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#2 やっと出せた手紙
2024年12月29日
高橋巖先生への手紙をようやく書き終えて提出することができた。
一度エッセイを書いたものの時数制限オーバーでかえってきてしまったのだ。そのエッセイを書き直そうとしたけれど、1500字で書いたものを600字に縮めるのは容易ではない。今回、先生への手紙として書き直すことにした。年末年始の休みに入り、年が明けるまでにはどうしても出したかった。もうすでに遅すぎる感はあったけれど、絶対に出さなければいけないものだった。
先生との別れは衝撃的な出来事だった。先生を知る人であれば、だれしもが感じていることだと思う。私はたったの1年間、先生の講座を受けていた新参者。講座参加者の中には、20年、30年のお付き合いをされてこられた方々がたくさんいた。先生はご長命でいらしたので、95歳まで生きて、亡くなる前日まで講演をされていた。本当にすごいとしか言いようがない。それは理屈でどうのこうの言えるものではない。先生と長く付き合ってきたわけでも、長く知っているわけでもないのだが、すごい方と出会えた感激と別れの衝撃が1年間に両方起きてしまったのだ。
人は亡くなるものだと、必ず亡くなるとわかっているのに、その悲しさは避けることができない。当たり前といえば当たり前だけれど、とてつもない喪失感だ。そう感じている自分が、頭の上の方から眺めているもう一人の自分から、先生との出会いがいかに奇跡的であったかについて指摘され、その実感と喪失感が混ざり合って、味わったことのない感情となる。奇跡なのだ。すべてが奇跡だ。先生と出会ったこと、先生のことばを聞いたこと。
一度だけ先生が点呼をしてくれたことがあった。朝日カルチャーセンターの会場で名前を呼ばれると、私は「はい」とはっきりと返事をした。先生に名前を呼んでいただくことはきっとこれで最後かもしれない。
先生のことばをしっかりと受け取ることができたか、シュタイナーのことばをしっかりと受け取ることができたのか、定かではないけれど、自分が感じていること、そこに変化しているものを感じている。感じていることがころころ変わるのだけど、核心にちょっと触れたというと言い過ぎかもしれないし、陳腐かもしれないけど、自分の感情が変わるのを、深い所で感じている感じ。ちょっと言葉にできないや。