東京五輪の中から見たコロナ
試合をコートサイドから見守りましたが、拍手や私語は制限されていました。毎試合素晴らしいプレーがありましたが、響くのはDJの声と、車イスの衝突音ばかりでした。本来ならば選手たちの活躍に、割れんばかりの大歓声が鳴り響いているのだろうと想像していました。
「パラリンピック関係者100名コロナ感染」「選手村にてコロナ発生」パラリンピック開催前にそんなニュースが飛び交っていました。
私の担当したウィルチェアーラグビー試合会場は、国立代々木競技場第1体育館でした。
ボランティアの入場口は1か所に限定され、検温とアルコールスプレーをした後、飛行場の搭乗口のような探知機で荷物チェックを受けました。その後すぐにPCR検査を提出を求められ、それぞれの持ち場に分かれての活動となりました。
初日は広い敷地で迷い、たまらず警備員さんに尋ねました。
「<選手用医務室>に行きたいのですが」
「それならこの坂を上ってすぐ右です」
案内通りに進むと、そこには誰もいない<観客用>と書かれた医務室がありました。
「コロナにより無観客なのに、あの警備員さんもボランティアなのだろうな」
とにかく集合時間に間に合うように、広大な会場内をさまよいました。
「体育館コートに出さえすればどうにかなる」
パーテションやロープの仕切りを無理やり通り抜けていると、不意に海外ウィルチェアーラグビー選手の集団が目の前に現れました。
大きな選手は見慣れていましたが、車イスマシーンに乗る海外選手団は初めてであり、一気に緊張感が高まりました。事前に「とある海外チームの関係者にコロナ感染者が出ています。」と聞かされていたことも緊張の一因でした。
どうにか集合場所にたどり着くと、すでに大半の人たちが集まっていました。北海道から沖縄まで、スポーツ現場で豊富な経験を積んだ医療従事者たちばかりでした。
「できるだけ早くコミュニケーションを取り合えるようになり、チームとして機能する必要がある」
そう考えて、積極的に話しかけることを心がけました。共通の話題は猛威を振るうCOVID-19でした。
「昼休憩にシャワーで全身を念入りに洗ってから午後の勤務を続けてました。」(コロナ病棟勤務:沖縄)
「息子が受験だったんで、迷惑かけないように年末年始はホテル暮らしでしたよ。」(コロナ病棟勤務:北海道)
「本当にパラリンピックに行くのかと家族に散々言われました。終わった後、すぐには家に帰れないんですよ。2週間ホテル暮らしをしてから、帰って来いと言われました。」(仙台)
私自身も、パラリンピックの期間中は、家族とは寝食を別にされ、職場からはコロナウイルス陰性が確認されるまで出勤停止と言われていました。それぞれの出来事を、面白おかしく話すことで私たちは少しずつ打ち解けることができました。
活動中の楽しみの1つは食事の時間でした。食堂内はパーテションで完全に仕切られており、会話をしながらの食事はできないような工夫がされていました。
弁当廃棄問題がメディアで盛んに取り上げられていました。
「食べれるなら2個食べてー、余っても捨てるだけだからー」
本当に余っていることに驚きながら、しっかり2つの弁当を頂き続けました。最終日は弁当の発注をコントロールできたのか、2つ目の弁当を勧められず、不謹慎ながら少し残念な気持ちになってしまいました。
ウィルチェアーラグビーの試合は世界のトップの戦いらしく、熱く見応えのあるものでした。ラグ車とよばれる車イス同士の激しい衝突音は、慣れるまでにしばらく時間がかかりました。試合中はDJが、ルールの解説をしながら試合会場を盛り上げてくれましたが、観客席にいるのは一握りの小学生やボランティアスタッフだけで、パラパラとした拍手の音が聞こえるだけでした。
それでも大会自体と選手たちのパフォーマンスは素晴らしいものでした。私個人としてはパラリンピックには感謝しかありません。
なにより一緒にウィルチェアーラグビーをサポートしたメンバーの方々は、本当に尊敬に値する人達でした。最後にメンバーで飲みに行けなかったことが残念でなりません。またいつかどこかで会える日を楽しみにしたいと思います。
nakaba ueno
上野 央
「一年間の延期」「無観客開催」
コロナと東京五輪を関連づけたネガティブなニュースや発言に、胸中が穏やかでない時もありました。
「命をかけて挑む選手たちに比べれば、私の感じている苦労など大したことはない。」
そう思いながら準備を進めた日々が懐かしいです。
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