
種の守り人—千年の知恵と明日への約束—
第1部:帰郷
シーン1-1:ノバシード社研究所

「DH-42株、発芽率98.3%、抗旱性指数A++」
村田明日香は遺伝子シーケンサーのディスプレイに表示されたデータを確認しながら、小さく頷いた。白衣のポケットからスマートペンを取り出し、拡張現実インターフェースに結果を記録する。研究室の壁一面を覆うスクリーンには、世界各地の干ばつ地域がリアルタイムで映し出されていた。鮮やかな赤が目に痛い。
「今年も東アフリカは深刻ね」
明日香は誰に言うでもなくつぶやき、再び顕微鏡に目を戻した。ゲノム編集を施した稲の細胞が、鮮やかな蛍光タンパク質に彩られて息づいている。彼女が五年の歳月をかけて開発した「ドラウト・ハンター」は、通常の半分の水でも生育する稲の新品種だ。来週の最終承認を経て、実用化へと進む予定だった。
「明日香さん、また徹夜?」
振り返ると、研究開発部門責任者の槙原啓介が優しい笑顔で立っていた。端正な顔立ちに少しだけ疲れの影が見える。彼もまた長時間勤務の常連だ。
「あと少しでデータセットが揃うので」
啓介は彼女の横に立ち、顕微鏡の画像を覗き込んだ。「素晴らしい成果だよ。君のドラウト・ハンターは、今年の飢餓指数を少なくとも12%は改善する見込みだ」
「それでも足りません」明日香は真剣な表情で言った。「毎年3%ずつ悪化していく気候変動に追いつくには、もっと革新的なアプローチが必要です」
啓介は静かに頷き、ガラスの壁越しに見える東京の摩天楼を見つめた。朝日が高層ビル群を金色に染めている。
「実はその話なんだ」彼はトーンを変えて言った。「理事会で決まったんだよ。君を新プロジェクトのリーダーに推薦した」
明日香は思わず顕微鏡から顔を上げた。
「新フロンティアプログラムだ。在来種の遺伝資源を活用した次世代品種の開発。君の故郷の…確か神代村だったか、あの地域が最初のフィールドになる」
明日香の指が一瞬震えた。神代村。十年ぶりに聞く故郷の名に、彼女は一瞬だけ戸惑いを見せた。すぐに科学者としての冷静さを取り戻し、口元に小さな笑みを浮かべる。
「光栄です。いつから始動ですか?」
「詳細は来週の会議で。その前に休暇を取ったらどうだい?五年間ほとんど休みなしだったろう」
明日香は首を横に振り、再び顕微鏡に向き直った。「結果が出るまでは」
啓介は諦めたように肩をすくめ、研究室を後にした。明日香はふとガラス越しの空を見上げた。都会の空は晴れているのに、神代村の名前を聞いた瞬間、幼い頃に祖父から聞いた「種まきの歌」が、どこか遠くから聞こえてきたような気がした。
シーン1-2:祖父の訃報
ノバシード社の社員食堂「イノベーションカフェ」は午後のひと時、穏やかな光に包まれていた。明日香は窓際の一人席で、DH-42の承認申請書類の最終確認に没頭していた。機能強化された藻類由来のプロテインボウルに箸をつけながら、彼女は半分に注意を分け、数値を検算していく。
「村田さん、着信があります」
ウェアラブルデバイスが静かに告げた。画面には「不明」と表示されている。通常なら無視するところだが、今日はプロジェクト承認の重要な日だ。明日香は応答した。
「村田です」
「あすかちゃん?村田明日香さんでしょうか」
聞き覚えのない老婆の声。だが、その訛りは懐かしく、胸に痛みが走った。
「はい、そうですが…」
「わたしは齋藤美代子です。あんたのお祖父ちゃんの隣で農家やってる者です」
一瞬の沈黙。
「お祖父ちゃんが昨夜、眠るように旅立ちました」
明日香の手から箸が落ちた。食堂の洗練された空間が一瞬にして遠のく。
「…突然でしたか?」やっと絞り出した言葉。
「いいえ、長らく具合が悪かったんです。でも誰にも言うなって。特にあんたには心配かけたくないって」
胸が締め付けられる。最後に祖父と話したのはいつだったか。三年前の正月の電話だったか、それとも四年前だったか。
「葬儀は明後日です。来れるなら来てください。無理するんじゃないよ…お祖父ちゃんもそう言ってました」
電話を切った後、明日香はしばらく動けなかった。昼下がりの食堂の喧騒が遠くでざわめいている。目の前の書類も、明日の重要プレゼンも、すべてが急に色あせて見えた。
代わりに浮かび上がるのは、祖父の大きな手のひらに包まれた小さな種の感触。稲穂が風に揺れる音。赤土の匂い。「種は命の入れ物だ」と語る祖父の穏やかな声。
「そうだ、祖父は…」
彼女は突然立ち上がり、啓介のオフィスへ向かった。今、行かなければならない場所があった。十年間、意識して避けてきた場所へ。
シーン1-3:東京から神代村への移動
東京駅のホームは、平日の午後にもかかわらず人であふれていた。明日香は最小限の荷物だけを詰めたキャリーケースを引き、新幹線の窓際の座席に身を沈めた。ウェアラブルデバイスが次々と通知を表示する。啓介からのメッセージ。「大変な時に申し訳ない。無理せず、必要なだけ休むといい」
明日香は返信しようとして、やめた。どう言葉にすればいいのか分からなかった。DH-42のプレゼンは後輩に託し、葬儀のために三日間の休暇を取った。ただそれだけのことなのに、どこか自分を裏切ったような後ろめたさがあった。
車窓の風景が徐々に変わっていく。東京の高層ビル群から、計画的に区画された郊外のスマート農業地帯へ。ドローンが列をなして飛行し、無人トラクターが整然と畑を耕している。すべてが効率的で、整然としていた。
長野行きの新幹線から在来線に乗り換える頃には、風景はさらに変わっていた。整然とした農地が、より不規則な形の田畑に変わり、山の稜線が見え始める。明日香はデバイスの電源を切り、初めて窓の外に集中した。
「この匂い…」
列車のドアが開くと、懐かしい空気が彼女を包み込んだ。東京の無臭空調とは違う、草木と土の香りが混ざり合った複雑な匂いだ。転換駅で待つローカルバスは、彼女が子供の頃に乗ったものより新しくなっていたが、乗客は格段に少なくなっていた。
バスは山道を登り始めた。舗装された道路は徐々に狭くなり、窓からは深い緑の森が見え始める。明日香は思わず目を細めた。東京では味わえない木漏れ日の複雑な陰影が、バスの床に揺れる模様を描いていた。
「神代ダム、五分停車します」
アナウンスに、明日香はハッとした。子供の頃、祖父とよく釣りに来たダムだ。水面が夕日に輝き、祖父が「ほら、明日香、この魚も命だ。感謝していただくんだよ」と言っていた記憶が蘇る。
バスはさらに山を登っていく。耳鳴りがするほどの静けさ。都会の絶え間ない背景音に慣れた彼女の耳には、この沈黙が不思議なほど鮮明に響いた。
最後のカーブを曲がると、突然視界が開けた。段々と連なる棚田が夕陽に染まり、黄金色に輝いている。その奥に小さな集落が見える。神代村だ。バスが減速するにつれ、明日香の心拍は加速した。
誰も降りる人がいないバス停に立つと、冷たい山の風が彼女の頬を撫でた。十年ぶりの故郷の空気が、都会で鈍っていた感覚を一気に覚醒させる。耳に届くのは風の音、遠くの鳥の鳴き声、そして水の流れる音。
「帰ってきたのね」彼女は自分自身に言い聞かせるように呟いた。それが喜びなのか、不安なのか、自分でも分からなかった。
シーン1-4:葬儀と再会
村の集会所は、明日香の記憶より小さく感じられた。少ない参列者が白木の祭壇を囲み、その簡素さが村の現実を物語っていた。参列者のほとんどは高齢者で、黒い服が色あせて見えるほど何度も着用されたものだと分かる。
祖父・村田正志の遺影は、彼女が覚えているより老いていた。しわだらけの笑顔に、あの優しさは変わらない。でも、彼女が知らなかった何かがその目に宿っていた。決意だろうか、それとも諦めだろうか。
「明日香ちゃん、来てくれたんだね」
電話の声の主、齋藤美代子が近づいてきた。腰は曲がっていたが、目はまっすぐに明日香を見つめていた。白髪を固く結い上げ、黒い喪服の上に白い前掛けをしている。
「美代子さん、お久しぶりです。連絡ありがとうございました」
「あんたがいなきゃ、お祖父ちゃんも浮かばれないからね」美代子は明日香の手を両手で包み込んだ。「十年ぶりかね?すっかり立派になって」
明日香は目を伏せた。美代子の手の感触があまりにも祖父に似ていて、胸が締め付けられる。
「祖父は…どうして…」
「長くはなかったよ。胃がんが見つかった時にはもう手遅れでね」美代子は静かに言った。「でも最後まで田んぼを見回って、種のことを気にかけていたよ」
種。祖父が一番大切にしていたもの。明日香は幼い頃、祖父の膝の上で種の話を聞いた記憶がよみがえる。
葬儀は簡素に進められた。僧侶の読経が終わると、村人たちが一人ずつ祭壇に向かい、焼香を捧げていく。明日香も前に進み、煙の中に祖父の顔を探した。十年前の別れ際、「大学で好きなことを学びなさい」と背中を押してくれた祖父。その後、彼女が農業バイオテクノロジーの道に進んだことを、どう思っていただろう。
「村田さん」
低い、落ち着いた声に振り返ると、黒い作業着の男性が立っていた。
「中井…達也くん?」
彼はわずかに微笑んだ。十年前の少年面影はほとんど残っていなかったが、その静かな目は変わらない。子供の頃、一緒に田んぼで遊んだ幼馴染だ。
「久しぶり」彼は簡潔に言った。「お祖父さんはみんなに慕われていた。特に最近の若い農家たちにとっては師匠のような存在だった」
明日香は黙って頷いた。祖父と村の関係について、彼女が知らないことがどれだけあるのだろう。
参列者が徐々に集会所を後にする中、美代子が二人に近づいてきた。「達也、明日香ちゃんを家まで送ってあげな。もう暗くなるし、道も変わってるだろうから」
達也は黙って頷いた。二人は集会所を出て、夕暮れの村道を歩き始めた。
「村は変わったわ」明日香は沈黙を破るように言った。
「変わったところと、変わらないところがある」達也は遠くを見つめながら答えた。「人は減った。でも、土地の記憶は変わらない」
「土地の記憶?」
「ああ」彼は説明を加えなかった。その代わり、村の現状を語り始めた。「人口は三百人を切った。若い家族は一年で二世帯が出て行ったし、学校は五年前に閉鎖された。でも、農地はまだ生きている」
夕闇が二人を包み込み始めた。街灯のない道を歩きながら、明日香は都会では決して見られない星空が広がり始めるのを感じた。その奥行きが、東京での生活がいかに感覚を鈍らせていたかを思い知らせる。
「…祖父の家はそのまま?」
「ほぼね。一人で住むには大きすぎたけど、最後まで離れなかった。千年田を見渡せる場所だからって」
「千年田…」
その名前を口にした瞬間、幼い頃に祖父に手を引かれて棚田を登った記憶が鮮明によみがえった。「この田んぼは千年も昔から、同じ家族が同じ種を植え続けているんだよ」と祖父は誇らしげに語っていた。
二人は古い木造家屋の前に立った。祖父の家だ。達也が照明を灯すと、玄関には籠に入った野菜と米が置かれていた。
「村の人たちが持ってきたんだ」達也が説明した。「お祖父さんの…そして君の帰りを待っていたんだと思う」
明日香は黙って頷いた。村の温かさに触れて、何かが胸の奥で崩れそうになった。達也と目が合い、二人は言葉にならない何かを共有した瞬間、彼は視線をそらした。
「明日、またな」
そう言って達也は夜の闇に消えていった。明日香は古い家の前に一人残され、懐かしくも見知らぬ家の扉を開けた。
シーン1-5:祖父の遺品と謎の種袋
古い木の床が明日香の足音に反応して軋んだ。懐かしい音だった。彼女は遠慮がちに廊下を進み、祖父の部屋の引き戸に手をかけた。開けると、時間が止まったような空間が広がっていた。
部屋は驚くほど整然としていた。床の間には季節の花が活けられ、水が枯れて茎が萎れていた。机の上には読みかけの本が置かれ、老眼鏡が添えられている。まるで祖父が今にも戻ってくるかのようだった。
明日香は畳に正座し、部屋を見渡した。壁には彼女が子供の頃に描いた絵が飾られ、その隣には大学入学時の写真が。祖父は彼女の人生を遠くから見守っていたのだ。
「何から始めればいいのかしら」
彼女は立ち上がり、祖父の衣装箪笥を開けた。きちんと畳まれた古い作業着、晴れ着、そして季節ごとに分類された衣服。その間から一枚の写真が落ちてきた。若かりし日の祖父と祖母、そして幼い父親が田んぼで微笑んでいる。裏には「神代村千年田・収穫祭1965」と記されていた。
祖父の机に向かい、引き出しを開ける。農作業の記録が克明につけられたノート、村の行事のカレンダー、そして古い手紙の束。明日香は手紙を一通取り出した。
「拝啓 村田正志様、米国滞在中のご協力に感謝申し上げます。在来種保存プロジェクトへのご貢献は…」
意外な発見に目を丸くする。祖父が海外に行っていたなど聞いたことがなかった。さらに引き出しを探ると、祖父の日記が出てきた。最新のものを開くと、その日付は一週間前だった。
「明日香が来る日を見ることはできないだろう。だが種は彼女が守ってくれるはずだ。今は時が熟すのを待つだけだ」
胸が痛んだ。祖父は彼女を待っていたのだ。さらにページをめくると、最後の記述が目に入った。
「本当の宝は見えないところにある。千年の記憶は土の下に。光を恐れぬ者だけが見出せる道」
暗号のような言葉に首をかしげる。その下にはさらに不思議な記述があった。
「赤き袋の中の希望。A-7、B-12、C-3」
日記を置き、部屋をさらに調べると、祖父の農作業用の長靴、雨具、そして手入れの行き届いた農具が見つかった。祖父は最期まで現役の農夫だったのだ。
押入れを開けると、防虫剤の香りとともに、整然と箱が積まれていた。どれも古いが大切に扱われた形跡がある。一番奥の箱を引き出すと、そこに赤い布でできた袋が収められていた。手に取ると、思いのほか重く、中に小さな粒のようなものが入っている感触がした。
袋の口を開けようとした瞬間、外から物音がした。明日香は驚いて振り返ったが、誰もいない。夜の村の音だ。彼女はハッとして時計を見た。気づけば夜の十時を過ぎていた。
赤い袋を手に、彼女は縁側に出た。満月が村を銀色に染め、千年田の輪郭がかすかに浮かび上がっている。風がない。虫の声だけが静寂を破る。
ふと、赤い袋の口元が少し開いていることに気づいた。中をのぞくと、小さな種が見えた。彼女は一粒を取り出した。それは見たこともない、深い赤褐色をした稲の種のようだった。
「何の種?」
種を手のひらに乗せたまま、明日香は月明かりの下で考え込んだ。ノバシード社で扱う最先端の遺伝子組み換え種子とは違う、原初的な存在感がある。祖父が大切に保管していたこの種には、どんな意味があるのだろう。
部屋に戻り、種を袋に戻した。しかし、もう一度日記の最後のページを読み返す。「A-7、B-12、C-3」とはどういう意味だろう。何かの座標?それとも暗号?
