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奇蹟のミサ

【モーリス・ルヴェルの本邦初訳クリスマス・ストーリー】

LA MESSE MIRACULEUSE
L’Ouest Éclair(1909.12.26)
モーリス・ルヴェル
中川潤 訳

 十一時が鳴った時、暖炉のそばの肘掛け椅子でうとうとしていた司祭様は、はっと目を覚まし、眠りの邪魔にならぬようにと額に上げていた眼鏡を下ろして、時計を見た。
 そして、安心して(というのも一瞬、真夜中、しかもクリスマスではないかと心配になったのだ)、さらに深く息を吸い、小さな祈りを捧げた。それから窓際まで行き、カーテンを開けると、月明かりで真っ白になった庭を見てから、暖炉のそばに戻り、足を温め、手を擦り、外套を羽織り、聖堂内をもう一度見ておこうと自室をあとにした。
 その夜は穏やかな静寂に浸されていた。礼拝堂のステンドグラスは柔らかな光に包まれ、緑の木々とピンクの果実の中で、髪の長い聖女たちや祈る騎士たちが微笑んでいた。
 司祭様は聖具室に入った。帽子、傘、外套を戸棚に仕舞い込むと、点検を開始した。全てがきっちりと、整頓されていた。
 香の匂いに混じってラベンダーの香りが漂ってきた。木製の背もたれ付きの藁椅子がいくつか、光沢のある床に影をつくっている。
 暖かく、清潔で、とても気持ちの憩まる刻だ――まさに神の住処としてふさわしく思われる。
 聖堂内では、寺男が粛々と、そして忙しそうに行き来している。まだ子供である祭壇係が梯子の上に乗って、最後の蠟燭に火を灯していた。光に包まれた高い祭壇の近くでは、幼子イエスが秣桶の中で眠っていた。小さな驢馬と牛が見守る中、揺り籠の前で頭を下げる聖母に向かって両腕を伸ばしながら。
 司祭様は膝をかがめて立ち止まった。何カ月も前から、わずかな予算を切り崩しながら、金色の藁でできた新しい揺り籠を買うための積立てをしていたのだ。貧しい村で主がこれほど立派に表されていると知れば、主も喜ばれるだろうと信じて。幼子イエスが、最も卑しい使用人である自分を見下ろして微笑んでおられると思えた。両手を合わせ、愛着と信仰の全てを込めてつぶやいた。
「おお主よ! 天はあなたの宮殿であり、あなたは家畜小屋を軽んずるなどありますまい!……」
 十一時半の鐘が、司祭を夢想から引き出した。最後にもう一度、全ての準備が整っているか、葡萄酒が瓶に満ちているか、蠟燭が燃えて蠟が床に垂れていないか、造花が花瓶にちゃんと収まっているか、などを確認し安心してから、聖具室に戻った。
 戸棚から最も美しいと思うレースのサープリスと、モアレ上に輝く金と鋸歯でできた十字架のついたストラを取り出し、ゆっくりと、敬虔な気持ちで、すでに礼拝が始まっているかのように、それらを身に纏った。司祭服に袖を通すと、年に一度髪を巻いてもらえる少女のごとく、小さな鏡に映る自分の身なりを見て――ただ主の栄光だけのために――歓びに浸るのであった……
 足音がすでに聖堂の中で響いていた。大粒の雪がまたしても降り出してきた。別のいつぞやのクリスマス、大地が岩のように硬くなり、道端で鳥たちが死んでしまうほどに寒かったクリスマスを思い出す。司祭様は思った。
「いいミサを執り行えそうだぞ!」それから、祭壇係の少年の耳を引っ張りながら、こう叫んだ。
「いいか、子供よ! 主はわれらを喜ばれ、ご自分の降誕のための美しい夜を、われらに与えてくださっておるのだ!」
 しかし突然、立ち止まり、耳を澄ませた。
「誰かがノックしなかったかな? 全くもって、こんな時に……」
 開いたドアから冷たい風が吹き込んできた。そして、ひとりの男が現れたのだ。雪を被り、指先は青く凍え、息も絶え絶えであるその男、最初のうちはほとんど言葉を発することができないほどであった。
「失礼いたします…… 何卒お許しを……」
 司祭様は、ここから四里四方の信徒たちを知り尽くしていたが、この顔にはいっかな見覚えがなかった。今や聖堂には人が溢れ、囁くような声や椅子を動かす音、雪を払う際の衣服が擦れる音などが聞こえてきた。騒がしさに少し気を取られながらも、司祭様は見知らぬ訪問者に対し、
「友よ、わたしはこれからミサを始めねばならない。何がお望みですか? あなたは土地の者ですか?」
