【月刊お気楽フリーランス論 sidestory#13】中川が炎上しても平気なワケ/ 幼少期、心にとめたものが同じ、という絶対感覚。
株式会社ケロジャパンの吉河です。なんだかんだいっても、受験シーズンがやってきています。
ある時、中川と中学受験の話になったことがあります。私は家の事情で、大阪のド田舎の公立小から神奈川と東京の私立中学を受験。東京の公立小からそのまま地元の公立中へと進んだ中川に、中学受験での珍事件を話していたときのことです。
試験はいいとして、問題は面接だったんだよ!
私が育ったのは、雨が降れば土砂崩れで学校が埋まり、野球やサッカーのボールが校庭のフェンスを飛び越えたら、校外に一面に広がる田んぼの中、たい肥まみれになりながら探さなくてはいけないほど大阪の山奥。関東の学校の面接に関する情報はほとんどなく、ほぼノー対策でノホホンと乗り込みました。
敬語を間違えず、ちゃんとお辞儀をして、とにかく失礼のないようにすれば大丈夫だ――。
そう信じて来たらさ、東京とか神奈川の子って、みんなすっごい対策してきてんの!! 着ている服も、私は、自分的にめっちゃくちゃ一張羅のお気に入りの、白いふわふわのセーターと黒いスカートに、きれいめの黒いスニーカー。
母親が一生懸命揃えてくれたものだったんだけど、まわり見渡したらセーターとスニーカーなんて誰もいないの。みんなジャケットに革靴でさあ。あれはカルチャーショックだったなあ…。都会ってスゴイって。
それで、特にえげつなかったのが神奈川の学校のほうでさ。2回面接があって、1回目が集団面接なのよ。先生5人と受験生5人。2回めが校長先生と、受験生2人っていう形式だったのね(確か)。
1回目の集団面接のときに、受験番号が343番から347番の子で、私344番だったから、余裕こいてたわけ。真似できるなー良かった、みたいなさ。そうしたら、1問目が「この世の中で怖いものは何ですか、344番の人」って。いきなり「344番の人」って指名できたのよ。
えええーーー嘘でしょ、そんなアホなって思ったけど、考える時間もないじゃん? 素直に答えるしかないわけ。で、答えたのが
「暗闇」
だよ。今でも暗闇怖いし事実だけどさ、先生は、フフッてそのまま次の子を指名したのよ。関心なさげなのも傷ついたよ、子供心に。したらさ、その子、キリッ!みたいな感じで、
「私は戦争が怖いです」
って言ったのよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー! 漫画だったら、私白目むいてガーンって顔に青いタテ線入りまくりになってるところよ。「その手があったかッ!!!!!!!」って。
そうしたら、他の子たちも、次々に「アフリカの飢餓問題」「災害」みたいな答えしやがっちゃったのよ。社会派っつうかさ。
私だって戦争とか怖いのに、めちゃくちゃバカっぽいじゃん!!! いやぁさぁ、今なら、「暗闇」って答える子かわいいなって思うけどさ、当時12歳よ。絶望でしょ。終わったと思ったよねマジで。
そのあと私だけもう一回、暗闇で何か怖い経験があったのかって、先生、めっちゃ微笑みながら訊いてくるのよ。繰り返すけど、今なら優しい笑みだったかもしれないって思えるけど、当時は、「お情けだ、哀れみの笑いだ…」と思ったよね……。
正直、もうほっといて欲しいっていうか、そこから消えたかったんだけど、仕方ないから、夜、家に帰ってきたら猫がいきなり出てきてビビったこと話したよ。本当は家のトイレが超暗いほうが怖かったんだけどさ。
そうそう、ウチ、トイレめっちゃ怖かったんだよ。薄暗いうえに窓の外に細い竹が茂ってて、夜、サワサワサワって揺れてるのとか、怖くて怖くて、兄弟についてきてもらってたもん。トイレの話を隠すっていう、精一杯の見栄的なものがあったんだろうねえ。アホだよね、ほんと笑。
あとはね、校長先生との面接で、「大阪にいたらどこを受けていたと思いますか?」って訊かれて。他にどこを受けたかっていう質問は鉄板みたいだけど、そんなの知らなくて、フツーにここだろうなっていう学校を答えたのね、でも後から父親にその学校名教えたら、
「カトリックの学校の面接で、仏教系の学校答えちゃったんだ…」
って苦笑いされたよね。父もオワタって表情だったの、見逃さなかったもんね私。あともう最悪だったのが、「印象に残っている花と、その理由」。もう一人の子が、
