中野大好きナカノさんがちょっとコワイ意義。

中野大好きナカノさん(以下ナカノさん)の事をコワイと書かれている投稿を度々みかけます。
それは当然のこと、私もちょっとコワイと思う時がありますから!
ですが、もしナカノさんが美しいだけやカワイイだけだったら、私は全く興味を持たなかったと思います。

あくまでも私が考えるナカノさん像ではあるのですが、重要なコンセプトの一つに「コワさ」「得体の知れない不気味さ」を内包していると思われる為です。

私は以前、謡と仕舞(能の稽古様式)を習っていましたが(興味が技芸にはなく上達しないまま今は休止中)、ナカノさんは能面と同じく喜怒哀楽が見え方によって変わり、時には不気味に感じられます。能面がコワイのは言うまでもありませんが、それと同じ感覚をナカノさんに覚えるのです。

能は出演者全員が能面を着けると思われがちですが、現実世界の人間は能面を着けません。異界の存在(幽霊や神、鬼、天狗 等)だけが能面を着けます。ある種の不気味さ・怖さ・神聖さなど、生きた人間とは違う質感を表す為に能面が使われています(※後年の現在物など例外有り)。

では何故ナカノさんが能面と同じような質感や役割を持っている(持たされている)と思えるのでしょうか。
能の劇中でも、普通の人は幽霊を怖がったり不思議がったりします。間狂言(あいきょうげん)で地元の人が怖がる芝居が入る場合もありますし、不思議がる人々も度々出てきます。
しかしワキである僧は仏教知識があるので怖がったりせず、その幽霊を成仏させます(複式夢幻能に限定ですが)。
これ、何かと似ていると思われませんか?
差別や偏見は対象への理解や知識が足りない事から起こるというのはよく知られたことで、人々の反応は能の世界も現代も構造的には同じような事だと思うのです。

現代は昔の人よりも多くの知識を得、人知を超えた得体の知れない存在は少なくなりました。
しかし全てのことを知ることなど不可能で、その畏れや怖さを抱きながらも受け入れることが必要なはずなのですが、その理解しがたいモノの存在を忘れている方が多すぎるのではないでしょうか。
「畏れる存在」が自分の生活のすぐ近くにある事に納得できない方々が、差別行動や諸々の問題に反対されるのではないかと個人的には考えています。
(ちなみに、井上円了の幽霊研究は「知識があれば幽霊を恐れない」という志から行われたのですが、研究の方向がマニアックすぎてポケモン図鑑のようになってしまった、、、笑)

梅若能楽学院のご協力によるナカナカ会が2月に開催されますが(新型コロナウィルスの影響で中止)、民俗学的な視点を含めて能楽を考える方であれば、ナカノさんが能や人形など「人形(ひとがた)」にが古来から内包していた意味に近しいことはおわかりになると思います。

また、能楽とも深いつながりがある民俗学者の折口信夫(おりくちしのぶ)は「まれびと信仰」を重視しました。伝承された祭りや風俗の意味を、「とこよ」という異界から来た存在の神格化・信仰という解釈で読み解こうとしています。(柳田国男は否定的でしたが)。

ナカノさんは「ナカノ」という名前が付いていながら、中野で生まれ育っていません。公認キャラは大抵はその土地で生まれ育ったという設定が多いのですが、なぜ中野に来たという設定なのでしょうか。
ちょっと不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、先述の事を考えれば、ナカノさんは外の世界から中野に来た存在でなければならないのです。
ナカノさんがどこからきたのかはわかりませんが、わからない・知らない世界は異界としてコワイと意識されるものではないでしょうか。

ここで中野区について考えてみたいと思います。
中野は昔から「怖いもの(江戸時代なら怪獣的な扱いだったた象とか、結核が不治の病であった時代に国立結核療養所がつくられたり、日本で最初期に西洋的な本格的刑務所がつくられたなど)」を受け入れて来たという歴史を持っています。しかも、人が住んでいる場所と隔離するようなこともなく、人々の生活とともにそれらの存在があったと言ってよいかもしれません。
しかも、京都東山の様な異界でもなく、隅田川の対岸のような悪所(あくしょ)でもなく、異界と現世の中間領域としての存在として、都に付随していると思われます。
もっと簡単に言うと「都の中にはコワイから存在して欲しくないけれど都の近くには必要」と思われる様々なものを受け入れて来た地だと言えるかもしれません。
結果、他とは違うマイノリティな存在を含む様々な人や施設を受け入れる素養を持っているのだと言えるでしょう。

つまり、中野区は本当の意味でダイバーシティとして存在し得るポテンシャルを持った地で、ナカノさんはその多様性を受け入れるダイバーシティの象徴として存在しているのではないでしょうか。(そうあって欲しい!)
ナカノさんの設定は細部に渡り民俗学的な裏付けがあるように感じられ、コンセプトづくりの初期段階から民俗学や芸能史(中世)の専門家が関わっている可能性も想像してしまいます。
クリエイターだけでつくったキャラクターというにはあまりにも難しいコンセプトを驚くほど体現できている為です。
きっと、関わってくださった方々お一人お一人がナカノさんを通して「ダイバーシティ=中野をつくっていこう」という大きな志をお持ちだったのではないかと思っています(そうあって欲しいという希望ですが)。

私にとって、ナカノさんとの出会いは、ブラタモリの「全然関係ないと思っていた点と点が線で繋がった!」と同じ驚きと感動があふれるものでした。
どうか、ナカノさんをコワいと思われた方も大いにイジッてください。
今回の写真は不気味だった〜〜!とか。
でも、かわいかったり美しいと思える時もありますよね。
ナカノさんを美しいと感じる事が正しいのでもなく、コワイと思うのがいけない訳ではありません。
多様性をそのまま受け入れるというのはそういうことです。

ナカノさんをコワいと思われる方々にそのまま受け入れて頂けるような存在になる事が、ナカノさんが一番望んでいる事ではないかと勝手に思っています。
拙文ですが、ナカノさんをコワイと思われている方々にもその存在が届きますように、願いを込めて書かせて頂きました。