明日香は赤い袋を元の箱に戻し、押入れを閉めた。明日、もっと詳しく調べよう。今夜はもう遅い。
布団を敷きながら、彼女は自分の孤独を痛感した。この家には祖父の気配が満ちているのに、もう彼はいない。東京の自分のアパートは無機質だったが、この温かみのある空間の方がかえって彼女の孤独を際立たせた。
「おじいちゃん…何を伝えたかったの?」
窓の外から聞こえる川のせせらぎと共に、明日香は複雑な思いを抱えたまま、目を閉じた。

第2部:発見
シーン2-1:村の朝と千年田
夜明け前、明日香は目を覚ました。都会での生活リズムからすれば異常な早起きだったが、体が勝手に目覚めたかのように自然だった。窓の外はまだ暗く、ただ東の空がほんのりと明るくなり始めている。
茶たんすの引き出しから祖父の古い地図を取り出し、千年田の位置を確認する。幼い頃の記憶はおぼろげだが、何度か祖父に連れられて行ったはずだ。
「行ってきます」
誰もいない家に声をかけ、明日香は家を出た。まだ村は眠っている。鳥の声だけが静寂を破る早朝。彼女は祖父の長靴を借り、山道を登り始めた。
道は記憶より細く、蔦や草に少し覆われていた。東京の整備された公園とは違う、野生の息吹を感じる。徐々に高度を上げると、周囲の空気が変わってきた。霧が立ち込め、光が拡散して不思議な明るさを生み出している。
「ここ…」
最後の急な坂を上がると、視界が開けた。階段状に連なる棚田が霧の海の中から姿を現す。千年田だ。朝靄に包まれた風景は、この世のものとは思えない神秘的な美しさを湛えていた。
明日香は立ち止まり、ただその光景を見つめた。霧の中を透過する朝日が水面に反射し、無数の光の粒が踊っている。東京では決して見ることのできない光の現象だった。
「科学的には霧による光の散乱と反射なのに…」
彼女は思わず呟いた。研究者としての理性が現象を分析しようとする。しかし、目の前の光景はそんな分析を超えた何かを含んでいた。
石畳の細道を下り、田んぼの畔に立つ。足元から伝わる土の感触。かつて裸足で駆け回った感覚がよみがえる。彼女はしゃがみ込み、手のひらで土に触れた。しっとりと冷たく、しかし生命の息吹を感じる。微生物たちの営みが手のひらを通じて伝わってくるようだ。
祖父の言葉が蘇る。「この土は千年の記憶を持っている」
科学者としての彼女は、それを有機物の堆積と分解のサイクル、微生物の生態系として理解していた。しかし今、その科学的知識を超えた何かを感じる。
明日香は深く息を吸い込んだ。朝の湿った空気に混じる土の香り、水の匂い、そして稲の若葉の香り。それは複雑な化学物質の混合物でありながら、単純に「故郷の匂い」として彼女の中に沁み込んでいった。
水路に沿って歩き、彼女は手を水に浸した。冷たい。東京の水道水とも、研究室の純水とも違う、ミネラルを含んだ生きた水。
「ここで祖父は何を守っていたの?」
霧の中で彼女の声は不思議な響きを持った。その瞬間、風が吹き、霧が一瞬だけ晴れた。田んぼの中心に立つ一本の古い木が姿を現した。幹が二つに分かれ、天に向かって伸びる巨木。明日香の記憶がはっきりと蘇った。
「ご神木…」
子供の頃、祖父はその木の下で彼女に種の話をしてくれた。明日香は無意識のうちに、その木に向かって歩き始めていた。

シーン2-2:達也の農場訪問
ご神木から村へ下る道すがら、明日香の携帯が久しぶりに電波をキャッチした。東京からの未読メッセージが次々と届く。啓介からの「プレゼンはうまくいった。無理に早く戻らなくても大丈夫」というメッセージに安堵しつつも、どこか疎外感を覚えた。
村の小道を歩いていると、軽トラックがゆっくり近づいてきた。運転席の窓が下がり、達也の顔が見えた。
「朝から千年田に行ってたのか」
彼の視線が明日香の泥だらけの長靴に向けられている。
「ええ。懐かしくて」
「乗れよ。今から俺の畑に行くところだ」
明日香は迷わず助手席に乗り込んだ。軽トラの中は土と野菜の香りがした。ダッシュボードにはタブレットが固定されている。アナログとデジタルの奇妙な融合。
「あなたの農場って、どんなところ?」
達也は黙って運転を続け、やがて答えた。「普通の有機農場さ。五反の畑と三反の田んぼ。でもやり方は少し違うかもしれない」
五分ほど走ると、道が開け、段々畑が見えてきた。一見すると昔ながらの農地だったが、近づくにつれて明日香は違和感に気づいた。畑の一部にソーラーパネルが設置され、小さな風車も回っている。
トラックを停め、二人は畑に向かった。
「温度センサーとIoTシステムで土壌の状態をモニタリングしている」達也は無表情で説明した。「でも最終判断は自分の手と目でする」
彼は屈み込み、手のひらで土をすくった。「ほら、触ってみろ」
明日香も同じように土を手に取った。科学者として、彼女は土壌のpH、微量元素、微生物叢を分析する方法を知っていた。でも今、彼女の手のひらは別の方法で土を「読んで」いた。
「すごく…生きてる」
達也はわずかに微笑んだ。「そうだ。この土は化学肥料を一切使わず、十年かけて再生した」
彼は立ち上がり、畑の奥へと歩き始めた。明日香はついていった。
「祖父さんから学んだんだ。彼は科学を否定しなかった。ただ、それだけでは足りないと言っていた」
畑の端に小さなプレハブ小屋があり、達也はドアを開けた。中はミニ研究室のようだった。簡素な顕微鏡、培養器具、そして壁に貼られた詳細な栽培記録。明日香は驚いて立ち止まった。
「これは…」
「自家採種の実験室さ。品種改良を独自にやってる」
達也はガラス瓶から種を取り出し、明日香に見せた。「これは三年前から安定している新品種。雨にも強く、味も良い」
明日香は専門家の目で種を観察した。「交配育種?それとも…」
「自然交配だ。ただし選抜はかなり科学的にやっている」達也はタブレットを手に取り、データを見せた。「土壌微生物との相性も記録している」
明日香は驚きを隠せなかった。彼女が都会の先端研究所でやっていることを、この山村の農夫が独自の方法でやっているのだ。
「お祖父さんは、君が博士号を取ったことを誇りに思っていたよ」達也は突然話題を変えた。「毎年、君の論文を印刷して読んでいた」
明日香の胸が痛んだ。「知らなかった…」
「彼は科学と伝統が対立するものだとは思っていなかった」達也は続けた。「だから村の若者たちに、新しい農業の可能性を示せたんだ」
二人は小屋を出て、再び畑に立った。朝の光が畑全体を照らし、作物の緑が鮮やかに輝いていた。
「村田さんは晩年、ある研究に集中していた」達也は慎重に言葉を選んでいるように見えた。「千年田の古い系統の稲について」
明日香は思わず身を乗り出した。「赤い袋の種?」
達也の目が驚きで見開かれた。「見つけたのか」
「昨夜、祖父の遺品から。それと『A-7、B-12、C-3』というメモも」
達也は神経質に周囲を見回した。「ここでは話せない」彼は声を落とした。「あの種には特別な価値がある。それを欲しがる人間もいる」
「何の種なの?」明日香は混乱していた。
「千年種だ」達也は真剣な表情で言った。「公式記録には存在しない品種。この村だけで守られてきた」
明日香はバイオテクノロジー企業の研究者として、未登録の在来種の価値を理解していた。しかし達也の緊張は単なる希少価値以上の何かを示唆していた。
「それで、あの数字は?」
「地図だと思う」達也は答えた。「お祖父さんは『本当の種は安全な場所に』と言っていた」
その時、軽トラックに戻る途中、明日香のウェアラブルデバイスが通知音を鳴らした。
「村田様、ノバシード社の吉川です。お悔やみ申し上げます。お祖父様の件でお話があります」
「会社の人?」達也が眉をひそめた。
「帰る前に挨拶するつもりだった」明日香は説明した。
「気をつけろ」達也の声は低く、警戒心に満ちていた。「村田さんは最近、いろんな企業からアプローチされていた。種を求めて」
明日香は動揺を隠せなかった。会社が祖父にコンタクトしていたとは知らなかった。そして達也の警戒心は何を意味するのか。
「とにかく、その種のことは誰にも話すな」達也は真剣に言った。「特にノバシード社には」
シーン2-3:隠し部屋の発見
夕食を終えた明日香は、祖父の遺品整理を続けていた。書類の山、古い農業雑誌、そして何冊もの手書きノート。一つのノートに目を留めると、それは祖父が40年以上前から付けていた種子の記録だった。品種名、特性、収穫時期が丁寧な筆跡で記されている。
「祖父さん、これだけの記録を…」
彼女は感嘆しながらページをめくった。科学者として、彼女はこの地道な記録の価値を理解できた。しかし達也の警告が頭から離れない。なぜノバシード社は祖父にコンタクトしていたのか。
ふと、日記の「A-7、B-12、C-3」という暗号めいた数字を思い出した。何かの座標?部屋を見回すと、床に古い畳が敷かれている。A、B、Cは列を、数字は行を示しているのではないか。
明日香は畳の配置を確認した。確かに横に3列、縦に12行ほどの畳が敷かれていた。彼女は指で数えながら、A-7の位置の畳に近づいた。普通の畳に見えるが、よく見ると縁の色が微妙に違う。
「もしかして…」
彼女は恐る恐る畳を持ち上げようとした。固く感じたが、力を入れると動いた。畳を横にずらすと、床下に小さな取手が見えた。心臓が高鳴る。
次にB-12の位置の畳を調べた。同様に取手が見つかった。C-3も同じだった。三つの取手を同時に引っ張ることは不可能だ。祖父は一人でどうやって…?彼女は周囲を見回し、壁に掛けられた古い農具に目が止まった。長い柄の先に三本の紐が結ばれた道具だ。
「これを使ったの?」
明日香はその道具を取り、三つの紐の先を取手にかけた。深呼吸をして、柄を手前に引いた。
カチリという小さな音とともに、中央の畳が数センチ浮き上がった。彼女の手が震えた。畳を完全にどかすと、床下への階段が現れた。
「まさか…」
懐中電灯を手に、明日香は慎重に階段を下りた。空気が冷たく、かすかな土の香りがする。階段の先には小さな部屋があった。壁一面に木製の棚が設置され、何百もの小さな容器が整然と並んでいた。各容器にはラベルが貼られ、年代と名前が記されている。
「これは…種の貯蔵庫?」
明日香は息を呑んだ。照明を探すと、天井から吊るされたソーラー式のLEDランプがあった。スイッチを入れると、部屋全体が柔らかな光に包まれた。
壁には温度計と湿度計が掛けられ、最適な保存環境が維持されていた。科学者として、彼女はこの保存方法の正確さに感嘆した。湿度45%、温度15度。種子保存の理想的条件だ。
棚の前に立ち、彼女は容器のラベルを読み始めた。
「神代村・千年田・陸稲1972年」
「山間部・紫穂・1985年」
