【月刊お気楽フリーランス論 sidestory#2】11年いた大企業を退職し、中川の会社へ。働く基準について
株式会社ケロジャパンの吉河です。今回はよく訊かれる「会社を辞めた理由と、どうして中川と一緒にやろうと思ったか」について、書いてみます。長くなりそうなので、#2では「ケロジャパンに入るまで」、#3で「ケロジャパンに入ろうと決めた理由」に触れたいと思います。
まずは私の話からになること、どうかご容赦くだされば幸いです。中川の近くに浮遊していた衛星が、どうやって中川のいるフリーランスの世界にやってきたのか、という話です。
2007年、私は、年末で会社を辞めようと思っていました。そもそも就職活動のとき、まだ社会人になる自信がないうえに女子の採用はゼロ、みたいな冷え冷えの現実を前に、やる気はマイナス100℃。もう就職に何も求めないもんね、えーい遊んでやる!と、考え方を“遊ぶ”方向にシフトチェンジしていました。
仮に第1志望のところに入れたとしても、不本意なことがないとはいえない。やりたいことなんて、よく考えてもよくわからない。好きなことは趣味でいいという説もある。だったらプライベートを充実させて、仕事面では、絶対無理そうなこと以外なんだってやってみたらいいんだ。
同時に、行ったことのない場所、見たことのない風景がいっぱいあること、会わないままの人が死ぬほどたくさんいることに、「ヤバい」と焦燥感のようなものをおぼえ、社会人をしながら海外旅行をたんまりすることに決めました。本当は放浪したかったけど、それには勇気とお金がなさすぎた。
そこで「基本給と有休が確実にもらえて、10年潰れなさそうなところ」がいいという判断基準のもと、改めてノソノソと就職活動。何をやるかも大事だけど、誰とやるかはもっと大事かもしれない。OB訪問などで魅力的な先輩たちに出会い、そう考えるようになっていました。そしてまったく運のいいことに、「この人がいる会社なら」という人事担当がいた、大企業に拾ってもらえました。
やりたいこととかよくわかんないけど、自分を必要としてくれるところに行けば、そんなに不幸にはならないだろう。10年潰れなさそう、というのは、単純に転職はめんどくさかったからです。とはいえ、なんとなく20年会社員をしているイメージも湧かなかった。
そして10年間、キューバとかモロッコとか、体力がないと(贅沢旅行以外で)行きにくそうで、行ってみたいところから攻めました。まだスマホはなく、『地球の歩き方』を片手に往復のオープンチケットだけを買い、安宿に泊まる。バックパッカーとまではいかずとも、あからさまな『深夜特急』感化ちゃんです。
有言実行とばかりに10年間そんなことをしていたら、唐突に、「そろそろちゃんと働こうかな」という気分が降ってきたのでした。いや、自分でも思います。遅っ!
といって、会社ではきちんと働いていました。誰にも文句を言わせず、堂々と休みたいから。なんなら、たぶん要領良く。一方で、会社のなかでの限界も感じていました。
当初は、大きな船にのって、みんなで力を合わせて大きなことができるのは会社員ならではだと思っていたし(今も思ってるけど)、大きな会社は、やっぱり大きな会社になるだけの理由がある。超ヘンな人もいるけど、めちゃくちゃすごい人もいる。
学ぶことは本当に多かったし、そこにずっといたからこそ鍛えられたこともあります。普段目にしないところでどれだけの人が動いているか、そしてそれぞれの働く理由があることを実感したり、意味のなさそうな書類にも思わぬ意味があることを知ったり、エライ人を前にしても(見た目は)動じない度胸だけは身についたり。
そんななか、ネット時代が到来し、旅行というもののスタイルも変化をみせ始めます。旅行に出ると、下を向いて携帯を見ている人が目立つ。「どこから来たんですか?」「一緒にご飯食べませんか?」「帰国したら写真送りますね!」といった牧歌的なやり取りはなくなり、声をかけられるとむしろ警戒する。
「ネットで見た」風景を探し、まるで「確認作業」のようになりかける自分に気がついたとき、一旦ゴリゴリ旅行はおやすみしようと思いました。そしてようやく、もう一度「働く」ということに向き合い、「自分が役立つ場所」を考えたときに、「あれ、この会社ではもうやれることはないかも」と思ってしまったんです。
やれることはまだまだあったはずだ、という見方もあるでしょう。
でも、私にとっては、「やれること」が、少なくとも「自分が疑問に思わないこと」であることが大事でした。ものごとをすすめるとき、納得のできない疑問が大きいものは、「やれる」かもしれないけれど、それは自分の脳も、精神も、体も、むしばんでいく。11年の会社生活で、そのことを私は知っていました。
「“ちゃんと”働く」ということは、イコール「自分の信念と合致しているかどうか」ということ。海外旅行をしていたい、という働く理由がなくなり、会社がやろうとしていることに対峙したとき、足が前に進まない。会社と私の関係性が変わったことを突きつけられました。つまり、そこにいつづける理由をみつけられなかったのです。そして、人生の時間には限りがある。…ぷつっ。
それで特に転職先を決めたわけでもなく、やりたいことがあるわけでもなく、2008年3月末で11年勤めた会社を辞めました。vol.1に出てきますが、アルバイトで塾講師をしていたのは、その後です。
しばらくして、久しぶりに中川に会いました。中川もフリーランスで時間に自由があり、以来しばしば昼下がりの居酒屋で話し相手になってくれます。中川は当時から、「早くから開いている居酒屋」に異様に詳しい。午後3時に居酒屋さんって、このとき初めて行ったよ。
私は私で、ハワイに行ってのんびりしてこようかなー、なんて結構真剣に考えるような(ちゃんと働くつもりちゃうんかい!)、ふわふわと糸の切れた凧状態でした。当座の意思は何もなく、他の会社を見てみるのもいいかも、と声がかかった中途採用の面接を受けていたところ、ある会社に採用してもらえそうになります。
そこで、三軒茶屋の小さな居酒屋さんで、中川といつものユル時間をまったり過ごしているときに「受かりそう」という話をしました。すると酔っぱらった中川が一瞬表情をとめ、真面目な声で言ったのです。
「ちょっと待って」
確か、2008年がもう終わろうとしている頃でした。
ここから先は
「月刊お気楽フリーランス論」
フリーになってから19年、ネットニュース編集を始めてから14年、本が売れてから11年、そして会社をY嬢こと吉河と始めてから10年。一旦の総…
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?