バベルの塔
BABEL
1910.3.28 初出
モーリス・ルヴェル 中川潤 訳
三月一日の朝七時頃、操舵手が横手に陸地を指し示した。霧が濃いせいでその陸地は見えず、われわれは帆を揚げて直進していくしかなかった。しかしながら、その陸地はよく知られていたのだ。われわれは数年来、おもに捕鯨船に物資を補給するためにこの〈南〉海域を航行しているのだから。「陸地」と呼んでいるが、要するに小島の連なりのうちで最初に見える、最も小さい島のことなのである。そこは季節を通じて植物が生えることのない場所だった。大海原には、こうした名前もなく打ち捨てられた陸地が散らばっており、それらの間を航行することによってのみ、知ることができる土地というものがあるのである。海上を航行しているからといって、地上より広い道を進んでいるわけではない。波は砂利道のようなものであり、荒れ地を行く荷車の轍と同じくらいはっきりと、船が描く航路の痕跡は遠くからでも見て取れるのである。
ふだん、われわれはその小島にほとんど注意を払っていなかった。この度はなぜだかわからぬが、迂回するために小島に近づきつつあった時、わたしはその「陸地」をじっくり観察する気になったのである。しばらくわれわれはその近くを航行した。突端は霧の中に消えていた。陸地で砕け散る波の音は弱まって聞えるようになり、やがて小島は灰色の斑点でしかなくなった。
わたしの傍らでは、手すりに寄りかかった老いたるふたりの船員が、わたしと同じように小島を観察していた。ひとりが言った。
「妙なこともあるもんだね! 島が変化してしまってる……」
ほかの島についてこんなことを言うのなら、わたしは失笑しただろう。島の形態が数カ月で変化するわけがないのだから。つまり、わたしにも島がもはや同じではないと思われたのである。確かに島の形態が変わったわけではないが、西の岬に何かが聳えていた。それは岩の塊ではなく、陸地の盛り上がりでもない。二、三千メートル離れた場所からでも確認できるほどの、整然と構築された何かなのだ。
海上では、ちょっとした変化であっても強烈な印象を残すものだ。いや、些細な出来事が退屈を紛らせてくれるということでもあるのだ! というわけでその後の航行中何度となく、わたしはこの日に見たことを思い返した。だから二カ月後の帰路に同じ海域を航行した時、悪天候にもかかわらずわたしは甲板の上に釘づけとなった。
四時頃になって、島は現れた。岩場や岬とともに、今回はもっと高く、塔のように真っ直ぐ聳えた何かが、空を背景にして現れたのである。驚くほど整然とした形態だった。わたしの認識に間違いはなかった。島に何らかの変質が生じていた。今度もまた、ふたりの老いた船員がわたしと一緒に島の様子を眺めていた。
「ご覧になりましたかね、旦那?」ひとりがつぶやいた。
「確かに見たよ……」
「どう思いなさる?……」
「塔のようだね……」わたしは困惑しながら言った。「灯台でも建てようっていうのかな……」
船員たちは首を振り、何かぶつぶつ言いながら去って行った。わたしの答えは明らかに、彼らには不満だったのだろう……わたし自身だって不満だった。この海域に灯台を? 何のために? 信天翁(あほうどり)の通り道を照らすためか、それとも極地の解氷時に流氷の衝突を見物しようとでも?……
何か反応が得られないかと、わたしは銃を二発ぶっ放してみたが、岩の間からは何の反応も返ってこなかった。影が降りてきて塔を浸し、水面をも闇が満たした……もう何も見えなくなり、船体にうねりが打ち寄せる鈍い音しか聞こえなくなった。島は闇に消えた……
この夜、船が大波を喰らい、いよいよ最後の時を迎えるのではないかと思えるほどだった。雨風が収まると、航行はいつもの平穏を取り戻した。われわれ三人は、もはや言葉を交わすことなく、視線を合わせることさえなくなった。