「渓流沿い・早生種・1991年」
さらに詳細なノートも置かれていた。開くと、各種の特性、栽培条件、土壌との相性まで記録されている。科学論文のような緻密さだ。そして驚くべきことに、DNA分析のデータまであった。
「おじいちゃんはこんな研究を…一人で?」
部屋の奥には小さな作業台があり、顕微鏡や簡易的な実験器具が置かれていた。古いものもあれば、比較的新しいデジタル機器もある。祖父は時代と共に自分の研究方法も更新していたのだ。
作業台の上に一冊の革表紙のノートがあった。表紙には「種の守り人 記録」と記されている。開くと、祖父の文字が現れた。
「私は村田正志、神代村の千年種の守り人として、先代から受け継いだ使命を果たしてきた。この記録は次の守り人へのバトンである」
明日香は感情に押しつぶされそうになった。祖父は単なる農夫ではなく、何世代にも渡って受け継がれてきた貴重な遺伝資源の管理者だったのだ。そして彼女はそのことを全く知らなかった。
ノートをめくると、守り人の歴史が記されていた。江戸時代から連綿と続く系譜。村田家は九代目だという。各時代の気候変動や病害虫との闘い、戦争の危機を乗り越えてきた歴史。そして最後のページには衝撃的な一文があった。
「次の守り人は、孫の明日香となるであろう。彼女の中に、土地と種を愛する心を見た。科学の知識と伝統の智慧を融合できる者こそ、新時代の守り人にふさわしい」
明日香の目から涙があふれた。祖父は彼女を信じていた。彼女が都会で最先端のバイオテクノロジーを学ぶことを応援していたのは、いつか村に戻り、この遺産を科学の力で守ってほしいと願っていたからだ。
しかし、彼女はノバシード社の研究者。遺伝子組み換え作物の開発に携わってきた。祖父の思いと、自分の歩んできた道の間に大きな矛盾を感じた。混乱と動揺の中、彼女は静かに呟いた。
「おじいちゃん…私に本当に守れるの?」
彼女の声は静かな部屋の中で、答えのない問いとして響いた。

シーン2-4:美代子の打ち明け話
翌朝、明日香は目を覚まさなかった。隠し部屋で夜を明かし、そのまま朝日を迎えていた。頭は混乱し、体は疲れているのに、心は奇妙な高揚感に満ちていた。
朝食を抜いて村を歩いていると、美代子の家の前に立っていることに気づいた。無意識のうちに足が向かっていたのだろう。
「明日香ちゃん?」美代子が庭先から声をかけた。「早いね。何かあったの?」
明日香の顔色を見て、美代子は即座に察したようだった。「入りなさい。話すことがあるようね」
美代子の家は古い佇まいながら、清潔で居心地がよかった。茶の間には囲炉裏があり、その上には鉄瓶がかけられている。
「座りなさい」美代子はクッションを勧め、自分も向かい側に座った。「見つけたのね、種の部屋を」
明日香は驚いて顔を上げた。「知っていたんですか?」
「ええ」美代子はゆっくり頷いた。「私も守り人の一人よ。脇役だけどね」
鉄瓶から湯気が立ち始め、美代子は丁寧に茶葉を入れた急須に湯を注いだ。
「お茶を飲みながら話しましょう。これは千年種のヨモギを混ぜた特別なお茶よ」
香りの良いお茶を一口飲むと、明日香の緊張が少し和らいだ。
「守り人の話を聞きたいの?」美代子が静かに尋ねた。
「はい…祖父が何をしていたのか、本当は知りませんでした」
美代子は遠い目をして語り始めた。「神代村の種の守り人は、平安時代末期から続いていると言われているわ。最初は山伏たちが、飢饉に備えて様々な種を保存し始めたの」
彼女は立ち上がり、古い箪笥から一冊の本を取り出した。皮で装丁された古い記録で、開くと草書体の文字が並んでいた。
「これは江戸中期の記録。その頃から村田家が守り人を担っていたの」
明日香は恐る恐る本に触れた。「なぜそこまで種を守ることにこだわるのですか?」
美代子は微笑んだ。「それは単なる種ではないからよ。私たちの先祖が何世代もかけて育み、選び抜いてきた命なの。一つの種の中に、この土地の歴史、気候、そして人々の知恵が詰まっている」
「科学的にも価値がありますね」明日香は研究者として思わず言った。「生物多様性の宝庫です」
「そう」美代子は嬉しそうに目を細めた。「おじいちゃんは常々言っていたわ。『科学と伝統は対立するものではない。本当の科学者なら、この種の価値がわかる』って」
明日香は自分の会社の研究方針を思い出し、複雑な思いになった。ノバシード社は効率と均一性を追求し、古い品種は「非効率」として価値を見出さない。
「おじいちゃんは特別な人だった」美代子は続けた。「他の守り人が単に種を保存するだけだった時代に、彼は科学的な記録を取り始めたの。DNA分析まで独学で勉強して」
「どうやって?」
「大学の研究者と交流があったのよ。お祖父ちゃんの知識を求めて、多くの学者が訪れたわ。彼らから学び、時には機器を譲り受けたりしてね」
美代子は立ち上がり、窓から外を見た。朝の光が田んぼを金色に染めている。
「お祖父ちゃんが最も大切にしていたのは、赤い袋の中の種よ。千年種と呼ばれる、この村で千年以上育てられてきた米の原種。記録のどこにも載っていない、幻の品種」
「その種は何が特別なんですか?」明日香は好奇心を抑えられなかった。
美代子は吐息をついた。「それは栄養価が高く、気候の変化に強い。何より、他の稲が枯れる塩害や干ばつにも耐える力を持っているの」
明日香は驚いた。それはまさに現代の農業研究が求めている特性だった。
「近年、様々な企業がその存在を嗅ぎつけてきたわ」美代子の表情が曇った。「特にここ一年、お祖父ちゃんは不安を感じていた。『種を守る最後の戦いになるかもしれない』って」
「ノバシード社も?」明日香は小さな声で尋ねた。
美代子はただ頷いた。明日香の胸が痛んだ。自分の会社が祖父を追い詰めていたかもしれないという事実。
「でも、お祖父ちゃんはあなたを信じていたわ」美代子は明日香の手を取った。「『明日香なら、科学と伝統の橋を架けられる』って」
明日香の目に涙が浮かんだ。「私に守れるでしょうか…」
「一人じゃないわ」美代子は優しく微笑んだ。「私も、達也も、村の仲間もいる。守り人は一人じゃないの」
朝日が部屋を満たし、お茶の香りが漂う中、明日香は初めて自分の中に芽生えた使命感を感じていた。
シーン2-5:共同蔵と守り人たちとの出会い
夕暮れ時、明日香は村の共同蔵の前で達也と落ち合った。江戸時代から残る石垣の上に建つ土蔵は、村のシンボルとして観光パンフレットにも載っていたが、今夜はどこか異質な空気を醸し出していた。
「来てくれたか」達也は声をひそめた。「みんな待ってる」
「みんなって?」
彼は答えず、蔵の裏手へと明日香を導いた。見えない場所に小さな扉があり、達也は三回ノックした後、さらに特殊なリズムで二回叩いた。扉が内側から開かれ、二人は中へ入った。
薄暗い通路を抜けると、意外に広い空間が現れた。古い梁が天井を支え、壁には伝統的な農具と現代的な分析機器が奇妙な調和を保って並んでいた。中央には大きな円卓が置かれ、その周りに十数人の人々が集まっていた。
「遅かったな」村の養蜂家の山本が声をかけた。明日香は彼を覚えていた。祖父の葬式の時に蜂蜜を持ってきてくれた温厚な男性だ。
「明日香だ」達也は彼女を紹介した。「村田さんの孫で、次の守り人だ」
部屋が静まり返った。全員の視線が明日香に向けられ、彼女は居心地の悪さを感じた。
「ノバシード社の研究員だろ?」若い女性が疑わしげに言った。彼女はスマートグラスをかけ、カジュアルな服装だが、手には泥がこびりついていた。
「そうです。でも…」
「明日香は祖父の隠し部屋を見つけた」達也が口を挟んだ。「美代子さんも彼女を信頼している」
緊張が少し和らいだ。美代子が立ち上がり、明日香の肩に手を置いた。
「皆さん、明日香ちゃんを疑うのは止めましょう。彼女は村田さんの血を引く、正当な守り人候補です」
年配の男性が咳払いをした。「自己紹介からしよう。私は田中だ。東京農業大学の元教授で、在来種保存ネットワークの一員だ」
続いて、様々な人々が名乗り出た。有機農家、種苗会社の元研究員、環境活動家、料理人、そして地元の農家たち。彼らは皆、それぞれの形で種の多様性を守る活動に関わっていた。
スマートグラスの女性は中島と名乗った。「京都大学の農学部で研究しながら、休みになると村に来て農作業を手伝っています。村田さんには本当にお世話になりました」
明日香は圧倒された。祖父の周りには、こんな多様な人々のネットワークがあったのか。そして彼らは皆、祖父を深く尊敬していた。
「では本題に入ろう」田中が言った。「ノバシード社の動きについてだ」
壁にデジタル地図が投影された。神代村とその周辺地域が表示され、赤く塗られた部分が目立っていた。
「赤い部分は既にノバシード社が買収した土地だ」田中が説明した。「彼らは戦略的に村を囲み始めている」
明日香は息を呑んだ。東京のオフィスでは、この情報を知らされていなかった。
「彼らの狙いは明らかだ」達也が言った。「千年田と、その中の千年種だ」
中島が補足した。「私たちが入手した内部資料によると、彼らは『プロジェクトミレニアム』と呼ばれる新事業を立ち上げている。耐塩性、耐乾性を持つ新品種の開発計画だ」
明日香は自分の部署で進行中のプロジェクト名を聞いて、動揺を隠せなかった。
「そして」田中が重い口調で続けた。「ノバシード社は村田正志の死を受けて、神代村全体の買収計画を加速させている。彼らは明日香さんが遺産相続することを見越して、接触を試みるはずだ」
部屋は一瞬静まり返った。
「吉川という人から連絡がありました」明日香は思い出して言った。「祖父の件で話があると」
「吉川誠だな」山本が言った。「ノバシード社の買収担当役員だ。彼は半年前から村田さんに接触していた」
明日香の心臓が早鐘を打った。会社の幹部が、彼女も知らないうちに祖父にコンタクトを取っていたとは。
「村田さんは最後まで断り続けていた」美代子が静かに言った。「でも圧力は日に日に強くなっていた」
「彼らはすでに行政にも食い込んでいる」達也は苦々しい表情で言った。「村長は既に懐柔されている」
部屋の緊張感が高まる中、明日香は自分の立場の複雑さを痛感した。彼女はノバシード社の社員であり、家族のような同僚たちがいる。しかし同時に、祖父の遺志と千年種を守る使命も背負っている。
「私は…どうすればいいのでしょうか」彼女は率直に尋ねた。
「まずは千年種を本当に安全な場所に移す必要がある」田中が言った。「そして、あなたが会社でどんな立場を取るかを決めなければならない」
中島が前に出た。「あなたは二つの世界の橋渡しになれる。それが村田さんの望みだったはず」
