沈黙が流れる。その沈黙が、瑞希の心に深く響いた。
「うん、最近はずっと負けてばかりで…。自分が思ってる以上に、精神的にきてるみたいで。」
理容師は瑞希の髪を切りながら、静かに頷いた。しばらくすると、理容師の声がまた響いた。
「でも、勝つためには、まず自分を信じることが大事ですよ。自分に何ができるか、何をしなければいけないのか、それを理解しないと。今日みたいに髪をスッキリ切るのも、その一歩かもしれません。」
その言葉が瑞希にじわっと染み込む。何かが心に響いた。理容師が切り終えたとき、瑞希は改めて鏡を見つめる。
刈り上げられた髪からは、重さが取れてすっきりとした印象を与えていた。耳を出すことで、瑞希の顔立ちが一層際立ち、どこか強さを感じさせる。
「どうですか?」
理容師が笑顔で尋ねると、瑞希もまたその笑顔を返した。
「すごくスッキリした。ありがとう。」
その後、試合の日が訪れた。瑞希は、少し前に自分がかけた言葉を思い出していた。「自分を信じること」。それがどれだけ大切なことか、心から感じた。試合の前に、自分を信じる力を込めて髪を切ったことが、少しずつ自信に変わっていった。
試合が始まると、これまでのように心の中で自分を疑うことはなかった。集中力を高め、冷静にプレーを重ねる瑞希。しかし、試合が進むにつれて、相手の強さが予想以上だったことに気づく。
そして、最後の一歩が届かないまま、試合は終わった。結果はまたしても、敗北。しかし、今回は涙をこらえられなかった。試合後、瑞希はひとり、ロッカールームで静かに涙を流した。
彼女の心の中では、敗北の悔しさと同時に、少しだけ前向きな気持ちが芽生えていた。それは、あの床屋でのひとときのように、何かが自分を変えていく瞬間だったからだ。
涙を拭い、瑞希は深く息をついた。
「まだ、諦めない。」
彼女はそう呟きながら、再び前を向いた。そして、次の試合に向けて、さらなる努力を重ねていく覚悟を決めた。
髪を刈り上げたその日から、瑞希の新たな戦いが始まったのだった。