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「プライベートでセンシティブ」の耐えられない軽さ

 最近、「プライベートでセンシティブな案件ですので」という言葉が、あまりにも都合よく使われている気がしてならない。

 特に気になったのが、先日のフジテレビの記者会見だ(やり直しの方)。テレビ局の経営陣が、元タレントと女性社員とのトラブルを把握したあと、「プライベートでセンシティブな案件なので」、男性タレントには事情を聞くことも、女性の気持ちを確かめることもなく、彼がMCを務めていた番組を1年以上にわたって継続したというのだ。タレントの降板や番組打ち切りが、女性にどんな影響を与えるか分からず心配だったので、そのまま番組を続けたと説明していた。

 そのロジックは、どう考えてもおかしい。「プライベートでセンシティブな案件なので」というのなら、当事者の双方から事実関係を聞いた上で信頼できる専門家に介入してもらい、女性への心理的な影響を考慮しながら、男性タレントや局側への処分をおこなうべきだった。

 しかし、彼らはそうはせずに、自分たちだけの判断で現状維持の道を選んだ。つまり、何もしなかった。彼らの独断が適切な方法ではないのは自明だし、関係者の誰にとっても厳しい結果しか生まなかった以上、間違いだったとしか言いようがない。

 結局のところ、彼らの言う「プライベートでセンシティブな案件」というフレーズは、自分たちの無為無策への言い訳でしかなかったと言われても仕方ないと思う。社会に向けて、問題があたかもアンタッチャブルであるかのような印象を与え、自分たちの組織の論理、目先の面子や利益を優先させたことを隠蔽しようとしたのではないか、とさえ考えてしまう。

 現状では、「プライベートでセンシティブな」という言葉が悪用されていると言っても、決して言い過ぎではない。

 フジテレビの会見と前後して、兵庫県の知事が、記者会見の場で何度か「プライベートでセンシティブな問題なので」というフレーズを口にしていたのも気になっている。百条委員会のメンバーへの度重なる誹謗中傷について意見を記者から求められ、「プライベートでセンシティブな問題なので」と断った上で、「調査委員会で対応します」などと答えたのだ。しかも、どんな質問が来ても、知事は壊れたレコードのように同じ答えを繰り返す。彼もフジテレビ同様、問題をタブー化して、「プライベートでセンシティブ」を自らは何もしないことの言い訳にしているとしか思えない。

 このような論理を振りかざす人たちが、自分の所属する企業の経営者だったり、住んでいる地域の首長だったりしたら、非常に困る。不健康な環境で生きていくのは、辛いことだ。自分にも、身近な人にも、そして属するコミュニティ全体に、そのツケは回ってくる。

 彼ら(全員、おじさんだ)を見ていると、「プライベートでセンシティブ」を、組織ガバナンス実行者の都合の良い万能フレーズとさせてはならないという思いを強くする。「プライベートでセンシティブ」の後にどのような言葉が続くのかに注意し、公平な対応がなされるようにしつこく求めていくしかない。

 話をフジテレビに戻して、私は問いかけたい。誰に対してかは分からないけれど。

 私たちが日ごろ楽しんでいる(と思っている)エンターテインメント(芸能、芸術と言い替え可)は、誰かの涙や、踏みにじられた尊厳の上にしか成り立たないものだったのだろうか。良質のエンターテインメントを創るためには、誰かの犠牲がどうしても必要なのだろうか。私たちが大好きなエンターテインメントを守るためには、「プライベートでセンシティブな」を建前として、心や体に深い傷を負った人たちには黙っていてもらうのが良いのだろうか。

 もしそうなのだとしたら、この世にエンターテインメントなんて本当に必要なのだろうか。人を幸せにするのがエンターテインメントじゃないのか。

 この問いに対して、希望の持てる答えがほしい。

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