達也は静かに言った。「明日香、君にしかできないことがある。会社の内部にいながら、私たちの味方になれるのは君だけだ」
明日香は全員の視線を受け止めながら、自分の中に芽生えた決意を感じていた。複雑な感情はあるが、彼女の選択は既に心の中で固まりつつあった。
「千年種を守ります。祖父の遺志を継ぎます」
その言葉に、部屋の空気が変わった。彼女は初めて、守り人たちの輪の中に迎え入れられたのを感じた。
第3部:二重生活
シーン3-1:東京への帰還
新幹線が東京駅に滑り込んだ。ホームに降り立った明日香は、一週間前とは別人になったような感覚に包まれていた。人々の流れ、電子広告の明滅、無機質な駅のアナウンス——すべてが異様に感じられた。
エスカレーターを降り、改札を抜けると、都会の喧騒が彼女を飲み込んだ。周囲の人々は皆、急ぎ足で目的地へと向かっている。彼女もつい一週間前まで、その流れの一部だった。
地下鉄に乗り込む時、ふと手のひらを見た。神代村での土いじりで少し荒れている。研究室で使う滅菌手袋の中に隠れる手だが、今は何か誇らしく感じられた。祖父の血を引いている証拠のように。
マンションのドアを開けると、懐かしい自分の部屋の匂いがした。しかし、以前は心地よかったはずのその空間が、今は妙に狭く感じる。窓からは高層ビル群が見え、空の一部だけが切り取られて見えた。神代村の広い空とは違う。
スーツケースを置き、シャワーを浴びて身支度を整えると、彼女は鏡の前に立った。ノバシード社の研究員、村田明日香の姿がそこにあった。しかし、目の奥には何か新しいものが宿っていた。守り人としての自覚だろうか。
深呼吸して、彼女は会社へと向かった。
「お帰りなさい、村田さん」
「おかえり、明日香!お祖父さん、大丈夫だった?」
「論文の続き、待ってたよ」
同僚たちの声が彼女を迎えた。彼らは優しく、心配してくれていた。明日香は笑顔で応えながらも、心の中では罪悪感が芽生えていた。この人たちを裏切るような立場になってしまったのだから。
「村田、話があるよ」上司の啓介が声をかけてきた。「部長室に来てくれるかな」
会議室では三上部長が待っていた。普段は厳しい表情の部長が、今日は珍しく笑みを浮かべていた。
「村田君、お帰り。祖父上のことは残念だった」部長は形式的な弔意を示し、すぐに本題に入った。「実は良い知らせがある。君をプロジェクトミレニアムの主任研究員に任命したい」
明日香は息を飑しそうになった。プロジェクトミレニアム——神代村の守り人たちが警戒していた、あのプロジェクトだ。
「それは…大変光栄です」彼女は言葉を選びながら答えた。「でも、なぜ私なんでしょう?」
「君の研究能力は折り紙付きだ」啓介が説明した。「それに、このプロジェクトは君の祖父の土地がある神代村が関係している。地元出身者として、橋渡し役も期待している」
部長がファイルを彼女に渡した。「詳細はここに。このプロジェクトは会社の将来を左右する重要案件だ。成功すれば、君のキャリアも大きく飛躍するだろう」
明日香はファイルを受け取り、笑顔を作った。「ありがとうございます。全力を尽くします」
部屋を出る時、彼女の手は震えていた。ファイルを胸に抱えながら、彼女は心の中で祖父の顔を思い浮かべた。
「おじいちゃん、私…どうすればいいの?」
エレベーターの中で、彼女は神代村の美代子から受け取った護符を静かにポケットから取り出した。「守り人の加護があらんことを」と書かれたそれは、彼女の新たな人生の始まりを見守っているようだった。
シーン3-2:神代村プロジェクトの真実
ノバシード社35階の重役会議室。全面ガラス張りの窓からは東京のパノラマが広がっていた。明日香は会議室に入ると、予想以上の出席者に驚いた。通常の研究開発部門だけでなく、経営陣のほぼ全員が揃っていた。
「村田さん、こちらへどうぞ」
プロジェクト統括の吉川誠が椅子を示した。彼は明日香の祖父にコンタクトを取っていた人物だ。背が高く、完璧に整えられたスーツ姿の50代の男性。鋭い目つきと柔らかな物腰のギャップが特徴的だった。
「では始めましょう」CEOの西園寺が口を開いた。「本日はプロジェクトミレニアムの核心部分を共有します」
巨大スクリーンに神代村の航空写真が映し出された。赤い線で囲まれた区域が村の約三分の一を占めていた。
「現在までの土地取得状況です」吉川が説明した。「残る課題は、村田家所有の千年田と、その周辺地域です」
千年田。明日香は息を呑んだ。祖父が守ってきた場所だ。
「この土地が特別な理由を説明します」
画面が切り替わり、複雑なデータチャートが表示された。中央に「抗ストレス性遺伝子群」という文字。
「我々の調査チームが発見したのは、神代村、特に千年田周辺の特殊な環境です」研究開発担当の森本取締役が続けた。「この地域には、他では見られない土壌微生物叢と在来種の共生関係が存在します」
「言い換えれば」CEOが前のめりになった。「世界的な食糧危機の解決策がこの地にある可能性が高い」
明日香は緊張で背筋が伸びた。彼らは千年種に近づいている。
「私たちの予備調査では」森本が続けた。「この地域の在来種には、塩害、乾燥、病気に対する驚異的な耐性があります。気候変動下でも安定した収穫を可能にする遺伝子を持っているのです」
次の映像は世界各地の干ばつや洪水の様子。飢餓に苦しむ子どもたちの映像。
「2030年までに世界人口は87億人に達し、農地の40%が何らかの環境ストレスにさらされると予測されています」吉川の声が重みを増した。「このプロジェクトは人道的使命でもあるのです」
CEOが立ち上がった。「しかし、最大の障壁は村の古い慣習です。彼らは『種の守り人』という集団を組織し、在来種の保護を掲げて我々の調査を妨害しています」
明日香は動揺を隠すため、水を一口飲んだ。彼らは守り人の存在を知っていた。
「そして最大の鍵を握っていたのが、村田正志氏でした」吉川が明日香を見た。「彼は村の中心的存在で、最も貴重な遺伝資源を管理していました。我々はコンタクトを試みましたが...」
「拒絶されました」CEOが言い切った。「しかし状況は変わりました」
全員の視線が明日香に集まった。
「村田さん」CEOが微笑んだ。「あなたは我々の重要な架け橋となる。祖父の遺産相続者として、千年田の法的所有者であり、科学者として我々のビジョンを理解できる唯一の人物です」
画面に明日香の詳細なプロフィールが表示された。研究業績、経歴、そして「村田家系図」まであった。彼らは彼女について徹底的に調査していたのだ。
「正直に言いましょう」CEOは声を落とした。「このプロジェクトには二つの側面があります。公式には『持続可能な農業開発』ですが、本質は千年種と呼ばれる在来種の遺伝子を獲得することです」
「そのためには、村田家の土地と、村田正志が保管していたとされる種子コレクションが必要不可欠です」吉川が補足した。
会議室が静まり返った。明日香は頭が回転するのを感じた。彼らは祖父が隠し部屋に保管していた種子の存在まで知っていたのか。
「私が...何をすれば?」明日香は慎重に言葉を選んだ。
「プロジェクトリーダーとして、三つの役割を担ってほしい」森本が説明した。「第一に、神代村と会社の間の信頼関係構築。第二に、千年田の土地移転手続きの円滑化。そして第三に、村田正志のコレクションの科学的評価と活用です」
明日香は無言で頷いた。彼女の心は矛盾に引き裂かれていた。会社の構想は、科学者として彼女が理想とする「持続可能な食料生産」に沿っていた。しかし、その手段は祖父が命がけで守ってきたものを奪うことだった。
「質問があります」彼女は冷静さを装った。「このプロジェクトでは、地元の知恵や伝統的農法も尊重されるのでしょうか?」
「もちろん」CEOは即答した。「しかし、最終的には科学的手法による効率化が必要です。感傷に囚われてはいけません」
「村田さん」吉川が優しく言った。「あなたの祖父は素晴らしい農家でしたが、世界規模の食糧危機は解決できませんでした。しかし、あなたなら可能です。彼の遺産を世界の希望に変えられるのです」
明日香は内心の激しい衝突を感じながらも、プロフェッショナルとしての表情を保った。「わかりました。最善を尽くします」
「素晴らしい」CEOは満足げに言った。「来週から、準備チームを神代村に派遣します。あなたもできるだけ早く現地入りしてください」
会議が終わり、明日香は一人エレベーターに乗った。鏡に映る自分の顔は、いつもの研究者の顔だった。しかし内側では、守り人としての血が騒いでいた。
彼女はポケットの護符を握りしめた。「守り人の加護があらんことを」—その言葉が今、重みを増していた。
シーン3-3:内部調査と情報収集
深夜のノバシード社オフィス。36階の研究フロアには明日香の姿だけがあった。彼女の目はモニターの青白い光に照らされ、指先はキーボードの上を素早く動いていた。
「データアクセス権限が必要です」
画面上の警告に、明日香は小さく舌打ちした。プロジェクトリーダーとはいえ、すべての情報にアクセスできるわけではない。
彼女は啓介から借りたIDカードを使った。直属の上司である彼なら、より広範囲のデータにアクセスできるはずだ。カードリーダーに通すと、緑のランプが点灯した。
「ごめんなさい、啓介さん」彼女は小声でつぶやいた。
昼間のミーティングで、啓介は彼女に公開されていない資料も確認するよう示唆していた。「本当のプロジェクトの姿を知るべきだ」と。彼は何か気づいているのだろうか。
明日香はまず「神代村」で検索した。数百件のファイルがヒットする。「過去買収地域」「土壌分析」「地権者リスト」...そして「村田正志:接触記録」というフォルダ。
心臓が高鳴るのを感じながら、彼女はそのフォルダを開いた。
面談記録:2023年12月15日
対象者:村田正志(78歳)
場所:神代村・村田邸
担当:吉川誠
内容:千年種の提供と土地売却の交渉。対象者は強い拒否反応を示す。「千年種は売り物ではない」と主張。金銭的インセンティブへの反応なし。孫(村田明日香・当社研究員)への言及を避ける傾向あり。
続く記録には、祖父への接触頻度が増していく様子が記されていた。そして最後の記録。
面談記録:2024年5月3日
対象者:村田正志
場所:神代村・千年田
担当:吉川誠・森山(法務部)
内容:最終交渉。買収金額を当初の3倍に引き上げるも拒否。対象者の発言「何があっても千年種は守る。明日香にも伝えた。彼女なら理解するだろう」
備考:対象者の健康状態悪化。心臓疾患の徴候あり。継続監視推奨。
明日香の手が震えた。この面談の10日後、祖父は亡くなった。心臓発作だった。偶然だろうか?
