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小代焼と加藤清正
小代焼中平窯の西川です(^^)
ネット上に小代焼と戦国武将・加藤清正の関連について言及するサイトが散見されますが、個人的に小代焼の歴史が混乱している昨今の状況に危機感を抱いています。
小代焼は細川家の肥後(熊本)入国に伴った上野焼の陶工が、熊本県北部の小代山(現:小岱山)周辺で約400年前に焼き始めた陶器です。
戦国武将として加藤清正は有名であり人気もあることは事実ですが、
加藤清正と小代焼を結びつける物証・文献は今のところ発見されていません。
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現存する最古の小代焼窯跡
古畑窯
古畑窯と小代焼の関わりについて2つの文章を引用します。
しかしその詳細は依然不明であり、やがて調査が進展して明らかになるであろう。
寛永九年(一六三二)一二月細川忠利の肥後入国後、細川家に従って豊前上野から小代に移住したという陶工との連続性は確認できない。
古畑窯で焼成された陶器は、後に同じ小岱(代)山麓で生産された小代焼と同様に朝鮮系の技術を基礎とするものであるが、17世紀の小代焼は窯跡が未確認で生産の実態がわかっておらず、古畑窯とは製品の特徴にも違いがある。
今のところ加藤氏時代の古畑窯と細川氏入国以降の小代焼との関係は不明と言わざるをえない。
確認されている中で熊本県最古の登り窯“古畑窯”が荒尾市にあります。
この窯は細川氏入国以前、加藤氏時代の窯跡と推測されています。
窯の構造や製品から見て初期の肥前陶器(唐津焼)との関係が深く、釉薬は灰釉が主体で 日常容器を主に作っていたようです。
出土した製品には周知の小代焼と異なる点が多く、小代焼発祥との関係は確認できません。
しかし、熊本県で最古の登り窯跡であり、県内の施釉陶器の創成期を知る上で重要な窯跡です。
現在は加藤氏との関わりや誰が製品を作ったかなども確定はしておらず、新たな物証や文献の発見が望まれます。
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(江戸期の小代焼)
五徳焼宣伝文
小代焼の別称として「五徳焼」が用いられたのは江戸後期のことであると考えられます。
1834年の『肥後国小代五徳焼物効能由来』は
「・毒を消す・茶をよく保つ・酒をよく保つ・生臭さが移らない・使い込んでも火に入れれば新品同然という五つの効能がある。
小代焼の陶祖が朝鮮で五徳焼を披露していたところ加藤清正に賞せられて来日。
肥後小代の麓で一子相伝で御用焼物を勤めて今に至る。」
という内容の、五徳焼(小代焼)の宣伝文でした。
上記の内容は歴史的事実というわけではなく、幕末の清正人気にあやかったキャッチコピーのようなものです。
この文書には牝小路・葛城の名前が登場しないため、五徳焼という新名称を広める目的の 瀬上窯の宣伝文であると思われます。
さらに
「これからは民間への売物を焼くことになった。好みや注文に合わせて入念に焼成しましょう。」
と注文を募っており、瀬上林右衛門らが販路拡大を図っていたことがうかがえます。
一方で牝小路又左衛門と葛城安左衛門による
『小代焼由緒并効能御尋ねニ付申上候』という文書があり、その中で小代焼には三つの効能があると述べています。
この『小代焼由緒并効能御尋ねニ付申上候』をもとに、五つの効能があるとする五徳焼の宣伝文が作られた可能性もあります。
2024年7月17日(水) 西川智成