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#12 やっと手に取りました。鈴木大拙先生の本のこと
先日受講した英会話の先生の影響を受けて、ようやく鈴木大拙先生の著書を読み始めた。75歳になるこの先生に、日本に来たことはあるのかと聞いたところ、「若いころに数日だけ。でも、いつか尊敬する芭蕉と、鈴木大拙のお墓参りをしに日本を訪れたい」と答えた。たまたま受講したこの先生からこうした発言を聞くとは思ってもみなかった。日本人なのに日本のことをあまりにも知らないと恥ずかしくなった。
先日、北鎌倉にある東慶寺に大拙先生のお墓参りに行ってきたところだった。しかし、実は先生の著書をちゃんと一冊読み終えたことがない。家には、母が若いころに買い集めていた大拙先生の本がたくさんある。いつか読もう、いつか読もうと本棚の上段の方にきれいに並べてある。眺めているだけ。今日はその中から「大拙つれづれ草」(1966)を手に取った。米国人の先生に刺激されて、本を開きようやく読もうとしている自分。
この本のあとがきを読んで、先生が96歳でお亡くなりになられる直前まで英訳に取り組まれていたと知った。資料や荷物も全て軽井沢に送って、そちらへ向かおうとされていた矢先にお亡くなりになられたということだ。命が尽きるまで、命を賭して取り組まれていた禅の研究、禅を海外に伝えたいという想い。その本をこの英語の先生は読んでいて、実際にことばがちゃんと届いている。そして遅ればせながら、今私が読もうとしている。
命を懸けた仕事と聞いて、高橋巖先生のことを思わずにはいられなかった。先生は亡くなる当日にも講演を予定されていて、待機されていたホテルのお部屋で座して亡くなられたと知った。しばらく何も考えられなかった。
私は鈴木大拙先生の言葉も、高橋巖先生の言葉も、ちゃんと受け取れていないと思う。ちゃんと受け取ろうとしているのか。必死に読むというのとも違うと思う。ただ、いつまでも時間があると思うな、ということを心に刻んでおきたい。