”らしさ”ってなに?多様性の広がりと多様性の中を生き抜く難しさ(道端の雑草)
こんにちは 奈伽です。
ずいぶんご無沙汰してしまいました。
前回の記事にも書いていましたが、この4月から、新しい環境に身を置いて勉強や新しいお仕事に慣れるためにどうにかこうにか4か月過ごしてきました。一旦、仕事に節目が来て、8月からは勉強と自己成長に集中できる環境を作る予定です。
今回は、「~らしさ」について考えたことを皆さんと共有できたらと思います。
「~らしさ」って?
最近よく聞く「自分らしい生き方」といった言葉。
自分自身も「自分らしい」暮らしをする事が今の理想であり、目下の第一目標でもあります。
でもなんで、いま「自分らしくいる」事に憧れを感じるのか
それは、社会であらゆる枠組みに当てはめられた「らしさ」を求められる場面が、とてつもなく多いせいじゃないかと思っています。
子どもの頃は「子供らしく」素直で無邪気で快活にしていること
社会人になれば「新人らしく」謙虚かつ若者らしいエネルギッシュな体力を活かし仕事に従事する事が求められたり
10年勤めれば、上司には慎ましく従順で、後輩にはピンチの時に盾となってくれる強さや頼りがいのある人であることを求められる
例えば女性であれば、慎ましく可憐な美しさが求められたり
男性であれば、逞しく凛々しい姿が求められたり
母親らしく、息子らしく
旦那らしく、姉・妹らしく…
社会や家庭、あらゆる場面で、挙げだしたらキリがないくらい
様々な「~らしさ」という言葉の呪縛を、私たちは日々かけられて過ごしている
年齢や性別、属している場所によって様々な役割を押し付けられ
それ「らしく」いる事が、いまだに当たり前のように求められていると感じます。
それに順応できる人なら「~らしく」と言われたって気にならないのかもしれないけど、そんな人ばかりではないはず。自分だってその一人です。
そもそも「~らしい」っていう言葉。
普段は、友達や家族に対してその人らしい行動や言動に対して親しみや愛着を込めて伝えるものである気がするのに
ひとたび社会に出た瞬間、属している集団での役割に合った「らしさ」が求められ、そこから逸脱すると「あいつはダメだ」「わかってない」などと言われてしまう。
確かに、集団内部の役割としての「らしさ」を定義することで、一元的に人を判断する事ができれば、それほど手間のかからない事はないですよね。
だって、その人自身を個々に見て判断するのには、時間をかけてじっくりと関係を構築した上でないと、その人らしさが見えてこないから。そうするには、手間も時間もコストもかかります。今の社会には、そういった余裕がない。
手間と時間を惜しまず、その人自身を見つめてその人らしさを受容しあって生きていく事ができれば…
先日の著名な方の突然の訃報。あんなにショックで悲しい出来事も起こらなかったのかもしれない。
そんな世の中に変わることができば、沢山、救われる人がいるはず。
多様性の広がりで社会は変わる?
話は変わりますが、この前ネット記事を読んでいて
多様性を持たせた社会を作る事が求められる世の中となり、企業も学歴や性別以外の要素を見て、人を採用するようになっている。でも一方で、多様性のある社会というよりは、多様性によって分断された社会になってきているのでは」といった話を見つけました。
今、確かにその記事の通りだという実感が、私にはあります。
私が子供の頃は、朝のテレビと言えばめざましテレビだったし、男性アイドルグループならスマップかV6か嵐、女性アイドルグループならモー娘。一択。アニメもポケモンと遊戯王は絶対観てないと話題についていけなかったし、買い物に出かけるなら原宿しかなかった。エンタの神様で面白かったネタは、翌週の教室で必ずだれかがマネしてたし。(完全に個人的な経験に基づく見解です笑)
自分は本が好きで映画が好きで、基本的にインドア派な趣味ばかりだったけど、週末はソフトボール部で汗を流し、私立中学に進学した友達とも、そういった共通の話題があったから話す話題には悩まずにいられた。
どんなに趣味嗜好が違う相手とも、絶対的な共通の話題があるからコミュニケーションが取れていた。
でも今は違っているのではと思います。
ある一定の共通項(同じSNSを使っていたり流行りの音楽や芸人さんだっているはず)はあるにしても、昔よりもエンタメの選択肢が広がっているから、共通の話題の範囲がかなり狭まっているのではと思います。
例えば、テレビの有無から始まって、サブスクに加入しているかどうか、家が加入してるサブスクによって観ているものも違うし、テレビゲーム派なのかスマホゲーム派なのか、YouTube派なのかTikTok派なのか、応援するアイドル一つとっても、まず日本なのか韓国なのかで違いが出たりします。
実際、今、大学に通う学生さんたちと関わる仕事をしていますが、同じ将来の目標を持って同じ学科に通う学生さん同士でも、生活環境や普段接するものの違いによって、コミュニケーションに苦労している場面を多々見かけます。
読んだネット記事の中では、その人その人によって、普段接している情報が全く違うし、普段触れている情報によって会話の中で使う言葉も違ってくる。そうなると、そもそも雑談自体が成り立たなくなるのだと指摘されていました。
もはや、「子供らしい」「学生らしい」などといった括りなんかでは、到底「子供たち」や「大学生」といった多様な人が存在する集団を、捉えることなどできないのです。
世相を反映した小社会を生きる子どもたちの中で、受け取る情報によって多様化が進み、ある種の分断が起こっている中、大人の社会はより深刻な分断社会となってきているように感じます。
相手の多様な立場からの考え方を受容できなければ、自分の「自分らしさ」も需要してもらえないのだから、お互い、きちんと受容し合っていければいいのだけれど… 何だかそういった、個人の心持ちや意識だけで解決できる話でもなさそう。
効率やコミュニケーション能力が強く求められ、社会の流れていくスピードがどんどん加速し続ける中、そこにうまく順応しきれない人間が、日々、増え続けている気がする。
このまま分断が進んでいくと、いつか永遠に埋められない深い溝ができてしまうのでは…
自分が取り残されないために必死に食らいついていくような、個人プレイの人の群れではなく、みんなで支え合って補い合っていけるチームプレイの共生社会にするために。
そして、そういった共生社会で、自分のような人付き合いに苦手意識のある人はどのように向き合っていくべきなのか。
人付き合いが苦手な人間にとって、普通に生活していく事への難易度が格段に上がった、難しい世の中になりました。
どうやって、この難しい世の中を生き抜いていくか、しっかり頭を使って考えていかなければなりません。
皆さんのお知恵もお借りしながら、これからも日々、考え続けていきたいと思います。
最後までお読みくださりありがとうございました。
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