七カ月間陸で過ごしたあとで、十二月にわれわれはまた出港した。二週間して、例の島の海域に到達した。空は晴れ渡り海は静かだった。やっと正体を突き止められる、島に接近できると思うとわくわくした。しかしすぐに気がついたが、空に生じた影が形を取り始めた……嵐のような風が起こり、地平線の彼方から雲が近づいてきたのである。なので帆を目一杯開いて、沖に退避せざるを得なくなった。そうしないと船は沿岸に叩きつけられるからだ。何か神秘的な力が働いてわれわれを島から引き離しているかのようだ。だが例の塔が見えなくなるほど遠ざかったわけではない。何しろ以前と比べて三倍の高さになっていたのだから。幅広で表面は艶々していたが、枝々の重さで太い幹が撓むように傾いて見えた。ある種の翳りがわれわれの上に降りてきた。極地の海ではよく見られる黄ばんだ翳りだ。夜でもなければ昼でもない、冷ややかな翳り。神秘と憂愁を帯びた翳りだ。
さて、長きに渡ってわたしの思考を捉えて離さなかったあの塔が、遠ざかり消えていくのを眺めていた時だ、凄まじい波が甲板を襲った。中空に光の洞が生じ、突然、恐るべき光景を目の当たりにすることとなった。
塔が土台の上で揺らぎ、一気に倒壊したのである。海上を貫く雷鳴のような轟きが船を揺らした。だがこの轟きが凄まじかったにもかかわらず、わたしと一緒にこの光景を見つめていた乗組員たちの叫び声たるやそれ以上だった。乗組員たちは経験豊富な上に勇敢だったが、それにもかかわらず恐慌をきたして右往左往し、十字を切りながら叫ぶのであった。
「聖母様! あれは二度目に崩れ落ちるバベルの塔だ!……」
わたしはといえば、義務を忘れ、危険であるという認識も薄れ、叫んだ。
「舵棒を取れ!」
奇跡のように、海が静まった。半時間後、わたしは小舟に乗り、ひとりで島に近づいた。船員のうちでわたしについてくる者は誰もいなかったのである。
はじめは、黒ずんだ岩の堆積しか見えなかった。やっとわたしは塔に到達した。塔というより、そこから残ったものと言ったほうがよい。台座のように高くなっている場所には円柱の残骸が倒れていたが、巨人の街のために造られた下水管もかくやといった代物で、あまりに大きな表面から発する反射によって空全体が明るく見えるほどだ。表面は滑らかで長さも半端でない。花崗岩の巨大な塊に穿たれていたようにも見える。
わたしはこうした混沌の只中を進んでいった。周囲には瓦礫、瓦礫以外に何もない。瓦礫を形成している石の表面は完全に滑らかだが、人為的に磨きをかけた形跡はない。それらが巨大な塔を形成していたのだろうが――形からして明らかである――鈎釘やセメントで固めた痕跡は認められない。そんなふうに思っていると、驚いたことに釘や金槌や硝子片や金属製の箱などが備わった作業台を、わたしは見いだしたのである。そのあたりの瓦礫の塊の中から、肉の削げた手が突き出しているのが見えたので、さらに驚いた……人の腕である。わたしは瓦礫を搔き分けた、すると人間の死体が現れた。死が訪れたのはそれほど前のことではないだろう。まだ温かみが感じられたのである。凹面をなした石が死体の上に落ちていたのだが、まるで覆いを掛けて保護しているかのようだ。そして死体の左手に握られた皺くちゃの汚れた帳面がわたしの目を惹いた。それを手に取る。文字で埋められた帳面だ。はじめのほうはしっかりした文字だが、だんだんと不明確になっていく。最後のほうの筆跡はひどく震えていて、ほとんど読み取れないほどだ。ともかくも、以下のようなことが書かれていた。