「はい、司祭様、わたしは土地の者です……ここから一里のところです…… ただし、ミサに来ない者のことは、あなたさまも知らないはず…… でも父が重病なのでして……医者が言うにはもう死ぬだろうと。というわけで今、父は神様と和解しようと考えているのです…… 一生涯の間父が誓ったこと、讃えたことのために、今、少しだけ祈っていただき、そして、希望するところの赦しを与えていただきたいのです……」
「さて、わが子よ、神様はこれ以上はお望みではない。つまり、わがミサを行う時間が済み次第、わたしはあなたと一緒に行きますとも」
「あなたさまのミサについては」男は少し困惑して、「すみません……わからないのです……どのくらいかかるのでしょうか?……」
「四分の三時間……せいぜい四分の三時間というところだが……」
「四分の三時間ですか……道が悪いのでわが家まで三十分はかかります……それまでに父は逝ってしまうでしょう…… 可能であるならば、すぐにこちらへ来ていただき、ミサはその後にしていただけませんか?……」
 司祭は両腕を広げて、
「あなたねえ、それは無理な話だよ! わたしにできることと言ったら……」
 しかし、最後まで言わなかった。あまりに重大な疑問が目の前に現れたのだ。最初はそれを口に出して言う勇気がなかった。三十年間、慎ましい人々の間で祈り続けてきただけなので、大きな心の葛藤に慣れていなかったのだ。村において人生はひどく単純なものだ(庶民は些細な罪しか犯さない)。そして今や、何の準備もなく、自分の良心以外の助言もなく、最も深刻な問題に直面している。
「この者に赦しを与えることなく去らせるか、さもなくばミサを中止するか!」司祭は考え込んだ。
「主に仕える司祭たる者が、自分の誕生を祝ってくれなかったと知ったら、天なる主はどう思われるだろう!…… しかし、このさまよえる魂と〈地獄の門〉で出会い、わが過ちのせいでこの者が永遠の劫罰を受けたのだと知ったら、主はどう思われるだろう!……」
 両手を合わせ、目を天に向け、懇願した。
「神よ!われに善悪の区別がつくようにしてください。今、この瞬間、わたしが罪を犯すことがどうしても必要であるならば、あなたにとって最も苦痛でない方法を教えてください」
 男がつぶやいた。
「もしや父があなたさまに会う前に亡くなってしまったら、それはきっと神が父を望まなかったからであり……ならば全て納得できるのですが……」
 その哀れな父親が臨終のベッドで赦しを待ち、不可解で冷たい巨大な影がその額に降り注ぐのを感じている、そう思うと司祭はもはや躊躇することなく、断固として傍らの少年に言った。
「ランタンを取って来なさい、これから出かけるのだ!」
 そして、サープリスもストラも脱がず、聖油と大きな銀の十字架を持って、農夫とともに出発した。
 その時まさしく、時計は真夜中を告げた。
 ……聖堂内では、人声はすっかり途絶えていた。男も女も子供も、ひれ伏して司祭様の登場を待っていた。寺男はロープに手をかけ、鐘を鳴らす準備をしていた…… しかし司祭はやって来ない。若い女が頭を上げると、他の女が真似をし、皆が同じように頭を上げた。
「どうなさったのだ?」寺男は祭壇なる少年に言った。
 祭壇係の少年は、わからないという身振りをした。
 ひとりのとても小さな子供が、小声で言った。
「いつ、木靴の中を見ていいの?」
 パン屋の男は大胆にも、こんなことを言った。「広場へパイプを吸いに行くから、《事が始まったら》呼びに来ておくれ」
 すると、それまで秣桶の中で大人しくしていた幼子イエスが、事態の収拾がつかなくなるのを見て静かに立ち上がり、聖母を見ながら口に指を当て、そして――この時奇蹟が起きたのか、教区司祭の姿、つまりレースのサープリスと金のストラを身にまとい、祭壇の前まで降りてきたのだ。
 すぐに鐘が鳴り始め、祭壇係の少年はひざまずき、泣いていた赤ん坊は静かになり、すでに聖堂の敷居まで退いていたパン屋はパイプを空にして戻り、笑っていた少女はミサ典書で鼻を隠し、静まり返った中で、屈んだ全ての人の頭上を、目に見えない天使が通り過ぎて行った……
 信者に向かって、司祭姿の神は十字架の印を結び、こう始めた。
「In nomine patris[父の名において]……」
 そして、信者たちはひれ伏しながら、こう繰り返した。
「父、子、聖霊の御名において。アーメン……」
 祈りのざわめきが丸天井に向かって上がっていく。幼子イエスにしばしの間があった――奇蹟の中で、司祭の特徴と同時に宗教的雰囲気を帯びるのを忘れそうになったのである。
 信者たちは続ける。
「わたしは神の祭壇に近づきます。わが魂を常に新しい信仰で満たしてくださる神の。わが裁き手となりたまえ……」
