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「北野神社」と「しょぼい喫茶店」の「しょぼい」事と「ちびナカノさん」。

※「しょぼい喫茶店」は、2020年に閉店しました

11月23日訂正追記
「しょぼい喫茶店」は氷川神社の氏子地域とのご指摘をいただきました。
内容的には北野神社の氏子地域である事を前提にしていた訳ではなく、北野野神社も習合されていた新井薬師の文化的な影響の広がりを中野区という地域として考えたかったのですが、たしかに内容的には北野神社の氏子地域だから…という意味に読み取れますね。内容的には哲学堂の方面にまで話は及んでいますが、もちろん北野神社の氏子地域ではありません。
文章を書く際の「前提」をしっかりしておかないと、本当に意味が違ってしまうので…申し訳ありません。
中野区の大きな括りについては、もう少しきちんと書きたと思います。

今まで「中野ってどういう所?」と訊かれる事が度々ありました。
というのも、隣接する新宿区・渋谷区のような繁華街もなく、高級住宅街的な杉並区とも違い、練馬区ほど田舎っぽいイメージもなく、、、マイナー感があり具体的なイメージが湧かない透明な中途半端なのが中野区だったように思います。
私の答えは、田舎っぽくて垢抜けないけど新宿や渋谷に近く便利で、都会的なドライ感覚もあり周りに気を使う必要も余りなくて、すごく気楽というものです。
最近はおたく文化が盛んという事で説明し易くなりましたが、隣人の異文化を認める成熟した社会性があるという事でしょう。
その一方で、今でも昔から変わらずに地域の結びつきが強いという側面もあります。

でも、このいつまでも垢抜けない感じをもっと一言で言い表せる言葉はないものか…と思っていた所「しょぼい喫茶店」の事をネットニュースで知り、「これだ!」と思いました。
新井薬師のお店に「しょぼい喫茶店」という名前を付けるなんて、なんてピッタリなネーミング〜!と思ったのですが、「しょぼい」というパワーワードは店主のえもい店長さんがお考えになった言葉ではないという事は記事を読んでわかりました。
ですが、そのもとになったという「しょぼい起業で生きていく」をブックレビューで見ても、ちょっと私が思っていた「しょぼい」とは違う感じなのです。
その違いは何かな…と思って本を読んでみると、納得する所がありました。

ここで一旦、北野神社と周辺地域について話が飛びます。
中沢新一の「アースダイバー」が出版された2005年頃、地元に興味を持ち少し調べてみた事があります。
隣組に代表される戦前の自治会は、新しい国家形成のマイナスになるとされGHQにより解体されました。
戦後、自治会結成の許可が出るまでも時間がかかりましたが、許可が出ても隣組への拒否反応が残り、全国的には直ぐに結成される地域は少なく、また多くが商店街や新しい住宅街を中心とした戦前とは違う区分となりました。
しかし、中野ではこの北野神社周辺地域のみが戦前とほぼ同じ氏子地域の区分と名称で復活したのです。
ちなみに、江戸時代から続く「村社(格の高い地域をまとめる神社)」は氷川神社で、北野神社は明治の廃仏毀釈まで新井薬師内に習合されていたため、社格は高くありません。
想像ですが、新井薬師=梅照院という名称の「梅」からの縁起で、「天神」は後付だった可能性すらあります。
(実際、哲学堂公園「哲学の庭」一帯は広大な紅白の梅林で、新井薬師周辺は梅の名所だった様です)
そう考えると、北野神社は最初から、神社としてはちょっと「しょぼい」のです。。。笑

しかし、霊験ある新井薬師との関係性の中で氏神社としての信仰も篤く、地域との結びつきも強かったのではないでしょうか。
だからこそ、戦後にも氏神様との結びつきをそのまま残そうと当時の氏子の皆様はすごく頑張ったのだと思います。
(多くが15年近く前に調べた際の記憶のため間違いだったらごめんなさい)。

戦後焼け野原になったこの一帯、本殿の再建には断絶した三笠宮家の私邸内社殿を移築したという事でした(ネット情報のみで一次資料の確認無)。
立派な社殿の再建よりも、一日も早く神社として復興させる事に注力された事が伺えます。
このエピソード、「しょぼい喫茶店」の開店準備で、今まで使っていた道具やご実家からの不要な食器を用いる事と、気持ち的には一緒…と思いながら読んでいました。
「しょぼい」って事は初期衝動が最も大きく顕れているとも言え、完成度や体裁よりも、「しょぼい喫茶店の本」に書かれていた言葉のように、とにかく前へ前へって事かな…と思いました。

「しょぼい起業で生きていく」の「しょぼい」は、本人にとって必要以上の努力や無理をしない絶妙なバランス感覚で漂っていくようなイメージ。本当に現代的です。対して、「しょぼい喫茶店のしょぼい」は、初期衝動に動かされ前に進んでいく姿で私の地元に残っているイメージにぴったりでした。
前者の「しょぼい」は、天才的なバランス感覚や人としての魅力がないと普通の方ではちょっと難しい様にも思うのですが、後者の「しょぼい」は、実は戦後の高度成長期には日本のあちらこちらで起きていた事のようにも感じられます。

