恋愛は『オワコン』である
恋愛は「オワコン」である。
なぜ恋愛が「オワコン」なのか。その理由は以下の通りである。
彼氏彼女像の偏り、メディアによって美化されすぎた恋愛ファンタジー、そして必要のない不安に振り回されるストレス。
愛されていないかもしれないと言って泣く女の子、不安で爆発した彼女に「ダメンズ」という十字架を背負わされる男の子。競争社会で生きる男に共感を求める女、メンヘラは無理なのに必要とされたい男。こんな光景を私たちは飽きるほど見てきたのではないだろうか。
これらの状況は、皆が恋愛というものに画一的なイメージを持っており、そのイメージに自分たちがうまく当てはまらないことに困惑しているだけである。
そもそも誰かを好きでいることは自分の自由であり、自分を好きになってくれるのもまた相手の自由である。
誰も他人を縛ることはできない。どんな関係性であれ、自分以外は他人だからだ。
これらを踏まえると、恋愛は人類にとって必要な行為ではなく、誰かによってコンテンツ化されたのではないか?恋愛コンテンツに翻弄される人々からお金を取れると気付いた天才がいたのだろう。
恋愛というものは、もっぱら独占欲から始まることが多い。しかしその独占欲は、これからの時代では満たされない欲望になっていくだろうと私は考えている。独占欲で言えば、男女のパワーバランスがはっきりとしていた時代では満たされやすかった。何せ女性のライフラインを男性側が握れるのだから、女性側は付き従うしかできなかった。しかし現代ではジェンダーレスの時代に変わり、個々のパワーがかなり強くなった。喜ばしいことではあるが、これはつまり人を独占する行為が難しくなったのと同義である。
恋愛に必要な燃料「独占欲」が満たされないなら、恋人が欲しくないという若者が増えるのも納得できる。(もちろん経済的な側面も大きいのは百も承知だ)
話が逸れたので本題に戻る。
つまり時代の変化によって、恋愛というコンテンツは消費期限が来てしまったのだ。しかしこれは恋愛という「コンテンツ」が終わったのであって、人を愛するという行為自体が必要なくなったわけではない。誰かに注ぐ愛情や、誰かに恋焦がれる気持ちは本能として私たちの遺伝子に組み込まれている。それらは無くならないし、無くせるものではない。私が伝えたいことは「誰かが作った恋愛像に囚われないこと」「人を好きになるのも誰かに好かれるのも個人の自由だ」ということだ。
しかし決して、誰からも愛されない(と勘違いしている)人の不安を煽りたいわけではない。これを読んでいる人の中に、恋をしている人がいるなら伝えたい。
貴方達の恋は本当に美しく尊い。眩しすぎるぐらいである。
ここまで言っておいて何だが、「恋愛のオワコン化」を悲観する必要はない。むしろコンテンツが終わった事を前向きに捉えてほしいというのが本記事の意図である。これ以上理想と現実の乖離に悩む必要など無いのだ。
もしパートナーがいるならば、自分なりに愛してみてほしい。そして相手に愛されていないと思うなら、他人だと思って割り切ってみてほしい。
自分の愛情を出し切るところまで出し切れば、その人がいなくなっても、人を愛する技術は残る。
廃れた大人の戯言であるが、頭の片隅にでも置いてもらえると光栄に思う。