江戸の馬肉文化を探れ!
一杯のモツ煮込みから調べ始めた「江戸の馬肉文化」。
今回は、下町エリアに残る馬の歴史をまとめてみた。
かなりマニアックな内容だが、どれもよく知られた東京の街が舞台となっている。マニアならではの視点で、肉食文化を深掘りしていこう。
上野アメ横 大統領の馬モツ煮込み
馬肉文化を調べ始めたきっかけは、
上野アメ横 大統領の「馬モツ煮込み」だった。
メニューには「創業当初から変わらぬ馬モツを使った」と書かれている。大統領の創業は、1950(昭和25)年。戦後の混乱期に「闇市」として始まった「アメ横」と、ほぼ同時期からの歴史がある。
馬内臓を使っていることが、めずらしくて、衝撃的だった。
以前、別の記事でも語っているが、馬の内臓を食べるのは「日本で6県だけ」という話もある。
ここに東京は含まれていない。
馬肉の産地というわけでもないのに、むかしから馬内臓が食べられていることが気になったのだ。
上野のお隣り、浅草・吉原では、かつて馬をさばいていた。その食文化の流れだろうか? そこから東京下町の馬の歴史をたどり始めた。
浅草吉原の馬肉文化
浅草・吉原の土手通りには、老舗の馬肉料理店と馬肉の精肉店が並ぶ。このエリアには、馬肉専門店が多い。
むかし吉原の遊郭に来た人たちは、乗ってきた馬を売りさばいて遊び代を工面していた。そこで、馬を持て余した商人が「これを食べてはどうだ」と始まった食文化だといわれている。
明治時代には、この付近に食肉処理場もあった。
「浅草千束」は、吉原のエリア。「浅草田中町」は、現在の台東区東浅草二丁目と、日本堤一丁目から二丁目あたり。桜鍋や馬肉精肉店が並ぶエリアだ。吉原にあった食肉処理場が閉鎖された後、土手通りを挟んで向かい側に移動するようなかたちで、田中町エリアに開設されている。
明治10年にあった浅草千束の食肉処理場は、あまり環境がよくなかったようだ。
馬肉屋が並ぶ土手通り沿いにも、かつて川が流れていた。「付近の水路」とは、その近くの「山谷堀」だ。この水路は、水質汚濁と悪臭が問題となり、昭和51年頃から東京都によって地下に埋められ、公園や歩道となった。
◎ 気になる「千葉」
吉原付近の馬肉精肉店では、馬内臓も取り扱っている。
「馬内臓を食べる地域は限られている」とはいうが、このエリアでは、日常的に馬モツが食べられている雰囲気だ。
加えて、この付近の馬肉精肉店に「千葉」という名前がつくのも気になる。
軍馬を大切にしていた千葉・房総の豪族の名は「千葉氏」だ。
房総半島は、かつて馬の産地だった。
千葉県は東京のとなりだ。なにか関係があるのだろうか?
◎ 千葉県にも馬の歴史があった!
戦国時代の房総半島には、馬を放牧する「牧」が、いくつかあった。江戸時代には、幕府が軍馬育成のための「馬牧」を設置。明治時代頃まで、軍馬や農耕馬の生産が盛んで、日本一の馬産地だった。
戦後は軍馬がなくなり、高度成長期とともに農耕馬の利用も減っていく。それに代わって競走馬の生産が行われるが、現在は、ほとんどが北海道などへ移っている。
千葉県船橋市は、いまでも馬にゆかりがある。
「中山競馬場」と「船橋競馬場」。
日本で唯一、市内に競馬場が2カ所あることでも有名だ。
市内の駅名にも名残がある。新京成の「高根木戸」は、馬牧の出入口に馬が逃げないように設ける「木戸」という門から名付けられている。ここにも、幕府の馬牧があったようだ。
◎ 浅草界隈と「千葉氏」の関係は?
