【月刊お気楽フリーランス論 sidestory#3】「この人の会社なら働きたい」と決意した3つの理由
株式会社ケロジャパンの吉河です。今回は、私が中川と一緒に会社をやろうと決断したときの思いを振り返ってみます。
ちなみにヘッダー画像は、株式会社ケロジャパンではなく、中川が2001年、屋号「ケロジャパン」として、Tシャツ屋になるべく事業を始めたときのWEBサイトのもの。いやマジお気楽っつーかなんつーか…。(なお株式会社化する前に、ケロジャパンHPは閉鎖しています。時代に逆行スタイルの理由は、またどこかで。)
〈2008年末、私は塾講師のアルバイトをしながら、ぼんやりと生きていました。
自分が好きだと思えることで、かつ喜んでくれる人がいるという実感が欲しかったのだと思います。子供たちが自分の話を求めてくれる塾講師という仕事は、存外いいかも、と思い始めた頃、事業を広げたいという中堅企業から誘いがありました。〉
私の転職話に「ちょっと待って」と言った後、中川が続けたのは、概ね次のような話でした。
・来年(2009年)会社を立ち上げようと思っている。
何故なら、今の売上規模なら、個人より法人にしたほうが税金的にメリットがあるらしい。
・しかも来年、とある本を出す予定である。(『ウェブはバカと暇人のもの』/光文社、2009年)
その本はおそらく売れて、自分は今よりもっと忙しくなるだろう。
・しかし自分は経理関係の処理がとても苦手である。
それを担ってくれないだろうか。
そのうえで、中川は、「でもまだ、十分な給料を払い続けられるという確証はない。だから、当面は“外注”として、やった分だけ支払う、アルバイトのような形でお願いしたい」こと、「でも必ず従業員にしたいと思っている(から、転職はまだしないでほしい)」といったことを話してくれました。
この話を聞いた私の感想は、「誠実な人だな」でした。払えないものは払えないもんね。人を一人雇うなんて、相当な責任も発生するもんね。そしてこの中川の仕事に対するスタンスを見て、私が「あ、この人となら一緒に走ってみたい」と思った理由は、3つありました。
1)お金に対してきれいである。
2)手応えのある仕事をした結果、どうなるかという予測がつく。あるいは目標、こうあってほしいという希望がある。(※)
3)自分の苦手分野がわかっている。
(※:Tシャツ販売に関しては、憧れが先行しすぎて、結局儲けられる事業にならなかったので、「仕事」としては不問ということで…。手応えがなさすぎて、当時中川の周辺にいた人たちは、膨大に余ったTシャツをバンバン貰いました。今となっては貴重品!)
またそれ以前に、中川という人を端的に表わしているような気がした、目からウロコ、青天霹靂、その手があったかエピソードもありました。
飲んでいる真っ最中、中川が何やら電話をかけています。
「あの、中川と申しますが…」
お、仕事かな。静かにしていよう。
「あぁ、ええっと……立川の。立川の中川です」
えええーーーーーー!!!!!!
これって、たぶん「どちらの中川様ですか?」とか聞かれたやつだよね? 「博報堂の中川です」とか、「テレビブロスで編集者をしている中川です」とか名乗るパターンのやつ。
今はフリーランスだし、ライターと名乗るのが気恥ずかしいのかもしれないけれど、だからといって立川! 確かに実家があるのはそこだけど! 愛着がある場所だろうけど! なんか親戚のオッサンみたいになってるやん!「博多の中川だけど、お母さんいる?」とか、「名古屋のおじちゃんの家に行く」みたいな、みたいな感じになってますけどもーーー!!!!!! でも、超合ってる。めちゃくちゃ正しい。むしろそれ。
中川の目の前で私は、文字通り、口をあんぐり開けていたと思います。
人に対して丸裸で臨むその姿勢に(実際中川は裸になっちゃうヤツだけど、ここは比喩ね、比喩)、私はノックアウトでした。
そうだ、必ずしも会社に属している人ばかりじゃない。なのに、なぜかその人そのものより、属性、そして会社名が大きければ大きいほど、そちらが信用されがちだ。別に“どこの人でもない自分”で、いいんだよね。ゆらゆらと、もしかしたら属する場所を探して漂っていた私に、このやり取りは突き刺さりました。
どんな相手でも自分を大きく見せようとしない、でも卑屈にもならない中川の強さ。そうでありたいと常々思っていて、それを目の当たりにした私に、迷いはありませんでした。
「わかった」
当時私の目には、中川は、大きく飛ぼうと思っているのに、足元でいろんなものが絡まっているように見えていたのです。苦手なことはとことん苦手で、ストレスでしかないタイプの人なんだろう。じゃあ、その絡まっている有象無象を取り払ったら、この人はどういうことになるんだろうか。そして私も、何か見たことのない景色が見えるかもしれない。
これで、他の会社に転職するという選択肢は消えました。「面白そう」というワクワク感が、中川の話のほうがよりリアルだったというだけです。しかし、中川はこうも言いました。
「でも、会社を作っても、オレ、いつイヤになっちゃうかわかんないんだよ。ある日突然、仕事も会社もやめたくなるかもしれない。それでもいい?」
オッケー。安定や保証を求めるのであれば、私だってそもそも大企業をいきなり辞めていません。「Tシャツ屋になりたい」と言って博報堂を辞めた中川ですが、当初から事業は「一人でする」と決めていたのを知っていましたし、特に驚きはありませんでした。
(ただ、あまりの忙しさに、スタッフを一人雇う方向に考えを変えたらしいメモ書きがこちらです。左が2001年、博報堂を辞めたばかりの中川的事業計画書。右がしばらく経ってからのものだと思われ、方針転換して文章書きをメインに据えるも、Tシャツ販売の夢を諦めていないことが伺えます。いつかまたケロジャパンとして、Tシャツ、作ろうな)
私はその時、一つだけ中川にリクエストしました。今、塾では小学5年生と中学2年生のクラスを受け持っていて、来年受験学年になる。彼ら彼女らの受験が終わるまでは塾での仕事を続けたい。だから、副業をしながらでもいいかな。
こうして、一年間の見習いが始まりました。
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フリーになってから19年、ネットニュース編集を始めてから14年、本が売れてから11年、そして会社をY嬢こと吉河と始めてから10年。一旦の総…
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