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エッセイの匿名性について考える

 文筆家の中には、エッセイストという分類がある。

 彼らは、自分の半生を振り返り、その人オリジナルの体験を克明に書き込むことで、人々の感性に訴えかける。

 時には、恥ずかしい体験談を赤裸々に語り、それをシェアすることで、生きてきた証ともいうべき爪痕を、他の人の心に残すことが出来る。

 エッセイストの作風にもよるが、それらは決して、自分可愛さや寂しさゆえに書かれているわけではないだろう。

 一流のエッセイストは、人生で経験した、心からの喜びや胸の痛みを包み隠さず語ることで、人々の共感を得るが、そこにはまさしく、身を削る思いがあり、覚悟がある。

 なぜならば、世の中には誰一人として全く同じ考え方の人間はいないからだ。


 自分の実体験や、それに基づく自分の考えを不特定多数の前に晒すことは勇気がいる。

 時には、「その考え方はおかしい」と批判を浴びることだってあるだろう。

 それでも、彼らは書く。書かずにはいられない。文章を生業とする彼らにとって、書くことは生きること。

 まるで呼吸をするのと同じように、文章で自己表現することが人生の一部になっているのだ。

 そして、自分の体験を書くことによって、人間とは何か、人生とは何かを追求し、その気づきを人に共有できる。

 誰かの心に届けてこそ、そのエッセイは意味のある作品となる。

 読者と心通わせ合う、その一瞬のために、書き続けていると言っても過言ではないだろう。


 特に、身を削ってノンフィクションであるエッセイを書くことは、自分の人生を捧げることに等しいと思う。

 彼らには、考えられるだけでも複数の困難が予想される。


 たとえば、職場で起きた問題から得た気づきを、エッセイの題材とするケースがある。

 この場合、「職場を特定されないようにする」、「職場の方々に作品を知られないようにする」、などの一定の配慮がいるだろう。

 作品内に職場の知人、友人が登場するケースもあるだろう。ただ、通常は、該当人物に作品を読まれることはない。

 そのため、現在の職場を批判するエッセイでなかったとしても、「上司や部下に読まれているかもしれない」と知っただけで、途端に文章が書けなくなる人だっている。

 身バレリスクや作品を読まれた場合の反応を気にしすぎるようになると、本当に書きたい真意の部分まで集中力が続かない。

 エッセイとは、基本的に、自分を取り巻く環境以外の不特定多数の方に読んでもらい、考える材料にしていただく方が合っていると思う。


 たとえば、家族にペンネームを明かさずに、エッセイを書いている文章家だっている。

 妻や子供のことを書いていると知られたら、途端に嫌がられ、文章にケチをつけられることだってあるだろう。

 ましてや、昔の恋愛について書いた文章を見られたりしたら、離婚の原因になる可能性だって十分にある。

 そんな危険と隣り合わせの中、それでも書くという選択をしているエッセイストもいる。


 そうした勇気と覚悟の上にエッセイを書いている方々に対して、私は一定の敬意を持っているし、彼らの匿名性は護られるべきではないかと考えている。


 エッセイストを取り巻く環境について、さらに私見を述べておきたい。 

 世の中には、その立場において知るべきでない情報というものがたしかに存在する。

 ありのままの真実を知ることが、正解だとは限らない。

 前述したように、エッセイストの作品を読んだ配偶者が、過去の恋愛エピソードに嫉妬し、離婚を思い立つくらいなら、むしろ見ない方が良いのだと思う。

 この場合、「現在の家族に見せない」と決めて過去の恋愛経験を書いている方の選択は、決して「嘘つき」だとか「不誠実」だとかいうことではなく、家族に対する思いやりの一種だろう。

 一般的に、相手のプライバシーを守るためにスマホの中身を見てはいけない、ということがモラル的にも言われている。

 一部、日記のような機能を持つエッセイも、スマホの中身と同じ部類ではないか。

 家族、および近しい関係者は、本人の許可なく作品を読み込んで一喜一憂すべきではないと思う。 

 スマホの中身を詮索しても幸せがないように、そこに幸せはない。


 また、エッセイであれ、小説であれ、実体験を交えた作品を書くのは文章家の常だ。

 多くの読者を感動させ、日本史や世界史に名を残した文豪たちの中にも、身の回りのことを書かれるので、家族にはとことん嫌がられた、という話もよく耳にする。

 川端康成然り、トルストイ然りだ。

 過去の体験や身近な体験も含めて、すべて作品として昇華していくのが文学なのだ。

それを恥ずかしいこと、我慢がならないことと感じてしまうタイプの方は、エッセイストや小説家との近しい関係には向かないのかもしれない。


 このように、現実世界での関係者に、作品をつぶさに読まれている、ということは、文筆家にとっては、大きなストレスになりうる。

 さらに極端に言えば、知人であれ身内であれ、「エッセイを事実に基づいて検証し、添削する」、もしくは、「自分の許可する範囲内でのみ書くことを許す」、という関係者が現れてきたとしたら、それは作者生命を脅かす、由しき事態だと言える。

 大事なのは、「エッセイを書いているのがどこの誰なのか」「その作品を一言一句精査しても事実と相違ないか」ではなく、「その人が何を伝えようとしているか」だと思う。

 ここを読み違えてしまう人は、そもそもエッセイの真髄に辿り着いていないのではないか。


 もちろん、書く側にだって問題点がないとは言えない。

 第一に、誰かを傷つける可能性のある文章は、書くべきではない。

 まるで鋭いナイフの如く、自分の文章が関係者を切り裂いている可能性がある。これに対する反省は、常に必要だろう。

 個人の主観を100%抜くことは難しいかもしれない。
 ただ、書いている事象を公平かつ客観的に俯瞰できているかは、日々自己点検がいる。

 自分の保身のためについ事実を歪曲して書いてしまった、という後悔があるなら、その都度書き直せばいい。

 物事に対する捉え方も、その時その時の心境によって変わってくるだろう。 


 とは言え、100%の全人類から評価されるような作品は難しい。

 もしそんな作品が書ける人がいるとしたら、それは「神様」の如き存在だろう。

 我々普通の人間が書く作品は、たった一人でもいいから、誰かの心に響くものを目指すべきだと思う。

 ただ、そのエッセイの真意を受け取ってくれるのは、意外にも赤の他人かもしれない。

 日常生活、職場での働き方、容姿などの事前情報がない方が、作品の内容のみをストレートに受け取っていただけることもあるのだ。


 以上のように、文筆家、特にエッセイトを取り巻く環境は、なかなか難しいものがある。

 文章を書くということは、生業としても特に、センシティブな分野に踏み込んでいる、という自己理解も必要だ。

 もしも、本格的に文筆家を目指していくとしたら、ある程度は家族の了解を得るための信頼関係が必要となってくるだろう。

 今回お伝えしたように、エッセイとは共感や評価を得るだけでなく、関係者の耳に入った際に、関係を悪化させる可能性のある、諸刃の剣でもあるという覚悟も必要だ。


 このような問題提起をした文章を読んだ上で、それでも挑戦することを諦めない、という方へ。

 あなたは文筆家の卵。

 ぜひ、自分の可能性を大切に、力を伸ばしていってほしい。

 心から応援しています。





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