《一月一日。わたしはここらあたりで上陸する。たったひとりだ。もしわたしが失敗しても、わたしの最期がどんなものだったかは誰にもわかるまい。同様にもしわたしが成功したなら、どんな智慧者でもわたしほど意気揚々と祖国に帰還することはできまい。試みの成就を前にして、これを最後にわたしは実験を再開した。幻影に弄ばれていたわけではない。空の下では全てのものが生き、成長するのである。植物は動物と同様に、石は植物と同様に成長する。石は死んでおり成長などしないと誰もが信じているが、それは成長が遅すぎるせいであって、われわれの不完全な目ではその成長を追っていけないだけなのだ。わたしが発見した物質は、素材の持つ成長力を増進させ、この成長を目に見えるものとするはずだ。わたしが微細な埃の上で得た結果は、それについて確信を抱かせるものだ。だがこの真実を紛れもないものにするためには、紛れもない証拠が必要だ。海が常に永遠の生命を植え付けている岩礁に、石を聳え立たせてやろう、水が泉から迸るごとくに。わが周囲に弧を描くように、自ら物した百リットルの液体を撒いた。わたしの居る小屋はこの巨大な円の真ん中に建っている。そこには一年分の食糧を備蓄してある。あとは栄光か死かだ……
《二月二十日。二日前から、わたしの周りで岩が膨張し始めている。とてつもない作用が塊の中で起こっている。わたしは今はまだ数センチメートルの高さの囲いに取り巻かれている。
《三月一日。自然の力は驚異的だ。囲いは高さ一メートルの塀となったのだ! 帆船が、ここから遠くない距離を航行していく……甲板にいる連中は気づきもしない!……すぐにわたしは小舟を準備して漕ぎ出した、奇跡的な発見を世界に向かって叫ぶために!
《五月。今朝は歩くのが辛かった。おそらく夜の湿気のせいだろう。塀はまだ伸び続けている。そのてっぺんはわたしの頭と同じ高さにある。微かながら二発の銃声を聞いた。帆船が通りがかりに合図をしたのか。だがひどく脚が痛むので寝床を離れられない。わが銃は小屋の奥にある。
《七月。もう二カ月間、横になっている。動くことができない。塀は新たな勢いで成長している。ここから出るために、早く恢復しなければ。
《八月十日。脚はもう死んだように動かない。冷たさが腰まで達している……このまま全身が麻痺してしまうのか?……塀は三メートル以上に達している。すごい勢いで、まっすぐに伸びていく。成長するのが見て取れるほどだ。空を見上げるためには、頭を上に向けねばならない……どうやって逃れる? 逃れられるわけがない……
《十月。両脚の感覚が完全になくなっている。先週は、食糧が置いてある場所まで這っていって、手の届く場所に置きなおすことができた。今日は、もうそんなことさえできそうにない。塀はますます高くなっている。途轍もない生命力だ! 風が小屋の屋根を引き剝がしていった。わたしを閉じ込めている塀は今や塔として、高さ八メートルを超えているに違いない。
《十一月。一カ月来、食事を切り詰めている。いかなる理由で、わたしは飢え死にせねばならぬのか?……塔は伸びていく。夜には、伸びていく際に発する乾いた音が聞こえる。井戸の底から眺めるようにしか、もはや空を眺められない。耳もとで激しい音が響いた。羽を大きく開いた鳥たちが、恐ろしい眼つきで上空からわたしをつけ狙っている。
《十二月十日。ほとんど食べるものがなくなってしまった。死が、恐るべき死がやって来る! すでにわたしの感覚は乱れている。空腹のせいなのか、衰弱が極まったか? 塔が傾いているように見える。
《十二月二十六日。わたしは幻覚にとらわれているのではない。土台が支えられないほど重みを増して、塔はゆっくりと傾きかけている。石の側面に沿ってひびが走る。ひびは拡がっていく……わたしにとって最後の瞬間が来た……ああ! 恐るべき事態!……全てが崩れる……》