 声はゆっくりとなった。歯のない老婆が少し口ごもるように、やっとのことで言い終えた。
「わたしどもの救いは、天と地を造られた主の御名のうちにあります」
 その後、みんな黙ってしまった。
「今度はわたしの番だ」とイエスは独り言のように言い、司祭の大きな声を真似て福音書の朗唱をはじめた。
 信者たちは一瞬ためらった。ある者はすでに「告白の祈り」を始めていた。静寂の中から、すばやく頁がめくられる音が聞こえ、声が口々に返答してきた。
「その時において、イエスは人々に言われた。《もし、わが後につきたいと思う者あらば……》と」
 福音書を読み終えると、イエスは一礼して祭壇に接吻すると、こう言われた。
「Orate fratres[祈れよ兄弟たち]」
 老婆はつぶやきながら、耳よりも目でよく聞いていたが、少し耳が遠いので隣の女にこう訊いた。
「もうクレド[信仰宣言]を唱えたのですか?」
「わかりません……」隣の女は答える。「もうわからない……何も理解できない……」
 信者たちは、この新しいミサの祝い方に驚いて、互いに顔を見合わせるのだった。帝政時代に従軍し、軍隊でのミサを憶えていたひとりの老いた勇士が、やや声高に、
「わたしは唯一の神、全能の父なる神を信じます」
「ああ!ああ!」イエスは思った。「忘れていた。わがミサの何たる複雑さよ!」
 そこで、時間を稼ぐべくゆっくりと、幸い一度も間違えることなく、クレドを唱えた。時計が三回打った。
「一時十五分前だな、とすると」と主は思った。「司祭が急げば、十分後にはここに戻ってくることができる」
 クレドを唱え終えると、少し時間をおいてから、深刻げだが気のない声でこう宣った。
「Dominus vobiscum[主汝らとともにあれ]――Et cum Spiritu tuo[また汝の霊とともにあれ]……」
 唱えながら、心に思っていた。
「今、わたしは皆に何を言おうとしているのだろうか? 入祭文[ミサの導入部における祈り]、福音書、クレドは唱えた。お次はパーテル[主祷文]、そして聖体拝領…… でもその頃には司祭が戻ってこよう……」
 それでも彼は始めた。
「Pater noster qui es in cœlis[天におられるわれらの父よ]……」
 信者たちの間に驚きの声が上がった。祭壇係の少年が、主のスータン[聖職服]の袖を引き、ささやいた。「オッフェルトリウム[奉納唱]を……」
 主はひどく狼狽して、「ああ、ああ」と言いながら指を浄めた。
「いいえまだです」祭壇係がささやく。「まずは聖杯の葡萄酒と水を」
 ひとりの女性が両手を合わせて、
「とんでもないこと、司祭様が正気を失っているとは……」
「もうやり遂げられない」と幼子イエスは観念したか、心の中で懇願した。
「わが父よ、まだ時間があるのなら……奇蹟を起こしてください! すぐにあの司祭様を連れ戻してください」
 一時を打ったまさにその時、聖具室の扉が開いて、司祭(本物の司祭だ)が寒さで鼻を赤くし、心臓を高鳴らせながら入ってきたのである。すると、イエスは地上の衣からするりと抜け出し、聖母と三博士の微笑みのもと、小さな驢馬と牛とともにある自分の秣桶に戻った。
 そして――誰ひとり、神でさえも考えつかなかった奇蹟が起こった。つまり――司祭様がイエスの去ったまさにその場所で礼拝を引き継ぐと、これまでに起こったことの全てが、皆の記憶から雲散霧消してしまったのである。信者たちは、自分の指の下に、正しい位置で開かれた祈祷書の頁を見つけ、司祭様は、自分がオッフェルトリウムからミサを始めたことにも気づかなかった。
 聖体拝領の後、秣桶の前を通りかかった時――幻覚か幻聴か――ささやくような声が聞こえた気がした。
「あなたは素晴らしい人です、司祭様」
 司祭はびっくりして左右を見渡したが、幼子イエスの微笑み以外には何も見い出せなかった。しかし翌日、最初のミサのために聖堂に戻ってくると、はっとして立ち止まった。前日聖母の祭壇に飾られていた紙の花の代わりに、本物の花が飾られているではないか。冬になって、金持ちだけが愛でられる貴重な花、雪百合、淡い薔薇、白いリラの花が、こうべを垂れるように咲いていたのである。その香りはとても甘く、その色はとても優しく、天国以外にはあのようなものはなかろうと、夢想したことがあったなと、その時思い出したのだった。

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