私の推測では、吉原で取引されていた馬が、豪族「千葉氏」が所有する馬とも関係があったのではないか、という流れだったが、そうではなさそうだ。
吉原から近い、荒川区南千住の「石浜神社」付近は、かつて「石浜城」があった推定地のひとつ。千葉氏が拠点としていた場所だ。
馬肉店に限らず、下町界隈では「千葉」という屋号をよく見かける。これは、千葉氏ゆかりの地であることが関係しているのかもしれない。
◎ 千葉につながる「隅田の渡し」
石浜神社付近には、武蔵国と下総国(千葉県)の境目をつなぐ「隅田の渡し」があった。
浅草界隈と千葉は、ここでもつながっていたようだ。
馬喰町は、牛馬の仲介人「ばくろう」が由来
東京で、いかにも馬肉文化がありそうな地名が「馬喰町」だ。名前がすでに「馬を喰らってる町」だが、食べることとは別の意味があった。
この「馬喰」は、馬や牛の仲介人の「博労(ばくろう)」が由来だ。
JR馬喰町駅のスタンプには、馬の世話をする人の様子が描かれている。
江戸時代、この地には、幕府博労頭が管理する馬場があった。馬を売買する「馬市」も開催され、軍馬や役畜用の馬が取引されていたそうだ。
馬市は、主に産馬地で行なわれたが、江戸時代には都市でも開催された。それが、馬喰町だ。
都営新宿線の馬喰横山駅構内には「馬の銅像」がある。ここに書かれている「駅名由来」も見てみよう。
馬を治療する獣医のことも「博労」と呼んでいた。この町には、馬に関係する職業の人たちが集まっていたようだ。
「ばくろちょう」という地名も「博労町」と記されていた時代もあったが、時代の流れとともに、現在の「馬喰町」に改められている。
いまと昔では、馬の役割も大きく異なる。昔は乗り物であり、生産の動力だった。しかし現代では、食用としての役割もある。「博労」がいつしか「馬喰」に変わっていったのも、時代や文化の表れだろうか。
上尾久村の馬捨場跡(馬頭観音)
東京都荒川区にある「都立尾久の原公園」のそばには、馬を供養する『馬頭観音』が祀られている。
この裏側は隅田川だ。本来の馬捨場跡は、もっと川に近い場所だったようだが、2000年のスーパー堤防工事に伴って、この場所に移設された。
江戸時代、この付近は「秣場(まぐさば)」と呼ばれていた。
秣場とは、共同の草刈り場のこと。農家の人たちにとっては、牛馬のエサや、農耕用の肥料となる草を入手する重要な場所だった。
秣場には、死んだ馬などを解体する「馬捨場」もあった。明治時代には馬を供養する場所として信仰を集め、大正時代に「馬頭観音」が祀られるようになった。
馬は農耕だけでなく、乗り物や荷物の運搬にも使われる欠かせない存在だった。死んだ際にはここで解体し、皮革製品や薬品としても活用された。
◎ 広い河原がある場所は、食肉処理場に適していた
「馬頭観音」は隅田川沿いにあり、さらに土手を挟んだ300mほど先には荒川が流れている。
食肉処理場の跡地は、川のそばに多い。水が豊富な川沿いで、河原の広い敷地がある土地は、食肉処理をする場所に適していたからだ。
この尾久にも、かつて民営の食肉処理場があった。
はたらく家畜と肉食文化
東京下町には、老舗の馬肉専門店がいくつかあり、馬モツ煮込みを出す酒場もある。これは農耕や生活に、馬を使っていた歴史の名残だろう。逆に関西では、農耕に牛が使われていたので、ほかの地域よりも、牛肉文化が発展していったと考えられる。
肉食においては「関西は牛、関東は豚」といわれるが、なぜ、関東は農耕で使われていた「馬」が、主流にならなかったのだろうか?
◎ 「馬」から「豚」へ
馬を食用にするには、一頭からあまり量が取れず、成長にも時間がかかる。大量の食料が必要な都市部では、充分な量が供給できない。そこで注目されたのが「豚」だった。
豚は雑食で何でも食べる。短期間で成長して、約6カ月で出荷できる。一回の出産頭数も多く、繁殖力の高さも抜群だ。豚は、戦後の食糧難を救い、貴重な栄養源となったのだ。
豚は、生活の循環システムとしても最適だった。人間の残飯を食べてくれて、糞尿を肥料として使える。
かつて一部の地域では、豚小屋と人間のトイレが同じ建物にあり、用を足すと、豚が大便をエサとして処理してくれる「豚便所」まであったくらいだ。
肉食文化を探る旅は続く!
かつて農耕や生活で使われていた家畜と肉食文化は深い関係がある。今回、いろいろな街で馬の歴史を調べていくと、江戸の生活では、馬が欠かせない存在だったことがわかった。そして、その名残は、街のいろいろな部分に隠れている。
街歩きをしていると、肉食文化の気配をビビッと感じることがある。特に東京下町には、肉の歴史がたくさん眠っているのだ。
肉食文化を探る旅は、まだまだ続く。
また新たな発見があったときは、随時、まとめていきたい。
肉の歴史が眠る土地には、必ずうまい肉がある
それが私の肉アノマリー
閲覧ありがとうございマルチョウ。これからもよろしくお願いシマチョウ!