彼女は次に「プロジェクトミレニアム:内部評価」というフォルダを開いた。そこには衝撃的な計画書があった。
フェーズ1:土地買収(進行中)
フェーズ2:種子リソース確保(村田コレクション優先)
フェーズ3:特許出願(千年種遺伝子配列・増収技術・農法)
フェーズ4:現地実験農場の設立(村民の雇用による懐柔)
フェーズ5:グローバルライセンス展開(予想収益:年間3500億円)
さらに、「村田正志死亡に伴う戦略変更」というメモもあった。
・相続人(村田明日香)へのアプローチを加速
・プロジェクト参画による心理的結合を強化
・地元への貢献をアピールし、反発を緩和
・必要であれば、強制収用も検討(政府コネクション活用)
「何てこと...」明日香は息を呑んだ。
「やはり来ていたか」
突然の声に、明日香は飛び上がりそうになった。振り返ると、啓介が立っていた。
「啓介さん、これは...」
「説明はいい」彼は疲れた顔で言った。「僕も最近知ったんだ。このプロジェクトの本当の姿を」
啓介は彼女の隣に座った。「昔、僕たちの研究は世界をより良くするためだった。バイオテクノロジーで飢餓や環境問題を解決する——そう信じていた」
彼は画面を見つめた。「今でも理想は同じだが、手段が...」
「なぜこれを私に?」明日香は尋ねた。
「君の祖父に会ったことがある」彼は静かに言った。「三年前、学会で。彼の種子保存の哲学に感銘を受けた。彼が守っていたものを、こんな形で奪うべきじゃない」
啓介は立ち上がり、別のフォルダを開いた。「これも見るべきだ」
そこには「過去案件:問題事例」というタイトルの資料があった。インドネシアの農村での種子特許紛争、メキシコでの水利権を巡る対立、そしてアフリカでの臨床試験での不正行為。すべてノバシード社が関わる事例だった。
「会社は常に表向きは『持続可能な未来』を掲げている」啓介の声が沈んだ。「でも実際は...」
「なぜこれを今?」
「私だってまだ信じたいんだ」啓介は窓の外の夜景を見つめた。「この技術が本当に世界を救える可能性を。でも正しい方法で」
彼は明日香の肩に手を置いた。「君ならできる。村田さんの孫なら」
啓介は歩き出し、ドアの前で振り返った。「あと10分で警備の巡回がある。証拠はUSBに保存しておくといい」
彼が去った後、明日香は急いで資料をダウンロードした。ポケットから護符を取り出し、握りしめた。「守り人の加護があらんことを」
彼女は決意を固めた。守るべきものは明確になった。次は行動の時だ。
シーン3-4:神代村への偽装調査訪問
「村田さん、準備はいいですか?」
調査チームのリーダー、中村がレンタカーのトランクに機材を積み込みながら声をかけた。彼はノバシード社の中堅技術者で、土壌分析の専門家だった。
「はい、大丈夫です」明日香は落ち着いた様子を装った。
彼女を含む四人のチームは「神代村環境評価調査」という名目で村に入っていた。表向きは持続可能な農業のための基礎データ収集という触れ込み。実際の目的は千年種の生育環境の詳細な分析と、村の地権者たちの態度調査だった。
「千年田に最初に行きましょう」中村がGPSに座標を入力した。「あそこの土壌サンプルが最優先です」
明日香は窓の外の田園風景に目を向けた。二週間前に別れたばかりの村なのに、帰ってきた感覚がある。東京での緊張した日々と違い、ここでは呼吸さえも自然に感じられた。
千年田に着くと、彼らは機材を広げ始めた。中村と二人の若手技術者が土壌の掘削と採取を担当。明日香はデータ記録と環境評価を任された。彼女は表面上は真面目に作業をしながら、内心では村との接触方法を考えていた。
「村田さん、この土壌の特性、異常ですよ」中村が顕微鏡から顔を上げた。「微生物の多様性が尋常じゃない。これは貴重なサンプルです」
「驚きました」明日香は本心から言った。科学者として、この土壌の価値に感動していた。「この生態系がどうやって維持されてきたのでしょう」
「おそらく何世代にもわたる伝統的な農法ですね」中村は言った。「企業的には非効率でも、こうした複雑な生態系を育むんです」
その言葉に明日香は少し驚いた。中村も単なる企業の歯車ではなさそうだ。
午後、彼女はトイレ休憩を口実に一人で村の中心部へ向かった。達也とは事前に連絡を取っており、村の古い米倉で落ち合う約束だった。
米倉に近づくと、周囲を警戒しながら中に入った。薄暗い内部で、達也が待っていた。
「無事だったか」彼は小声で言った。
「ええ」明日香はポケットからUSBを取り出した。「会社の計画書よ。彼らは祖父のコレクションを狙っている」
達也はUSBを受け取り、ポケットに隠した。「わかった。守り人のネットワークで分析する」
「時間がないの」明日香は急いで状況を説明した。「彼らは私を使って千年田を手に入れようとしている。書類上は私が相続者だから」
達也は顔を曇らせた。「法的には確かにそうだ。でも君はどうするつもりだ?」
「遺産は放棄するつもりはないわ」明日香はきっぱりと言った。「でも、守り人として使うの。祖父がしてきたように」
達也の表情が和らいだ。「村田さんは間違ってなかった。君を信じていたのは正しかった」
「ところで」明日香は周囲を見回した。「会社は村民の態度も調査しているわ。誰が土地を売りそうか、誰が抵抗しそうか」
「それは予想していた」達也は頷いた。「既に一部の村民が現金に目がくらんで売り始めている。特に若い世代は」
「彼らを責められないわ」明日香は苦笑した。「この村で農業を続けるのは大変なことよ」
「だからこそ、千年種は希望なんだ」達也の目が輝いた。「気候変動に強く、化学肥料なしでも育つ。未来の農業のモデルになりうる」
彼は明日香の手を取った。「俺たちはただ過去にしがみついているわけじゃない。よりよい未来への道を守っているんだ」
その言葉に明日香は心を打たれた。達也の情熱は祖父に通じるものがあった。
「そろそろ戻らないと」彼女は時計を見た。「中村たちが怪しむわ」
「気をつけて」達也は言った。「二重スパイは一番危険な立場だ」
出口に向かう途中、達也が彼女を呼び止めた。「明日香」
初めて名前で呼ばれ、彼女は振り返った。
「一人じゃないことを忘れないで」彼は真剣な目で言った。「苦しくなったら、いつでも戻ってきていい。ここには仲間がいる」
彼の言葉に温かさを感じながら、彼女は米倉を後にした。表通りに出ると、遠くに調査チームの車が見えた。彼女は深呼吸して、研究員のペルソナに戻った。
チームに合流すると、中村が不思議そうな顔をした。「どこにいたんですか?」「古い知り合いに会ってたんです」彼女は半分本当のことを言った。
「そうですか」中村は特に疑問を持たなかったようだ。「次は川沿いのエリアに行きます。水質も重要なファクターですから」
車に乗り込むと、明日香は窓から村の風景を眺めた。田んぼ、古い家々、そして遠くに見える山々。すべてが守るべきものに思えた。
スマートフォンが震えた。会社からのメールだ。
村田様
プロジェクトミレニアム進捗確認ミーティングを明後日に設定しました。
収集データの初期分析と千年田買収計画の詳細を議論します。
吉川より
彼女はスマートフォンを握りしめた。二重生活の緊張感が増していく。科学者として、彼女は千年種の価値を世界に示したいと思っていた。しかし守り人として、それを企業の独占から守らなければならない。
空を見上げると、雲の間から陽の光が差し込んでいた。まるで祖父が見守っているかのように。

シーン3-5:疑念と疑惑
ノバシード社のガラス張りのミーティングルームで、明日香は神代村調査の報告プレゼンを終えたところだった。部屋の空気が妙に重かった。
「素晴らしい分析です、村田さん」吉川が笑顔で言った。しかしその目は笑っていなかった。「特に千年田の微生物分析は非常に詳細ですね」
「ありがとうございます」明日香は落ち着いた声で応えた。
「一つ質問があります」森本取締役が前のめりになった。「調査中、地元の人々との接触はありましたか?」
明日香の心臓が一拍飛んだ。「はい、いくつかの農家にインタビューしました。報告書に記載してあります」
「報告書に記載のない接触は?」
明日香は一瞬だけ目線を外した。「特にありません」
「面白いですね」吉川がタブレットを操作した。「村の共同米倉に入る姿がセキュリティカメラに映っていたようですが」
彼女の背筋に冷たいものが走った。村にもセキュリティカメラがあった。気づかなかった。
「あぁ」彼女は落ち着きを装った。「祖父の知人に会いました。挨拶程度に」
「そうですか」吉川は微笑んだ。「次回からは、すべての接触を報告してください。このプロジェクトでは透明性が重要ですから」
会議が終わり、廊下に出た明日香は自分の手が震えていることに気づいた。
「大丈夫?」
振り返ると啓介が立っていた。
「ええ、ちょっと疲れただけ」
彼は周囲を見回し、小声で言った。「気をつけて。森本は君を監視している。特に村での行動を」
「あなたは?」明日香は彼の目を見た。「私を疑ってる?」
啓介は少し間を置いてから答えた。「僕は君を信じたい。でも...最近の君は変わった」
彼は一歩引いた。「明日から君の研究室にカメラが設置される。公式には『セキュリティ強化』だが、本当の目的は明らかだ」
その夜、明日香は守り人たちとビデオ会議を持った。匿名性を保つため、画面上の全員が顔を隠していた。
「企業側の資料を分析した」田中の声が響いた。「彼らの計画は我々の予想よりも進んでいる」
「問題は明日香さんだ」別の声が割り込んだ。「本当に信頼できるのか?」
「彼女はリスクを冒して情報を提供してくれた」達也が彼女を擁護した。
「しかし、彼女はまだ会社の社員だ」別の声が指摘した。「どちらの側に本当に立っているのか」
画面上で、不信の念が波紋のように広がっていくのを感じた。
「私は祖父の意志を継ぐと誓った」明日香は静かに、しかし力強く言った。「千年種を守る。それだけです」
「言葉ではなく行動で証明してもらおう」田中が言った。「次のステップは土地の問題だ。君の決断が必要になる」
会議が終わった後、明日香はアパートのバルコニーに立ち、東京の夜景を見つめていた。両側から疑いの目を向けられ、孤独感が彼女を包み込んだ。
「おじいちゃん、私は正しいことをしているの?」彼女は星のない空に問いかけた。
スマートフォンが震えた。知らない番号からのメッセージ。
『監視を強化します。あなたの部屋も安全ではありません。—啓介』
続いて別のメッセージ。守り人たちから。
『会社があなたを疑っています。村での次のミーティングは中止します。別の連絡方法を考えてください。—T』
明日香は両方のメッセージを消去し、深く息を吐いた。二重生活の重圧が日に日に増していた。
しかし、彼女の決意は揺らがなかった。この道を選んだのは自分だ。祖父の遺志を守るため、千年種を守るため—彼女は前に進むしかなかった。
第4部:危機
シーン4-1:守り人ネットワークへの警告
明日香のアパートのリビングルーム。夜の11時を回っていた。彼女はノートパソコンの前に座り、暗号化通信アプリを起動させた。窓は閉め切り、カーテンも引かれていた。万が一の盗聴・盗撮を警戒し、シャワーを流しっぱなしにしている。
「これは危険すぎる」彼女は自分に言い聞かせた。
しかし選択肢はなかった。今朝のミーティングで聞いた情報は、すぐに守り人ネットワークに伝えなければならなかった。
暗号化アプリのチャットボックスに、彼女は短いメッセージを打ち込んだ。
『緊急:計画前倒し。強制手段準備中。48時間以内に通話必要。—T.A.』
送信ボタンを押した後、彼女は深く息を吐いた。T.Aは彼女のコードネーム「千年の明日(Tomorrow of Antiquity)」の略。守り人ネットワーク内での彼女の識別名だった。
返信は10分後に来た。
『安全回線を準備。23:30に接続せよ。—K』
Kは守り人ネットワークの中心人物のひとり。田中老人の後継者と噂されていた。
時間通りにビデオ通話が始まった。画面には3つの黒いシルエットが映っている。顔は隠されていたが、中央のシルエットは達也だと彼女には分かった。
「状況を説明してください」中央のシルエット、達也が言った。公の場では彼らは互いを知らないふりをする取り決めになっていた。
「今朝の役員会議で決定されました」明日香は声を落として言った。「神代村プロジェクトを加速させるとのこと。来週中に千年田を含む残りの土地に対する強制買収手続きを開始します」
「法的根拠は?」右側のシルエットが尋ねた。
「『国家戦略特区』の指定申請を政府に提出済みです。食料安全保障に関わる重要プロジェクトとして」彼女は資料をカメラに向けた。「すでに農林水産省と経済産業省からの内諾を得ているようです」
「そんな...」左側のシルエットがつぶやいた。「政府も加担しているのか」
「それだけではありません」明日香は続けた。「社内で『種子収集作戦』という計画も進行中です。村内にある在来種のサンプルを、あらゆる手段で確保するよう指示が出ています」
