【特殊性癖】映画『正欲』『流浪の月』は小児性愛を救わない※ネタバレあり※
ナジです。
最近、「バキ童チャンネル」にハマっています。
バキバキ童貞こと ぐんぴぃと、その相方 土岡のお笑いコンビによるYouTubeチャンネルです。
(ぐんぴぃが取り沙汰されることが多いですが、土岡もめちゃくちゃ面白いです。コンビ2人でもっともっと出世してくれ〜〜!!)
このチャンネル、お下品なネタが非常に多いのですが、どこか知的な雰囲気もまとっていて、クセになります。
性癖を紹介する動画もいくつかありまして、それらをただ単にお笑いに昇華する文脈ではなく、その世界観を掘削して理解につなげようとするスタンスを大事にしている印象を受けます。
第一印象とは異なり、非常にアカデミックですよね。
特殊性癖を語った興味深すぎる動画
中でも私の好きな動画が、こちら。
「【インタビュー】魚でシ◯る人が登場!跳ねる魚にムラムラする理由が衝撃すぎた…【正欲】」
タイトルの通り、「バタバタと魚が跳ね暴れる姿に興奮する特殊性癖」にスポットを当てた内容です。
どうやら、そもそもは魚に限定せず「命が果てていくその過程」に興奮を覚えるとのこと。
その猟奇性のために一歩間違えればシリアルキラーにすらなりえそうな性癖の持ち主が、性癖を社会化していった結果、魚にたどり着いたとのこと。
性癖自体の珍しさもさることながら、「どんな性癖を持って生まれてしまったとしても、上手に折り合いをつけてこの社会を生きていく」という営みに感動を覚えました。
さて、動画内では小説『正欲』(朝井リョウ著)が紹介されています。
こちらは水フェチをテーマにした小説で、2023年にガッキー主演で映画化もされましたね。
内容が非常に気になったのですが、ガッキーがこんなに攻めた役柄を演じるなんて珍しいな!?と思い、小説ではなく映画のほうで鑑賞しました。
『正欲』では救われない小児性愛という性(さが)
※※※ここから『正欲』のネタバレあり※※※
特殊性癖という多様性を受け入れられるか?という問題提起がなされた、非常に興味深い映画でした。
映画を見たあと、私の中で引っかかっていることがひとつ…。
クライマックスでは、少年を買春していた矢田部が児童ポルノ所持違反により逮捕され、芋づる式に水フェチである佐々木と諸橋の2名も捕まってしまいます。
この展開を迎えるまで、物語は「人には理解されにくい特殊性癖(=ここでは水フェチ)を持つ人々の生きづらさ」に焦点を当てているのですが、終盤の展開により、一気に水フェチと小児性愛との間に決定的な線引きが行われてしまいました。
水フェチ→他者を傷つけない、”きれいな”性癖
小児性愛→他者を傷つける、”凶悪で汚い”性癖
ここで但し書き。矢田部の起こしたその犯罪自体を擁護したいわけでは決してありません。ご留意ください。
指摘したいのは、物語の展開上、「小児性愛自体、そもそも許されるべきではない性癖である」という印象が伴ってしまう点です。
この映画は、水フェチは同情し擁護するが、小児性愛に対しては批判的な目線を向けているように思いました。
水自体がなんとなく清いイメージが伴うので、より印象が操作されている感覚があります。
しかし本来、水フェチにせよ小児性愛にせよ、その生まれ持った性(さが)に苦しめられている点では一緒です。
多様な性癖を真の意味で認めようとするのであれば、どちらの性癖も、その存在自体は否定されるべきではありません。
ですが、やはりこの世界では小児性愛への風当たりが強い。
水フェチは受け入れられても、小児性愛は受け入れることができない。
結局、多様性を認めよう!とは簡単に言えても、その実、自分が認めることができる多様性しか認めることができない。
その自己矛盾から逃れられないということです。
もしかしたらこの物語は、そのこと自体を皮肉っている立場なのかもしれません。
ここで、上記で紹介したバキ童の動画で語られていた「性癖の社会化」が歩み寄りの一歩になる気がしています。
生まれ持った欲望にただ忠実になるのではなく、少しズラしたり満たし方を工夫したりすることで、害悪性を排する。
この上なく理性的で、建設的な営みではないでしょうか?
『流浪の月』で考える、社会の小児性愛に対する目線
※※※ここから『流浪の月』のネタバレあり※※※
さて、特殊性癖つながりで、映画『流浪の月』も鑑賞しました。
孤独な男子大学生の文(ふみ)が、偶然公園で出会った家庭環境の悪い10歳の少女・更紗を自宅に招き数ヶ月の穏やかな時間を過ごすものの、文が児童誘拐で逮捕されてしまい…という設定からスタートする物語です。
物語のラストまで文(ふみ)は小児性愛者として描かれるのですが、最後の最後に事情が変わってきます。
文(ふみ)は、第二次性徴が来ない病気を抱えており、マイクロペニスの持ち主であることが判明します。
その情報により、小児性愛ゆえのこれまでの行動と思えていたものがすべてひっくり返り、本当の文(ふみ)の苦しみが何だったのかがよくわかるようになっている、非常に巧みな脚本です。
しかしその展開ゆえ、小児性愛という性質が救われることはありません。
それまで描かれていた小児性愛者としての苦悩はあくまで擬似的なものであり、違うところに理由があったと結論づけることで、物語を見る側が安心して文(ふみ)に同情できるようにしている印象がありました。
つまるところ、この現代において、小児性愛の苦悩を描き切りそして救う物語をつくることはかなりハードルが高いことなんだと思います。
とくに昨今は、未成年への性加害についての問題意識が高まっていますしね。
当然、子どもたちをそういった犯罪から全力で保護することは絶対に必要です。
それは法律の観点でもそうですし、社会全体のマインドセットの観点でも言えます。
それとは別問題として、小児性愛自体を社会がどう受け入れるのか。あるいはどう受け入れないのか。
この議題を取り扱うのは、今この社会にとって早すぎることでしょうか?
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