そして、北野神社に関わる更に「しょぼい」エピソードがあります。
本社の神輿は1基なのですが、各町会毎に万灯神輿(夜の渡御)の渡御が行われます。
私の地元の地域では、20年前に普通の大工さんに柱を組んで頂き着物の絵付職人の方が描いて下さった「素人づくり」の万灯神輿から始まりました。5町会の中で最もしょぼかったと思います。
お金がなくてもしょぼくても、どうしても町会の万灯神輿が欲しいという情熱が作ったお神輿だった様に思います。当時この事に深く関わっている訳ではないので、あくまでも想像ですが、、、
この20年、熱意をもって尽力された方々のお陰で様々なお祭りグループとの交流が深まり、担ぎ手として地元以外からも多くの方が来られる様になりました。今では5町会の中で一番多い200人弱の規模です。今年は20周年記念として2基で渡御するので、200人以上になりそうとか。
今でも決して立派な神輿とは言い難いですが、それでも多くの方々が担ぎにいらして下さる事は、やっぱり「しょぼくて凄い事」だと思います。
先のTweetで、「しょぼくても成り立つという事は、その内に大切なものや特別な魅力が存在する」と書いたのは、そのためです。

ですが、今は高度成長期とは違いその初期衝動だけで成功する時代ではありませんね。
多くの飲食店は新規オープン時に収益が一番大きいので、年数が経ったらリニュアル必須、店名まで変えてしまうとも聞きます。今のタピオカブームも、長く続くと思っている方は少ないはずですが、スタートダッシュで採算がとれるという計算のもとに多くのお店が開店します。
そう考えると、「体裁を整える(=インスタ映え)だけで中身はなくとも栄える」時代と言う事すらできてしまいます。

ここでついについに!「ちびナカノさん」登場〜!笑

「しょぼい事が中野の魅力の一つ」と言っても、戦後の高度成長期では全国的に珍しくない事だったかもしれませんし、内部には伝わる魅力でも外に伝える事はとても難しい事です。
ですから、インスタ映えの「ちびナカノさん」との撮影で体裁を整え、しょぼい中にある北野神社やそのお祭りの魅力を伝え事ができるかも…と「中野大好きナカノさん」プロジェクトに参加しました。
先に書きましたように移築された北野神社本殿はさすが寿命で、耐震性を考えれば不安があります。建替えより大規模修復の方が大変だろう事も想像でき、いくら愛着があっても建替えは仕方がないことなのでしょう。
また、新井小学校も合併のために閉校を迎え、これらの消えてしまう「しょぼい魅力」の詰まった景色を残しておきたかったのです。
個人では撮影が難しいことでも、中野区のプロジェクトとして「ちびナカノさんとの撮影」なら可能に思われた為で、実際にその通りでした!
けれど、参加してみたら自分の心の持ち様が予想したものとは違いました。
「しょぼい喫茶店の本」の中でも、ネット上のコミュニティからリアルな世界の見方が変わったような所がありましたが、私も「ちびナカノさん」の撮影を通して、別の世界が映るようになったのです。

就活のエントリーシートの様に「体裁が整っている事がスタート」というのが今のスタンダードでも、昔は決してそうではありませんでした。
フォーマットを整える事がスタートである場合、開始時点で閉塞感や息苦しさを感じると先に進めなくなってしまいますが、それは決して普遍的価値観ではなく、今後変わる可能性も変えられる可能性もあるのです。「しょぼい魅力」は、それを示し続けてくれている様に思います。
あと、自分が人形のマクロ的視野で対象を認識する感覚はとても新鮮で楽しい体験で、より多くの方に体験して頂きたいと心から思いました。

「しょぼい喫茶店の本」の最後に書かれていた継続の難しさについては、これはもう人類のテーマというべきというか、神様ですらこの難問に立ち向かうべく「祭」が行われていると言うべきですね。笑
神社の神様は静かな杜の中に鎮座するイメージがありますが、実は一年(数年)でその霊力は衰えてしまいます。
祭は、その神輿の中に神の御霊を降し、荒くれ者がより荒々しく神輿を振ることで神の霊力を復活させるのが儀式の目的です。
日常の継続とその継続を支える非日常の祭りが昔から一つのセットになっていると考えれば良いでしょうか。
でも、楽しい祭=非日常からの復活って大変な時があります。
えもい店長さんもそこでつまづかれた様ですが、それを助けるのが古くから続く形式だったり体裁だったりするのです。何も考えずにその形をなぞる事で気持ちが後から追いついてくるような…。
完全な自由が一方では苦しいという事は、頼るべきものを完全に見失ってしまうからなのでしょう。
でも、形式は物事のある一面的な価値でしかないので、本来はスキップ可能なもののはずです。しかし、ここをスタート地点と考えるとスキップできなくなってしまうのです。この膠着した状態を自由に超えていくのが「しょぼくて良い」というおおらかな価値観なのではないでしょうか。

と、少々こじつけ的に「北野神社」と「祭り」と「しょぼい喫茶店の本」と「ちびナカノさん」を結びつけてしまいましたが、私の中ではこれらの事が「しょぼい」という言葉を中心にゆるやかな一つのまとまりとして感じられたため、長々と書かせて頂きました。

夏休み明けで精神的に大変な方々がいらっしゃるかもしれませんが、それまで当然だと思っていた価値観を超えた世界があるという事に気付いて下さる事を願っています。
「しょぼい」って、ある側面ではとても魅力的で、その魅力が中野には沢山あるのです。

※実はまだ「しょぼい喫茶店」には行けていません。(にも関わらず勝手な事を書いてすみません。。。)次回「ちびナカノさん」を借りられた時にはぜひ訪れたいと思っています。そして、ここには書かなかった『現代的な(昔には絶対になかった)「しょぼい喫茶店」の魅力』について書きたいと思っています。