「盗むということか」達也の声が冷たくなった。
「表向きは『研究サンプル』としての協力依頼ですが、実質はそうです」彼女は頷いた。「特に千年種と呼ばれるコレクションが最優先ターゲットになっています」
チャット画面に沈黙が流れた。
「私からの提案があります」明日香は前に身を乗り出した。「村の守り人たちは、種子の分散保管を急ぐべきです。一カ所に集中させておくのは危険です」
「同意する」達也が答えた。「すでに伝統的な種子バンクのネットワークに連絡を取っている。全国の守り人に警戒態勢を敷くよう通達する」
「もう一つ」明日香は慎重に言葉を選んだ。「私の祖父が隠していた種子コレクション——千年種の核心部分ですが、それを安全な場所に移したいと思います」
「どこに?」
「複数の場所に分散します。一部は全国の守り人ネットワークへ。そして...」彼女は一瞬躊躇した。「一部は国際的な種子保全機関へ。ノルウェーのスヴァールバル世界種子貯蔵庫など、企業の手が届かない場所です」
「国外に出すことは伝統に反する」左側のシルエットが反論した。
「しかし現実的な選択肢だ」達也が支持した。「分散保管は古来からの守り人の知恵でもある」
「問題は時間だ」右側のシルエットが指摘した。「企業側の動きは予想より速い」
「明後日、私は再び神代村を訪れます」明日香が言った。「公式には土壌追加調査のためですが、実際は種子コレクションの移動を行うつもりです」
「危険すぎる」達也の声に心配が滲んでいた。
「私しかできません」彼女はきっぱりと言った。「祖父の隠し部屋の正確な場所を知っているのは私だけです」
画面の向こうで、三人のシルエットが小声で相談している。最終的に達也が話した。
「わかった。全国ネットワークに緊急警告を発信する。そして明後日、村で君をサポートする」
通話が終わった後、明日香はパソコンから全データを消去した。窓を開け、東京の夜気を深く吸い込んだ。星空は高層ビルの明かりで見えにくかったが、彼女は北の方角を見つめた。神代村がある方向だ。
スマートフォンが震えた。達也からの個人的なメッセージだった。
『気をつけて。君の安全が一番大事だ。必要なら、すべてを捨てて逃げても構わない。—達也』
彼女は微笑んだ。もはや「守り人ネットワーク」という組織的な関係を超えた、個人的な絆が育まれていることを感じた。
「逃げはしないわ」彼女はつぶやいた。「祖父が命をかけて守ったものを、私も守る」
明日香は種子の写真——先日撮っておいた祖父のコレクションの一部——を見つめた。小さな種子の中に、何千年もの歴史と、未来への希望が詰まっている。
「守り人の加護があらんことを」彼女は護符を握りしめながら祈った。
シーン4-2:社内での対立
ノバシード社のラボで、明日香は顕微鏡をのぞきながらデータを記録していた。神代村から持ち帰った土壌サンプルの分析作業だ。彼女の集中力は、後ろから近づいてくる足音で中断された。
「明日香さん、話があります」
啓介の声は、いつもより硬かった。彼女が振り返ると、啓介は研究データが表示されたタブレットを手に持っていた。
「何かありましたか?」明日香は平静を装った。
「これを説明してもらえますか?」啓介はタブレットを彼女の前に置いた。画面には神代村の土壌分析データが表示されていた。「このデータ、改ざんされています」
明日香の心拍が上がった。彼女は慎重に画面を見た。「どういう意味ですか?」
「神代村の千年田から採取した土壌サンプルのデータです」啓介は冷静に言った。「あなたが提出した公式レポートでは、微生物多様性指数が標準レベルに近いとなっています。しかし私が別途行った分析では、その数値は通常の5倍以上です」
彼は目を細めた。「つまり、あなたは意図的にデータを平凡に見せかけた」
明日香は沈黙した。確かに彼女はデータを操作していた。千年田の特異性が強調されると、会社の関心がさらに高まるのを避けるためだった。
「私の分析に誤りがあったのかもしれません」彼女は言い訳した。
「誤りではない」啓介の声はさらに厳しくなった。「意図的な操作だ。なぜだ?」
ラボの空気が凍りついた。二人の周りで働いていた他の研究者たちが、さりげなく距離を取り始めた。
「啓介さん、ここでの議論は控えましょう」明日香は立ち上がり、小会議室へと歩き始めた。
防音ガラスの会議室に入り、ドアを閉めると、彼女は深く息を吐いた。
「あなたは私に協力すると言ったじゃないですか」明日香は小声で言った。「会社の本当の意図を知っていると」
「協力するとは言った」啓介は頷いた。「しかし科学者としての誠実さまで捨てろとは言っていない」
彼は窓の外を見た。「データ改ざんは科学者として、最も恥ずべき行為だ」
「私は守っているんです」明日香は必死だった。「千年田の本当の価値が会社に知られれば、彼らは何としてでも手に入れようとします」
「そうやって自分を正当化するのか?」啓介の声は冷たかった。「目的のためなら手段を選ばない。そんな考え方は、あなたが批判している会社と同じじゃないか」
その言葉は明日香の胸に突き刺さった。彼は正しかった。
「私は...」言葉に詰まる明日香を見て、啓介の表情が和らいだ。
「君を責めているわけじゃない」彼はため息をついた。「企業の中で働いていると、こういう倫理的ジレンマに常に直面する。私も何度も経験してきた」
彼は椅子に腰を下ろした。「六年前、私はアフリカでの遺伝子組み換え作物の臨床試験に関わっていた。理想は高かった—飢餓に苦しむ人々を救う革命的な作物の開発だ。しかし...」
啓介の目に影が落ちた。「データが期待通りの結果を示さなかった時、上層部から『適切に処理するよう』圧力がかかった。私は...従った」
彼は自己嫌悪の表情を浮かべた。「その結果、不完全な作物が市場に出た。三年後、予期せぬ副作用が現れた」
「でも、私がしようとしていることは逆です」明日香は抗議した。「データを誇張するのではなく、抑えているんです」
「手段は違えど、真実を歪めることに変わりはない」啓介は厳しく言った。「一歩踏み外せば、どこまでも行ってしまう。それが倫理の崩壊というものだ」
二人の間に重い沈黙が流れた。
「明日香さん」啓介は彼女の目をまっすぐ見た。「あなたは二重生活を送っている。会社のために働きながら、別の目的に奉仕している」
明日香は息を呑んだ。
「否定しなくていい」啓介は手を上げた。「私にはわかる。あなたの行動、不自然な言い訳、そして村への不審な訪問」
「私を会社に報告するんですか?」明日香の声は震えていた。
啓介は長い間黙っていた。「いいえ」彼は最後に言った。「まだ決めていない。しかし、これ以上の科学的不誠実は見逃せない」
彼はドアに向かった。「明日の神代村訪問は中止するよう勧告するつもりだ。もし強行するなら...」
言葉を途中で切り、啓介は部屋を出た。
明日香は窓に映る自分の姿を見つめた。彼女の中で、科学者としての誠実さと守り人としての使命が衝突していた。啓介の言葉は正しい。だが、今引き下がるわけにはいかない。祖父の遺志を守るため、千年種を守るため—彼女は前に進むしかなかった。
しかし、その道はますます険しくなっていた。
シーン4-3:裏切りの発覚
「村田さん、森本取締役がお呼びです」
同僚の声に、明日香は手元の作業を中断した。彼女はすでに何かが起こったことを感じ取っていた。昨日の啓介とのやり取りから、今日は緊張感で一日が始まっていた。
「分かりました」彼女は落ち着いた声で答えた。
研究棟から役員フロアへのエレベーターの中で、明日香は最悪の事態を想定していた。啓介が彼女のデータ改ざんを報告したのだろうか。それとも別の問題だろうか。
取締役室のドアを開けると、そこには森本取締役と吉川、そして法務部長の森山がいた。啓介の姿はなかった。テーブルの上には書類の山が積まれていた。
「どうぞ」森本は冷たく言った。
明日香が席に着くと、森本はタブレットを彼女の前に置いた。画面に映っていたのは、彼女が神代村の米倉で達也と密会している姿だった。暗い照明の中でも、二人が何かを交換している様子がはっきりと写っていた。
「これは?」明日香は動揺を隠そうとした。
「説明は不要です」森本の声は氷のように冷たかった。「我々はすべて把握しています。村田さん、あなたは会社の機密情報を外部に流出させていた」
彼は別の書類を示した。「USBデバイスの使用記録、あなたが接続した社内サーバーのログ、ダウンロードしたファイルのリスト。すべて証拠があります」
明日香の心臓が鼓動を早めた。しかし、彼女は冷静さを保とうとした。
「私は情報を漏らしてはいません」彼女は言い訳した。「祖父の遺産である千年種のことをよく理解するために、村の人々と話していただけです」
「村田明日香さん」森山法務部長が厳しい声で言った。「あなたの行為は明らかに企業秘密漏洩罪に該当します。刑事告訴も検討しています」
「いつから監視していたんですか?」明日香は尋ねた。
「入社当初から」吉川が答えた。「あなたの祖父との関係から、リスク要因として特別監視対象でした」
その瞬間、明日香は理解した。彼女は最初から標的だったのだ。会社は彼女を通じて祖父のコレクションにアクセスする計画を立てていた。
「あなた方こそ、卑劣です」彼女は怒りを抑えられなかった。「祖父の死後、わざと私を雇い、千年種に近づこうとしていた」
「ビジネスです」森本は冷淡に言った。「我々は千年種の価値を認識していました。あなたの祖父は理解しなかった。しかし、あなたなら科学者として理解すると思っていた」
「科学者だからこそ、千年種の本当の価値を理解しています」明日香は毅然と言った。「それは一企業の特許になるべきものではありません」
重い沈黙が流れた後、森本は冷たく微笑んだ。
「村田さん、あなたは即刻解雇です。会社の財産をすべて返却し、直ちに退去してください」
「研究データは?」明日香は尋ねた。
「あなたの研究成果はすべて会社の所有物です」森山が言った。「個人的なものを含め、社内での活動に関するすべての記録は没収します」
セキュリティ担当者が呼ばれ、明日香は自分のデスクまで監視されながら歩いた。彼女は静かに私物を段ボール箱に詰めた。同僚たちは動揺した表情で見ているだけだった。
「5分で終わらせてください」警備員が言った。
彼女がラボから出ようとした時、廊下で啓介と鉢合わせた。彼の表情には複雑な感情が混ざっていた。
「あなたが通報したの?」明日香は静かに尋ねた。
「違う」啓介は声を落とした。「データの問題を報告しただけだ。その後、会社がすでにあなたを監視していたことを知った」
彼は周囲を確認すると、素早く彼女のコートのポケットに小さなUSBを滑り込ませた。
「何...?」
「昨日のミーティングの議事録だ」啓介は囁いた。「『神代村緊急収用計画』。明日実行される。間に合うように」
彼の目には後悔と決意が混ざっていた。
「どうして?」明日香は困惑した。
「私もかつて理想を持っていた」啓介は苦しそうに言った。「あなたは正しい。この種子は一企業のものであってはならない」
彼は一歩下がった。「ごめん、これ以上は...監視カメラがある」
啓介は公式の声に戻した。「村田さん、お元気で」
ビルを出た明日香は、冷たい冬の風に包まれた。スマートフォンは会社に没収され、通信手段はなくなっていた。彼女は近くの公衆電話ボックスを探した。
「もしもし、達也?」彼女は急いで状況を説明した。「会社から解雇された。監視されていた。そして...明日、神代村に何かが起こる」
「どういうことだ?」達也の声には緊張が走った。
「詳しくはまだわからない。USBを確認する必要がある」彼女は周囲を警戒しながら言った。「私は今から神代村に向かう。会社が何か大きな動きをする前に、千年種を確保しなければ」
「危険すぎる」達也は反対した。「会社はあなたを追跡するだろう」
「他に選択肢はないわ」明日香は決意を固めていた。「私が間に合わなければ、祖父が命をかけて守ってきたものがすべて失われる」
電話を切った後、彼女は啓介からもらったUSBを握りしめた。彼の最後の言葉が心に残っていた。一時は啓介こそが彼女を裏切ったのだと思ったが、彼もまた自分なりの方法で正しいことをしようとしていたのだ。
彼女はタクシーを拾い、最寄りのバスターミナルへ向かうよう指示した。神代村への長い道のりが始まる。後ろを振り返ると、ノバシード社の高層ビルがそびえ立っていた。あの中では、彼女の運命を左右する計画が着々と進められているのだろう。
時間との戦いだった。
シーン4-4:神代村への緊急帰還
雨が激しさを増していた。バスの窓ガラスを叩く雨音と、ワイパーの単調な動きが明日香の不安を増幅させた。
都心から神代村へ向かう山間の道は、土砂崩れの危険性から通行注意が出ていた。彼女はバスの最後部座席に座り、啓介から受け取ったUSBの内容を古いノートパソコンで確認していた。
