自分でケツを拭けるようになるのが大人だと思ってたけどどうやら違うらしい。
23歳。ロースクールとかいう強制収容にて、人権を制限される毎日でふと思う。
俺は大人になれたのか、と。
「大人」の定義は人それぞれだろう。金銭的に独立して生計を営めるようになったとか、満18歳を迎えただとか、童貞を捨てたとか、色々だ。
俺は漫然と「大人」とは自分のケツを自分で拭けることだと思ってた。
ここにいう「ケツ」というのは自分のやった行為の責任だとか自分のマイナスな感情、日常生活能力もろもろを含めた包括的な概念を指す。
要するに大人というのは、不愉快な感情や日常生活で生じる諸々について他人に押し付けることなく、自分で処理できることだと俺は定義してきた。
かかる定義に従えば、店員を呼びつけてケチをつけるジジイや、ヒステリー持ちでよく他人に責任を転嫁するあの子、ノリでみんなで群れてないと行動できないアイツらは、みーんな子供だ。
ガキだから自分の行動に責任を持とうとしない、群れて、逃げて、言い訳をして、酒が、女が、親が、あーだこーだ…
正直大学の途中くらいまではそんな風に本気で思ってた。世の中不条理があるのも百も承知だが、自分の頭で決断して選択してきたことくらい、責任を取れよ。と
まぁ薄々わかっていたが俺の「大人」は間違っているようだ。
辛いことがあったら人に共有して慰めて貰えばいいし、自分がミスしても誰かに助けを求めていい。自分の不機嫌や不幸を、自分1人で頑張って消化しなくてもいい。らしい。
寧ろそれが正常な状態なんだろうな。
別に勉強も運動も友人関係も恋愛も、人並みな程度にこなしてきたつもりだが、なんだかんだ親以外に自分のケツは拭いてもらった記憶はない…気がする。
一時的に貸し借りはすることはあっても必ず清算はしてきた…はずだ。
結局人と関わるのをどっかで忌避してて、そんな自分を正当化するために、自分のケツを自分で拭けることが大人だと思い込もうとしていたのかもしれない。
他人のケツを拭いてやるのは慣れたものだが、自分のケツを誰かに拭いてもらうのを、今更俺は許せるのかな。
多分絶対許せないし、これからも自分で自分の感情コントロールできない、自分のケツを拭けない人間を馬鹿だと思うし、自分のそんな部分をこれからも嫌悪して生きていくような気がする。
そういう意味では「大人」っていうのは、「ケツ」にうんこがこびりついているくらいがちょうどいいんだろうな。
うんこ垂れ流し野郎は論外だが、全く出さない便秘も良くない。
うんこパンツくらいならまだ自分を許してやろうと思えるし、当面はそんな人間を目指してやっていこうと思う。