「私はすずらんです。入学式の時に、教卓に飾ってあったのが印象的でした」
ってめっちゃくちゃ簡潔に、かっこええ話してんのにさ、私なんて、そんなの覚えてねえよって動揺してるし、絞り出した話も全然まとめらんなくて、すんごい長いの。でも、それしか思い浮かばなかったんだよ。聞いてくれる? 聞いてくれるの? 長いよ? あのさ、小学校の教科書に、「一つだけちょうだい」っていう子の話があってさ…。
戦時中の話で、ゆみ子ちゃんっていう子がいて、ものがない時代、いつもお腹が空いていて、「一つだけちょうだい」っていうのが口癖なの。それで毎回、お母さんが自分のものをあげるのね。
そんななか、お父さんにも召集令状が届いて、戦争に行くことになって、特別におにぎりが3つ配給されるの、お父さんに。でもゆみ子ちゃんが「一つだけちょうだい」、食べ終わったらまた「一つだけちょうだい」ってねだって、お父さん用のおにぎりを全部食べちゃうんだ。
そうしてお母さんに抱っこされて、出発するお父さんを駅に見送りに行って。でも、そこでもゆみ子ちゃんはまだ「一つだけちょうだい」って言っててね。困ったお父さんが、ホームに咲いていた一輪のコスモスを摘んで、ゆみ子ちゃんにあげて、そのまま行ってしまうの。
時が経って、ゆみ子ちゃんはその時のことを覚えていないんだけど、庭には一面コスモスの花が咲いているんだよ。そのシーンの挿し絵がまたきれいでね、ふわぁーーって、コスモスが咲き誇ってるなかに、ゆみ子ちゃんがいてね。
…印象に残っている花って言われたら、当時それしかなかったんだよね。てか長ッ!!! じゃない? マジで笑。これ、面接で答える話じゃないよね笑。
原稿を書きながらふんふんと聞いてくれていた中川は、私の話が一区切りつくと、こう言いました。
「知ってる。『おじぎりちょうだい』のやつでしょ」
エッ!!!!!!!! 覚えてるの? マジで?
ああ、あれは残るよなぁ…。ゆみ子ちゃん、でしょ。覚えてるよ。
逆に私が、ゆみ子ちゃんが「おじぎり」と言っていたことを忘れていました。そしてその時、私はとてもとても感動したんです。
東京と大阪で、全然別の小学校に通っていた子供たちが、漫画でもドラマでもゲームでもない、教科書に載っていた同じ話を心にとめていて、何十年も経ってからつながっていることが、なんだかすごく不思議で、驚きで、嬉しかった。
また、この花についての面接での顛末を、親以外で話したのは、中川が初めてでした。覚えているだけでなく、すっごく印象的だった、というところまでわかってもらえないと、話をしてもなんとなく私が寂しくなりそうだったから。
これまでに、子供の頃読んですごく好きだった絵本について、どうしてそれが好きだったのか力説しても、まったく伝わらないことがあって(その絵本を単に知らないっていうことじゃなくて)、しばしばポッカリした気持ちになったことがあったから。言わなきゃよかったと、思った経験があったから。
でも中川は、私が大切にしている話を覚えていて、何故それが印象深かったかまでわかってくれた。大人になってからではなく、子供の頃の心にヒットするものがシンクロしていたヤツ。私にとって中川は、そういう人でもあります。
大人になって一緒に仕事をしていて、例えばツイッター上のあれやこれやで「吉河さん、中川さんが炎上しています!」みたいな心配をされることもあるけれど、大丈夫。仕事以外、ものごとに対する意見は違うこともあるだろうけど、根っこは大丈夫。
っていうか!
私がその後、結局面接が苦手なまま大人になってしまったのはいいとして、私が受験した中学校、今年、「例年、午後に行っている人物考査(面接)は、新型コロナウイルス感染症予防のため、今年度については実施いたしません。」ってアナウンスしてんねんけど! 面接ってなんやってんやーーー!!! うきーーー!!!!!
―本年も、どうぞよろしくお願いいたします―
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フリーになってから19年、ネットニュース編集を始めてから14年、本が売れてから11年、そして会社をY嬢こと吉河と始めてから10年。一旦の総…
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