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長州力が新日本プロレスを離脱

選手・フロントの離脱を招き、数々の禍根を残したクーデター事件。その流れのなか、1983年11月に新日本を退社した元営業部長・大塚直樹(クーデター派)が「新日本プロレス興行」を設立する。

この会社がUWFと同じく、のちに新日本と深い因縁を残すことになる。新日本サイドは、新日本プロレス興行を兄弟会社として認識し、新日本の興行を専門に行うと考えていた。しかし、大塚はこの会社を純粋な興行会社ととらえており、他団体の興行だろうと「オファーが来れば受ける」と目論んでいた。

そんな状況下、全日本プロレスが大塚に接触、業務提携の話が進む。新日本サイドにしてみれば、これは裏切りとも言える行為であり、何とかこれを阻止するべく交渉を重ねたが決裂。新日本プロレスが新日本プロレス興行に対して取引契約の解除を通告する事態に至った。これに対する報復として、1984年8月9日、大塚は新日本との絶縁、及び選手の引き抜きを宣言する記者会見を開き、両者の関係は決定的にこじれてしまった。

新日本プロレス興行サイドは長州力率いる「維新軍」に接触、引き抜きを画策。新日本は選手の慰留に努めたものの、長州ほか維新軍のアニマル浜口、小林邦昭、谷津嘉章、そして寺西勇の5人が、新日本プロレス興行へ移籍することとなった。その後、キラー・カーンやマサ斎藤らも合流し、最終的には3人の選手が集結。新日本プロレス興行は長州の個人事務所を合併する形で「ジャパンプロレス」に名称を変更した。ジャパンプロレスは、全日本プロレスと業務提携し主戦場として継続参戦することになる。しかし、次第に大塚ら経営陣と選手の間に、意見の対立から軋轢が生じる。
1987年3月、長州が一方的に全日本との契約を解除する発表を行ったのをきっかけに、ジャパンプロレスは決定的な内部分裂を迎え、最終的に同年5月、長州は正式に新日本へと出戻ることとなった。

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