「神代村緊急収用計画」のドキュメントを開くと、彼女の血の気が引いた。
『実行日時:明日 午前6時開始』
『作戦概要:千年田および周辺地域の緊急収用手続き』
『根拠:国家戦略特区指定(承認待ち)』
『実行部隊:A班(法務・広報)、B班(土壌サンプル収集)、C班(種子収集特別チーム)』
そして最後の部分が最も衝撃的だった。
『村田コレクション確保:最優先事項。村田家住居への立ち入り権確保済み。村田明日香の所在確認と行動制限を実施』
彼女は冷や汗を感じた。会社は彼女を監視下に置き、行動を制限する計画までしていたのだ。
急いでファイルを閉じ、守り人ネットワークへの連絡を試みた。しかし、山間部に入ると通信状態が悪化していた。メッセージは送れたが、返信はない。
「まもなく月山峠です」バスの車内放送が流れた。「悪天候のため、この先スピードを落として走行します」
明日香は時計を見た。午後5時。このままでは日没前に村に着けないかもしれない。
「どうか間に合いますように」彼女は窓の外の暗い空を見上げながら祈った。
バスが峠を越えたところで、突然激しい雷鳴が轟いた。同時に、バスの照明が一瞬ちらついた。
「申し訳ありません」車内放送が再び流れた。「落雷の影響で、一部区間で通行止めが発生しています。迂回路を通りますので、到着が予定より遅れます」
明日香の胸に焦りが広がった。パソコンで通信を試みるが、圏外のままだ。達也たちに連絡が取れない。
「すみません」彼女は運転手に声をかけた。「神代村までどのくらいかかりますか?」
「このままだと、あと2時間はかかりますね」運転手は申し訳なさそうに答えた。「本当は早く着きたいところですが、安全第一で」
明日香は決断した。次の停留所で降り、タクシーを探そう。値段は高くつくだろうが、一刻も早く村に着かねばならない。
予定外の停留所で降りると、雨は一段と激しくなっていた。彼女は小さな屋根の下で携帯電話を取り出したが、依然として圏外だった。
「どなたか神代村へ行かれますか?」
振り返ると、軽トラックを運転する老人が声をかけてきた。
「はい、急いでいるんです」明日香は答えた。
「乗りなさい」老人は助手席のドアを開けた。「私もそこへ向かう途中だ。野菜の配達でね」
明日香は老人に礼を言い、ずぶ濡れのまま車に乗り込んだ。
「村田先生のお孫さんじゃないか」老人は驚いた顔で言った。「村で噂を聞いていたよ。東京から帰ってきたって」
「はい、祖父の家に帰るところです」彼女は簡単に説明した。「実は急用で」
「分かった」老人は頷いた。「できるだけ早く行こう。だが、今日は山道が危険だ」
軽トラックは雨の中、山道を慎重に進んだ。明日香は窓の外の暗い山々を見つめながら、祖父の顔を思い浮かべていた。
「急に会社の人間が村に入ってきてね」老人が会話を続けた。「何かの調査だとか言って」
明日香は緊張した。「いつからですか?」
「今日の昼過ぎから」老人は眉をひそめた。「大きな車で、測量機材みたいなものを持っていた。村長のところにも行ったようだ」
計画が前倒しになっている。彼女の解雇が引き金になったのだろうか。
「おや?」老人が前方を指さした。「あれは何だ?」
山を下りて村の外周に差し掛かったところで、明日香は息を呑んだ。暗い空に、サーチライトを照らす大型ヘリコプターが見えた。その機体には見覚えがあった—ノバシード社のロゴだ。

「急いでください」彼女は老人に頼んだ。「祖父の家まで行けますか?」
「ああ」老人は状況を察したのか、スピードを上げた。
村に近づくと、幹線道路に複数の黒いSUVが停まっているのが見えた。男たちがマップを広げて何かを確認している。企業のチームだろう。
軽トラックは目立たぬよう、村の裏道を通った。老人は明日香を祖父の家の裏手で降ろした。
「気をつけなさい」老人は心配そうに言った。「何かあったら、村の者を頼りなさい。皆、先生の恩を忘れちゃいない」
明日香は深く頭を下げた。「ありがとうございます」
老人の軽トラックが去った後、彼女は雨の中、祖父の家へと走った。村の中央広場の方からは、大勢の人の声や機材の音が聞こえてきた。
家の裏口から忍び込むように入ると、中は静まり返っていた。しかし、窓の外に見える千年田の方向には、いくつものライトが動いていた。彼らはすでに調査を始めているようだった。
明日香は濡れた髪を払いのけ、祖父の書斎へと急いだ。時間がない。千年種を確保しなければ。
雨の音が激しさを増す中、彼女は祖父の最後の秘密を取り出す準備を始めた。
シーン4-5:仲間との再会と計画
祖父の書斎で隠し部屋の開け方を思い出そうとしていた明日香を、突然の物音が驚かせた。彼女は身構えたが、そこに現れたのは達也だった。
「明日香さん!」達也は安堵の表情を浮かべた。「無事で良かった」
「達也さん」彼女も胸をなでおろした。「連絡が取れなくて...」
「通信が遮断されているんです」達也は説明した。「おそらく企業側が村の通信環境をコントロールしている」
二人の会話は、次々と部屋に入ってくる人々によって中断された。守り人ネットワークの主要メンバーたちだ。田中老人、集落の世話役の中村、そして美代子おばあさんも杖をついて入ってきた。
「やはり戻ってきたか」田中老人は厳しい表情を崩さなかった。「企業側から裏切り者と見なされたようだな」
「裏切り者は私ではありません」明日香は毅然と答えた。「企業は明日、この村全体を緊急収用する計画です。特に千年田と...祖父のコレクションが狙われています」
「信じられるのか?」守り人のひとりが疑わしげに言った。「彼女は企業の人間だぞ」
美代子おばあさんが前に出た。「信じる理由がある。彼女の目を見れば分かる。明日香ちゃんは明らかに真実を語っている」
「証拠がほしいなら」明日香はノートパソコンを開いた。「これが企業の計画書です。啓介さんが危険を冒して渡してくれました」
皆がパソコンの画面に見入る中、明日香は説明を続けた。「彼らは明日の朝、正式な収用手続きを始めます。でもすでに先遣隊が村に入っています。私たちには時間がありません」
「信じられない」中村は頭を抱えた。「こんな雨の中で」
「だからこそ、今夜行動すべきなんです」達也が言った。「彼らは明日の朝を待っているが、我々はこの雨と闇を利用できる」
室内に短い沈黙が流れた。
「結局、あなたは何をしたいのか?」田中老人が明日香に尋ねた。彼の口調には、まだ若干の不信感が残っていた。
「祖父のコレクション—千年種を守りたいんです」明日香は真剣に答えた。「そして村の方々の同意なく、土地が奪われるのを阻止したい」
「会社の人間だった者がなぜ?」
「私はまず科学者です」明日香は胸に手を当てた。「そして、祖父の孫です」
美代子おばあさんが彼女の手を取った。「あなたのお祖父さんも同じ選択をしたのよ」
美代子の言葉に、明日香は驚いた。「どういう意味ですか?」
「村田先生も若い頃は大きな種苗会社で働いていた」美代子は穏やかに説明した。「でも、会社が古い在来種を無価値と判断して捨てようとした時、彼は種を持ち出して村に戻ってきた。彼もまた『裏切り者』と呼ばれたのよ」
その言葉に、部屋の空気が変わった。田中老人の厳しい表情さえ、少し和らいだように見えた。
「時間がありません」明日香は祖父の本棚に向かった。「千年種の真の宝は、ここにあります」
彼女は特定の本を引き出し、隠しレバーを操作した。静かな機械音とともに、本棚の背後から隠し部屋が現れた。
「これが祖父の遺産です」明日香は皆を招き入れた。「そして私たちが守るべきもの」
隠し部屋には床から天井まで、数百の種子サンプルが保管されていた。中央には特別な容器に入れられた赤い種子—赤米の原種が置かれていた。
「これが千年種の核心」明日香は低い声で言った。「神代村の起源にまで遡る種です」
守り人たちは畏敬の念を持って見つめた。そして明日香は、彼らの表情に変化を感じた。最後の不信感が消え、代わりに結束と決意が生まれていた。
「さあ、計画を立てましょう」達也が皆を促した。「夜が明ける前に、私たちは行動を起こさなければならない」
雨の音を背景に、彼らは最後の抵抗の準備を始めた。
第5部:対決と和解
シーン5-1:千年田での対峙
夜明け前、雨は小降りになっていた。東の空がわずかに明るくなり始める中、千年田の畔には二つの集団が向かい合っていた。
一方には森本取締役を先頭に、ノバシード社の調査隊。黒いレインコートに身を包み、測量機器やサンプル採取用の器具を持っている。彼らの背後には、村役場の職員と思われる人物と、警察官も数名控えていた。
対する畔には、田中老人を中心に村の守り人たちが並んでいた。杖をつく美代子おばあさん、達也、そして数十人の村人たち。彼らの手には農具やランタンがあるだけだったが、その目には固い決意が宿っていた。
「これは不法占拠です」森本が声を張り上げた。「我々は正式な許可を得ています。立ち退いてください」
「何の許可か」田中老人は動じなかった。「この田は千年以上、我々の先祖が守ってきた。一片の紙切れで奪えるものではない」
両者の緊張が高まる中、明日香が二つの集団の間に歩み出た。彼女は一晩中眠らず、祖父のコレクションを整理していた。手に持っているのは、小さな木製の箱。
「森本さん」明日香は落ち着いた声で言った。「この対立には意味がありません」
「村田さん」森本は冷笑した。「君が背後で動いていたとは。解雇されたばかりというのに、随分と素早い行動だ」
「私は科学者として、真実のために行動しています」彼女は毅然と答えた。
森本は書類を掲げた。「これは国家戦略特区の予備指定通知書だ。この土地は今日から、政府プロジェクトの一部となる」
「本当に聞く耳を持たないのですね」明日香は悲しそうに言った。
そこへ吉川が前に出た。「村田さん、無駄な抵抗はやめなさい。このプロジェクトは国家レベルの食料安全保障に関わる重要案件だ。個人の感情で邪魔をするべきではない」
「感情ではありません」明日香は木箱を開け、中から小さな種子の入った瓶を取り出した。赤褐色の米粒が朝の微光に照らされて輝いた。「これが千年種の核心、神代赤米の原種です」
「それがどうした」森本は苛立ちを隠さなかった。
「この赤米には特別な価値があります」明日香は続けた。「単なる古い品種ではなく、現代の気候変動に対する答えを持っているのです」
「何を言っているんだ?」
「昨夜、祖父のデータを分析しました」明日香は説明した。「この赤米は過去千年の間、幾度もの気候変動を乗り越えてきました。洪水、干ばつ、冷害—どんな環境変化にも適応できる遺伝的な柔軟性を持っているのです」
彼女はさらに続けた。「最も重要なのは、この赤米が持つ共生菌との関係です。千年田の土壌には特殊な微生物群が存在し、赤米の根と共生関係を結んでいます。これにより極端な環境下でも生存できるのです」
「それを証明できるのか?」吉川が疑わしげに尋ねた。
「はい」明日香は自信を持って答えた。「祖父は40年間、詳細なデータを記録していました。そして...」
彼女は一旦言葉を切り、森本に近づいた。
「森本さん、あなたの会社が本当に求めているのは、食料安全保障への貢献ですよね?もし本当にそうなら、この赤米とその土壌微生物の研究こそ、最も価値のある道筋です」
「バイオテクノロジーの専門家として言いますが、この自然の共生関係は、私たちが実験室で何年かけても作り出せないものです。この田んぼをコンクリートで埋めてしまえば、千年の遺産が永遠に失われます」
彼女の言葉に、調査隊の中から小さなざわめきが起きた。特に若い研究者たちの表情が変わり始めた。
「たとえそうだとしても」森本は譲らなかった。「その研究は我々の施設で行うべきだ。この土地を買収し、種子を確保すれば—」
「それでは意味がありません」明日香は強く言い返した。「赤米の秘密は、この土地、この土壌微生物との関係にあるのです。切り離せば、その特性の多くが失われます」
「証拠は?」森本は挑むように言った。
そこで達也が前に出て、防水ケースに入ったノートパソコンを開いた。
「ここに村田博士の40年分のデータがあります」達也は画面に表示された分析結果を示した。「特に注目すべきは、過去10年間の異常気象下での収穫量です。周辺地域の収穫量が平均30%減少する中、この千年田だけは安定した収穫を維持しています」
明日香は続けた。「そして、これは私が2週間前に採取した土壌サンプルの分析結果です。微生物の多様性指数は通常の農地の5倍。特に注目すべきは、この菌株群です」
彼女はデータを指さした。「これらは現代の農地ではほとんど見られない共生菌です。しかし千年田では豊富に存在し、植物の栄養吸収を助け、病害虫への抵抗力を高めています」
調査隊の中から若い研究者が一歩前に出た。啓介だった。
「森本取締役」啓介は真剣な表情で言った。「彼女の言うことは科学的に正しいと思います。私も別途分析を行いましたが、この土壌微生物群集は極めて特異です。研究者として、この関係を破壊してしまうのは大きな損失だと考えます」
