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日本「平和強国」への夢 #2


文明の概観


文明といっても様々な考え方があり正確には語ることはできない。専門的なことは学術書等で調べてほしい。ここでは主題論述に必要なことだけを少し概観する。

キリスト教文明


2024年現在は文明の端境期である。村山氏によれば1975年から2075年の100年間で主役が西洋から東洋に交替することになる。1200年以降イタリア、スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、アメリカと引き継がれてきた覇権は東洋に移行することになる。

キリスト教文明は400年から1200年期、中世暗黒時代とも呼ばれてきたように、人口が減少し交易が衰退、文化の香りが全くしない時代である。特に都市を中心にイスラーム文明が栄えてから今のヨーロッパは辺境だった。

ギリシャ文明


紀元前400年から400年までギリシャ文明とローマ文明の興隆期である。現在のギリシャ地域において旧人の活動が6万年前から確認され、前3000年位から文明の痕跡が発見された。エーゲ文明と呼ばれている。トロイア、ミケーネ、ミノアや古くはキクラデスなのど文明がある。この時代の記憶が叙事詩となり、ポリス成立以後のギリシャ文明、そしてギリシャ文明のルネサンスとして今日の西洋文明の興隆に引き継がれていく。

ギリシャ文明はバルカン半島の突先、西はイオニア海、東はエーゲ海、南は地中海に囲まれた半島と島嶼部に盛衰した。主役はエーゲ海に面したアッティカ半島のアテネとペロポネソス半島のスパルタだ。

民主制のアテネでは科学や芸術が発展した。ペリクレス時代には美術が隆盛を極めた。ペロポネソス戦争後はソクラテス、プラトン、アリストテレスなど歴史に名を止める哲学者が活躍している。

マケドニアがギリシャを支配した時代をヘレニズム時代という。マケドニアの王アレクサンドロスは東方に大遠征を行い、インダス川へ到達する大帝国を築いた。ポリスも連邦を築いて生き残る。

しかしイタリヤ半島を統一したローマが徐々に勢力をバルカン半島に拡大し、前197年マケドニアはギリシャから撤退する。一時的にローマはギリシャの自由を宣言したが、その後ポリス連邦はローマと対立し、前146年ローマに敗れギリシャの独立は失われた。

ローマ文明


ローマは紀元前753年トロイアの将軍アエネーイスが建国の祖とされる。このことにより古代ローマと古代ギリシャが文化的に深いつながりがあるとされている所以である。紀元前509年までを王政ローマ、前27年までを共和制ローマ、その後を帝政ローマという。

ギリシャ、ローマ文明の栄華は313年西ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世(324年に再統一しローマ帝国となる)と東ローマ帝国皇帝リキニウスがミラノ勅令を発してキリスト教を公認し、その後392年にテオドシウス1世によってキリスト教がローマ帝国の国教となることで終焉する。

イスラーム文明


西アジアはでは東ローマ帝国がコンスタンティノープルを首都として栄えていた。その後歴史では東ローマ帝国をビザンツ帝国と呼ぶようにギリシャ化が進む。しかし、東ローマ帝国はキリスト教国(コンスタンティノープル総主教)だ。ここで事件が起こる。

529年東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスはギリシャの学問は、多神教によるものとして、プラトンが創設したアカデミアを突如として閉鎖、文献を廃棄し学者を追放した。この事件で、ビザンツ帝国が引き継いでいたヘレニズムの文化や学問はユスティニアヌス帝時代に喪失の危機にさらされる。

多くの日本人が知らない事実として、ギリシア愛護主義(フィルヘレニズム)がある。西欧の多くの学者はルネッサンス以後の西洋文明の興隆期が西欧がギリシャ文明を直接引き継いだと主張しているが事実ではない。事実はイスラーム文明が様々なギリシャ文明を受け継ぎ、その蓄積によってルネッサンスが起こり、西欧文明に引き継がれたのだ。

ビザンツ帝国から逃れた学者たちはギリシャ語の文献研究をひそかに続けていた。ギリシャ語の文献はおもにトルコ南部のハッラーンとイラン西部のジャンディシャブールに集められてシリア語に翻訳された。

そしてアッバース朝の頃バクダートに集められ、知恵の館でギリシアの哲学書や科学書、医学書などの文献をアラビア語への翻訳を大規模に行った。ムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒たちとの共同作業によって、ほとんどすべてのギリシア語文献が、アラビア語に翻訳された。

イスラーム文明はこれらの成果を利用して発展することになる。数学では、幾何はギリシャからの遺産だが、代数では、インドの十進法や0の概念を取り入れたアラビア数字を使用して代数学を発展させている。

そのほか医学や哲学、光学、天文学、地理学なども研究された。またイスラーム教が「商人の宗教」といわれるように世界各地とムスリム商人が交易をおこなう過程でそれらの文化や科学が拡がったといえる。唐の都長安もそのうちの一つである。

中世キリスト教文明が十字軍によって、イスラーム文明を征服しようとしたことの結果、イスラームが受け継いでいたギリシャ・ローマ文明の成果を西欧に持ち帰ることにって、ルネッサンスが起こり、その後西欧文明が興隆することになったのだ。

中華文明


400年から1200年の東洋文明の興隆期である。大陸中原では、群雄割拠の春秋戦国時代を前221年秦始皇帝が統一したが、その後劉邦が漢を起こす。日本人がみんな大好き三国時代から五胡十六国時代の過渡期を経て、隋が中原を再統一して、唐、宋(五大十国)と漢族による王朝を経て、世界帝国で征服王朝の元が過渡期となる。

唐代は漢詩が黄金時代とされている。玄宗が即位した712年から死去する762年までの期間を盛唐というが、誰でも名前を聞いたことがあるであろう李白や杜甫は、この時代を代表する詩人である。また、西遊記の原書で天竺での見聞録である大唐西域記を著した玄奘三蔵はこの時代の僧である。

水墨画では、宋代の南宋末期の画僧・牧谿の瀟湘八景図は足利幕府の三代将軍であり、太政大臣になった足利義光の秘宝として特に有名である。瀟湘八景図はその後、信長や家康の手にわたり今日までその価値が色あせることがない。

日本王朝文明


遣隋使、遣唐使という教科書で習うようなトピックがあるように、日本はこの時代の大陸文化を吸収している。平安京は、794年の遷都以後、福原遷都(1180年)の一時を除き、1869年(明治2年)の東京遷都までおおよそ1100年間の日本の都である。

平安初期の貴族にとって「唐物(からもの)」と呼ばれる大陸からの輸入品は、献上品にするなど貴重品であった。足利幕府はこれら唐物の価値を体系化している。唐代宋代の文化は日本に大きな影響を及ぼしている。唐の政治体制や文化を吸収した後は、独自の王朝文明を築くことになる。

文化的には大化の改新以後、万葉集や古事記が編纂され《A型》、桓武天皇即位後は古今和歌集《B型》、藤原摂関政治期には清少納言の枕草子、紫式部の源氏物語《C型》など栄える。平安末期には日本化した仏教《D型》が興隆することになる。

余談


西遊記は、僕たちの世代では坊主頭の三蔵法師は夏目雅子さんで、堺正章の孫悟空だが、現在ではドラゴンボールとなり、いまだにその文化的影響は今日も継続中である。

春秋戦国時代や三国志は今も日本人はみんながい好き、中原を最初に統一したのは始皇帝の物語は漫画「キングダム」で余すことなく描かれている。



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