慈善事業はマッチポンプ
なぜ、可哀想な子どもたちがいるのか?
栄養が足りない子どもたちや、ワクチンを接種すれば生きれる命など、世の中にはたくさんの可哀想な子どもたちがいるというイメージを持たされている。
学校でも、そうした子どもたちが世界に入るということを教え、募金活動やボランティア活動などに積極的に参加する子はいい子として見られる。
これが、世間一般的な見方だろう。
しかし、そもそも、なぜそうした子どもたちが生まれたのだろうか?
21世紀になっても、依然としてこの状況に変化はない。
その状況を生んでいる本質的問題が解決しない限り、永遠にこの状況は続くだろう。
その本質的問題を考えていくと、慈善事業の本質も見えてくる。
貧困地域と歴史的背景
貧困が引き起こされた地域はすべて共通点がある。
それは、過去の歴史の中において西欧諸国からの植民地支配があった場所が貧困になっている。
例えば、アフリカ。
アフリカは、原住民が他地域に奴隷として連れて行かれた。その結果、現在アフリカで貧しい国は、奴隷として連行された国なのだ。
アフリカでも、豊かな地域はあるが、しかし貧富の差は大きい。南アフリカのように、白人至上主義を長年貫いてきた国ほどでなくとも、宗主国人と現地人とでは大きな差がある。
東南アジアも同様だ。また、南アメリカ。
過去の植民地支配は未だに引きずっている。革命なども起こったが、結局は支配層が入れ替えされただけで、本質的な状況に変化がない国もある。
軍事政権などはその典型だろう。
白人至上主義からの脱却
第二次世界大戦は、白人至上主義との戦いであったとも言える。日本も大東亜共栄圏の理想を掲げ、アジア・東南アジア地域の開放を目指していた。
結果として、東南アジア諸国は独立を果たせた地域が多い。インドもイギリスからの独立を起こすきっかけは第二次世界大戦だった。
その後、クロード・レヴィ=ストロースの構造主義が発表され、ようやく白人至上主義から脱却できたようにも見えたが、未だにこの問題は根深いと感じる。
ユニセフは第二次世界大戦の戦後処理事業だった
世界で最も有名な事業団体である、ユニセフは、設立が1946年に国際連合の補助機関として設立された。設立目的は、子供を主とした戦後の緊急援助。
あの戦争から約80年たった今でも、活動を続けている。
ただ、活動内容は常に変わってきており、最近では永遠に援助し続けなければならない構造を変えるべく、親への栄養知識の普及なども活動内容に含まれている。
実は、ユニセフに限らず、援助自体がなくならない原因には、援助されている側が成長しないという問題もある。
紛争地域の問題
貧困が紛争を引き起こし、紛争によってまた貧しくなっていく。この負の無限循環から抜け出せなくなってしまっている地域がいくつかある。
その地域では、難民支援や支援物資、支援金などを提供しても結局は戦争継続のための戦費や物資に当てたれてしまうケースも多い。
実際に、支援物資などが本来必要としている人たちに届かないという状況も少なくない。
ユニセフの活動は主に紛争地域での児童支援が主体になっているため、紛争がなくなれば、必然的にユニセフの活動もなくなるはずなのだが、未だに積極的に活動をしている。
ということは、紛争は引き続き継続されているということだ。
紛争地域の殆どはアフリカに集中している。アフリカ大陸に白人が入ってこなければ、このような自体にはなっていなかっただろう。
自分たちが原因だが、素知らぬ顔して慈善事業
人種差別などは、その意識を持っている大人たちが原因になっている。日本は単一民族だから差別が無いと思われがちだが、学校でイジメや会社でのイジメなど差別構造は常にどこにでもある。そこに、肌の色の違いなど見た目の違いが出てくれば、はっきりと差別される。
白人に限らず、人は誰かよりも優位性を確保したい生き物だ。自分より弱い立場のものに対して傲慢になる。
産業革命以降、西欧は急速な発展を遂げ、その勢いは止まらず世界へと向かっていった。その結果、黒人奴隷や植民地問題など、様々な根深い問題を生むこのなった。
産業革命がこの問題引き起こしたのかというと、そうではない。
資本主義の思想にこそ、世界を不幸にする要因がはらんでいる。
経済発展の原動力は、間違いなく資本主義だが、資本主義は貧富の差を生むことも間違いない。
資本主義上では、固定資本と流動資本、固定負債と流動負債によって、つねに貧富の差がバランスしている。
資本主義の枠組みに無理組み込んだ挙げ句、貧富の差が生じ、貧困層が生まれ、紛争へと発展していくという構造だ。
原因を作っているのは自分たちなのに、その原因と向き合わず、慈善事業でその罪悪感を緩和させているに過ぎない。
だから、慈善事業はマッチポンプなのだ。