森本の顔に怒りが浮かんだ。「啓介君、君まで...」
しかし吉川が森本の腕を掴んだ。彼は低い声で何かを森本に告げた。森本は一瞬考え込み、そして不承不承といった様子で頷いた。
「村田さん」吉川が前に出た。「その赤米と微生物の関係について、共同研究という形は考えられないか?」
「どういう意味ですか?」明日香は慎重に尋ねた。
「この土地をそのまま残し、村の人々と協力しながら研究を進める。その代わり、研究成果は共有する」吉川は提案した。「もちろん、村にも相応の対価は支払う」
「それは...」明日香は村人たちを見た。田中老人と美代子おばあさんは複雑な表情を浮かべていた。
「一つ条件があります」明日香は強い口調で言った。「この赤米と微生物の関係から生まれる知見は、特許化せず、広く世界に公開すること。食料安全保障は、一企業の利益を超えた人類共通の課題です」
「それは無理だ」森本が即座に反論した。「企業として投資する以上、知的財産権は—」
「いいでしょう」意外にも吉川が割って入った。「研究の基本知見は公開し、応用技術については共同特許とする。それなら受け入れられますか?」
村人たちの間でざわめきが起きた。田中老人は守り人たちと短い相談をし、そして明日香に向かって小さく頷いた。
「受け入れます」明日香は答えた。「ただし、この千年田と周辺の土地は、永久に現状を維持すること。そして守り人たちが代々、赤米と土地を守る権利を保障すること」
吉川と森本は短く言葉を交わした後、吉川が前に出た。
「合意しましょう。詳細は後日、正式な契約として固めます」
朝日が千年田の水面に反射し、幻想的な光景が広がる中、二つの集団の間に緊張が解けていくのが感じられた。
明日香は静かに千年田を見つめた。祖父の声が聞こえるような気がした。
「私たちは対立ではなく、協力することを選びました」彼女は自分自身にも言い聞かせるように言った。「人類の未来のために」
シーン5-2:啓介との対決と和解
千年田での対峙から数時間後、仮設テントが田の畔に設置された。共同研究の第一歩として、双方の科学者たちが基礎的なデータを共有し始めていた。
明日香は少し離れた小高い丘の上に立ち、村を見下ろしていた。雨は完全に上がり、青空が広がっていた。千年田の水面はいつもより澄み、神々しいほどの輝きを放っていた。
「美しい光景ですね」
背後から啓介の声がした。明日香は振り返らなかった。
「USBをありがとう」彼女は静かに言った。「あなたのおかげで間に合った」
啓介は彼女の横に立った。二人は無言で景色を眺めていた。
「なぜ企業に残るの?」明日香は突然尋ねた。「あなたは正しいことが何かを知っているのに」
啓介はため息をついた。「単純ではないんです」
「私には単純に見える」明日香は鋭く言った。「あなたはデータを改ざんすることが間違いだと私を責めた。でも、企業の命令には従い続ける。矛盾していると思わない?」
「そうかもしれない」啓介は苦しそうに認めた。「でも内側から変えることもできる。すべてが白か黒かではない」
「企業の中にいて、本当に変化を起こせると?」明日香は疑わしげだった。
「少なくとも試している」啓介は反論した。「明日香さん、あなたは理想主義者だ。それは素晴らしいことだが、時に現実から遊離している」
「現実?」明日香の声が強まった。「この村の人々の生活が『現実』です。祖父が守ってきた種が『現実』です。企業の利益だけが現実ではない」
「それは分かっています」啓介は真剣な表情で言った。「だからこそ、私はあなたを助けた。だが同時に、大規模な食糧生産と技術革新の必要性も現実です。両方の『現実』を橋渡しする方法を見つけなければならない」
明日香は初めて彼の目をしっかりと見た。そこには確かな誠実さと、自分の葛藤と向き合おうとする覚悟が見えた。
「本当にそう思っているの?」彼女は尋ねた。「それとも自分を正当化しているだけ?」
啓介は長い間黙っていた。「正直に言えば、両方かもしれない」彼は最終的に認めた。「私は科学者として純粋でありたい。しかし同時に、この世界で生きていくためには妥協も必要だと学んできた」
彼は村を見下ろした。「しかし、今日のことで私も変わりました。あなたが村の人々と共に立ち上がる姿を見て…思い出したんです。なぜ私が科学者になったのかを」
「なぜ?」
「人々を助けるため」啓介は単純に答えた。「小さな農村出身の私にとって、科学は希望でした。貧困から抜け出す手段であり、故郷を助ける方法でもあった」
明日香は初めて啓介の背景を知り、彼を新たな視点で見始めた。
「しかし企業の中で年を重ねるうちに、その初心を見失っていました」啓介は続けた。「利益や昇進が目的になっていた。あなたと出会うまでは」
「私?」
「あなたの祖父への忠誠、そして科学者としての誠実さが、私の内なる声を呼び覚ましたんです」啓介はかすかに微笑んだ。「だから、あなたを助けたんです」
明日香は黙って考えていた。彼女自身も思っていた以上に単純な見方をしていたのかもしれない。
「これからどうするの?」彼女は尋ねた。
「会社に残ります」啓介は決意を込めて言った。「しかし、今度は違う姿勢で。この共同研究が公正に進むよう、内側から見守る役割を果たします」
「信じていいの?」
「時間をかけて証明します」啓介は真摯に答えた。「科学者として、そして人間として」
明日香は長い間啓介を見つめていた。そして最終的に、彼女は小さく頷いた。
「では、同僚として協力しましょう」彼女は手を差し出した。「科学の名において」
啓介は安堵の表情で彼女の手を取った。「科学の名において」
二人が握手を交わしたとき、千年田から鳥の群れが飛び立ち、青空に向かって舞い上がった。緊張と対立の後に、新たな理解と協力の種が芽生え始めていた。
シーン5-3:メディア生中継と種まきの儀式
事態が落ち着いて三日後、神代村は思いがけない注目を集めていた。国内主要メディアのバンが村の広場に並び、カメラマンや記者たちが千年田の周りに集まっていた。
「全国ニュースでの生中継を5分後に開始します」ディレクターが声を上げた。
明日香は緊張した面持ちで準備を整えていた。彼女の隣には美代子おばあさんと達也、そして村の子どもたちが立っていた。対岸には吉川と啓介を含むノバシード社の代表団。
「緊張してる?」達也が小声で尋ねた。
「少し」明日香は認めた。「でも、祖父の言葉を思い出しているの。『種は語る者がいなければ、その価値を失う』って」
「3、2、1、オンエア!」
カメラの赤いランプが点灯し、レポーターが話し始めた。
「ここ神代村からお伝えします。千年以上続く古代米『神代赤米』の種まき儀式が、本日行われます。この伝統的な品種が気候変動への解決策を秘めているとして、科学界から注目を集めています」
レポーターはマイクを明日香に向けた。「村田さん、この赤米の特別な価値について教えていただけますか?」
明日香は深呼吸をした。「この赤米は単なる古い品種ではありません。千年以上にわたり、この地の気候変化に適応し続けてきた生きた遺産です」
彼女は自信を持って続けた。「現代の農業は効率を追求するあまり、多様性を失ってきました。しかし自然界では、多様性こそが生存の鍵です。この赤米と土壌微生物の関係は、私たちに大切なことを教えています—共生と多様性の価値を」
「村田博士のお孫さんとして、この研究を継ぐことについての思いは?」
「祖父は科学者であると同時に、守り人でした」明日香は答えた。「私もその二つの道を歩みたいと思います。最新の科学で古代の知恵を解明し、その価値を世界と共有することで」
その時、突然空が暗くなり、雷鳴が轟いた。驚いたカメラマンが空を見上げると、黒い雲が村全体を覆い始めていた。
「予報になかった雨ですが」レポーターは慌てて言った。「儀式は延期になるのでしょうか?」
美代子おばあさんが前に出た。「いいえ」彼女は穏やかに微笑んだ。「これは祝福の雨です。種まきには最高の時です」
村人たちが動き始め、伝統的な衣装に着替えた人々が千年田の周りに集まった。強まる雨にもかかわらず、彼らは列を作り、田の中に入り始めた。
「雨の中でも続行するようです」レポーターは驚きながら伝えた。「これは予定されていなかった展開です」
美代子おばあさんが明日香の手を取った。「さあ、行きましょう。あなたが先頭です」
明日香は祖父が遺した木製の種入れを胸に抱き、素足で田んぼに入った。冷たい泥が足首まで沈み込む感覚に、彼女は子どもの頃の記憶を呼び起こした。
村人たちが伝統的な種まきの歌を歌い始めた。古い言葉で紡がれるその歌は、雨音と不思議なハーモニーを奏でていた。
種は眠り 目覚める時を待つ
大地の懐で 千の年を越えて
水の声に 耳を澄ませば
命の始まりが 聞こえる
明日香は両手で赤米の種を掬い、静かに水面に撒いた。種は水紋を描きながら沈んでいった。彼女の後ろを村人たちが続き、千年田は人々の歌と雨の音で満たされた。
啓介を含むノバシード社の研究者たちも、次第に儀式に引き込まれていった。吉川は傘を差し出されたが、断って雨に打たれながら見守っていた。
レポーターは当初の驚きから、この光景の神聖さに気づいたようだった。彼は声を落として伝えた。
「現代科学と古代の知恵が出会う瞬間を、私たちは目撃しています。雨の中で行われるこの儀式は、千年を超えて続いてきた命のつながりを象徴しています」
カメラは雨に打たれながらも笑顔で種をまく明日香の姿を捉えていた。彼女の表情には、科学者としての冷静さと、守り人としての情熱が混ざり合っていた。
そして不思議なことに、儀式が進むにつれ、雨上がりの虹が千年田の上に架かり始めた。村人たちの歌声がさらに高まり、自然との共鳴が感じられる瞬間だった。
シーン5-4:一年後のエピローグ
金色に輝く千年田の畔に立ち、明日香は実りの季節を満喫していた。九月の柔らかな風が稲穂を揺らし、波のような模様を描いていた。昨年の劇的な種まき儀式から、ちょうど一年が経っていた。
村の風景は微妙に変わっていた。千年田に隣接して建てられた小さな研究施設「神代生物多様性研究所」の白い建物が、古い民家と不思議な調和を保っていた。屋根には太陽光パネルが設置され、最新技術と伝統の共存を象徴するかのようだった。
「収穫祭の準備はどう?」
振り返ると、達也が資料を抱えて近づいてきた。彼の髪は少し長くなり、顔つきにも自信が感じられた。この一年、彼は研究所の地域連携担当として、村と外部をつなぐ重要な役割を果たしてきた。
「ほぼ完璧よ」明日香は微笑んだ。「あとは天気が心配だけど」
「心配無用」達也は彼女の肩に腕を回した。「美代子おばあさんが、今年は晴れると断言してる。彼女の天気予報は気象庁より正確だからね」
二人は笑い、静かに田んぼを見渡した。その関係は、仕事のパートナーから、より深いものへと自然に発展していた。
「学会での発表資料、最終確認したよ」達也は話題を変えた。「啓介さんからも追加データが届いた」
「ありがとう」明日香は頷いた。「来週の国際農業学会で、神代モデルを世界に紹介できるなんて、まだ信じられないわ」
神代モデル—それは伝統農法と現代科学の融合から生まれた新しい農業のあり方だった。赤米と土壌微生物の共生関係の研究は、予想以上の成果を上げていた。特に異常気象下での耐性メカニズムは、世界中の研究者から注目されていた。
村の変化も目覚ましかった。「赤米ツーリズム」が始まり、都市から訪れる人々が増えた。村人たちは伝統を守りながらも、新しい経済機会を受け入れていた。田中老人でさえ、観光客に昔話を聞かせることを楽しむようになっていた。
「あそこを見て」達也が指さした。
千年田の対岸では、小学生たちが先生の指導のもと、スケッチブックに稲穂を描いていた。明日香が始めた「種の学校」プログラムの一環だった。
「次の守り人たちね」明日香は満足げに言った。
夕暮れが近づき、二人は研究所へと歩き始めた。明日香のオフィスは小さいながらも居心地がよく、窓からは千年田が一望できた。
彼女は机に置かれた祖父の写真を手に取った。優しい笑顔の中に、強い意志を感じさせる表情は、以前と同じだった。しかし今、明日香はその表情の奥にある複雑さを理解できるようになっていた。
「祖父さん、私、少しは分かってきたかも」彼女は写真に微笑みかけた。「守ることと変わることのバランスを」
明日香は写真を元の場所に戻し、窓の外を見た。夕日に照らされた千年田は、まるで燃えるように赤く輝いていた。そこには過去と未来が、伝統と革新が、自然と人間が共存する姿があった。
「さあ、明日に備えましょう」彼女は達也に向かって言った。「収穫を始める前に、もう一度データを確認したいの」
科学者であり、守り人である彼女の旅は、まだ始まったばかりだった。千年の知恵と現代の科学が交差するその場所で、明日香は新たな種をまき続けていた—未来への、希望の種を。

(終わり)