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ジャン=フランソワ・ミレー
ジャン=フランソワ・ミレーはバルビゾン派と近い間柄にあった。
バルビゾン派とは、パリのはずれの小さな町に住みついた芸術家集団である。
彼らは共に、より自然な様式の風景画の発展を目指し、ミレーは特に農民を配した写実主義的な風景がで有名になった。
彼の田園風景画は当時物議を醸した。
というのも、絵の大きさが従来の古典的絵画あるいは歴史画に用いられる規模だったからである。
ミレーは農民階級と土地のつながりを探りたかったのであって、政治的に過ぎる作品を描きたいわけではなかった。
ミレーの作品は、フィンセント・ファン・ゴッホに多大な影響を与えた。
ゴッホもまた農場で働く人たちに共感を覚えたのだ。
1814-36年
ジャン=フランソワ・ミレーはノルマンディのグリュシーという村の裕福な農家に生まれる。
10代にしてすでに美術の勉強を始め、肖像画家ポールデュムシェルの弟子となる。
1837-44年
1837年にパリに移り、2年間を国立美術学校(エコール・デ・ボーザール)で過ごし、ポール・ドラローシュに学ぶ。
肖像画と小さな田園風景を主に描き、1848年に初めてサロンに受け入れられた。
1841年に最初の妻ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚するが、ポーリーヌは数年後に没する。
1845-59年
1840年代半ば、ミレーはパリで多くの画家たちと出会い、のちにその画家たちもバルビゾン派に参加する。
その中にはコンスタン・トロワイヨンやナルシッス=ヴィルジール・ディアズ・ド・ラ・ペーニャもいた。
1849年、ミレーはバルビゾンに居を構え、風景や働く農民を描く制作時期が幕を開ける。
農民を描いた3作品は、彼の画家人生においても転換点となったが、当時はどこでもあまり受け入れられなかった。
1860-75年
1860年代を通じてミレーは世界中に顧客を増やすが、金銭面での不安定さは亡くなる直前まで続く。
後期の作品は純粋な風景画で、物議を醸すことは少なかった。