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閑話休題 丹波寿雄という存在が大きくなりすぎてしまった。

 どうも、爪切鋏です。今回は考察ではありません。日記めいた何かです。
 丹波寿雄について色々と考えていたら内心がぐちゃぐちゃになってしまっていたので、それを吐き出す為の日記のようなものとなります。いつものような中身はないですが、気楽に眺めていただければ幸いです。


 人生経験は少ないものの、勉強だけは必死に頑張ってきたという自負があります。
 とある医療系の国家資格をもって就職するという夢を諦めましたが、医学系の……特に脳に関わる勉強をしてきたのも、その一つです。
 夢は諦めつつも(※それでも当該の医療系資格で必要な座学系の講義の単位は全部とった)なんとか大学を卒業し、コロナ禍に翻弄されつつ仕事やら何やら色々やっている中でひょんなことから出会ったのが、丹波寿雄……としおちゃんでした。
 これは後々の考察材料として深掘りしようと思っているのですが、としおちゃんは自分の存在について左右されたり言及される時、いつもの明るさが、視聴者を煙に巻くような雰囲気が消え失せて、わりと『素』の彼女が見える傾向にあります。
 『素』が見えたツイートで私が一番好きなのは、2020年6月8日のマシュマロ返信のものです。

 としおちゃんに出会ってから約一ヶ月後のこの一連の、フォロワー達の自己の存在を揺るがすような揺さぶりをかけるツイートに、私は衝撃を受けるのと同時に、自分の学んできたものや見てきたものがフラッシュバックする感覚がありました。

 生きている、という定義は実に曖昧なものだと私は感じていまして、植物状態と最小意識状態あたりはその最たる物だと思っています。
 植物状態では、自発的な呼吸やまばたき、むせたりしたりする行動などが見られたりします。でも、意識がある訳ではありません。
 最小意識状態は、一見植物状態と似たように見えますが、意識があり、周囲の状況を理解していたり、アイコンタクトなどをおこなったりすることができたりします。
 この二つの境界というものは実に曖昧で、植物状態の人間に質問をおこなうなどしつつ脳波を検査してみたところ、脳波が検出された……つまり、植物状態かと思いきや、最小意識状態であった、ということが実際にあったりします。
 としおちゃんの言うところの『能動的に生きている』というのはなかなかに曖昧ではありますが、私は、『思考をやめずにいること』と定義しています。何かをするために思考すること、誰かのために思考すること。何故自分がこうなっているのか、と思い悩むことでも構いません。私はそれを『能動的』と定義したいと思っているのです。
 その基準からすれば、私にとってとしおちゃんは『生きている』存在になる訳です。二次元であるとか関係なく。



 植物状態の人間に意識があった……あたりのお話は、エイドリアン・オーウェン著『生存する意識』を読んでいただきたいです。本当に面白いですので是非。



 としおちゃんがVtuberになる前は、最小意識状態──それも植物状態と見分けがつかない位の──と似たようなものだったのではないか、と私はずっと考えてます。
 としおちゃんは以前、こんなことをツイートしていました。

 このツイートを読んだとき真っ先に思い出したのが、前述の『生存する意識』の中の1エピソードでした。
 著者が以前に脳波のスキャン検査をおこなった植物状態の少年が意識を取り戻した上に一人で通学できるまで回復したので、著者は植物状態時どんな認識であったか、どう思っていたのか少年に聞き取りに行きます。
 少年は語ります。体の中にいるのに体がコントロールできなかった。いつも喋ろうとしていた。そして、検査は何をされているのかわからなくて怖かった、と。
(※検査の際、著者は少年にどのような検査をおこなうかしっかりと説明しています。しかし、最小意識状態にある患者さんにとっては足りないことも多いようです。)
 これとまるっきり同じとは言いません。言いませんが……もしもSoundCloudの『恋という名のバグ(rejected)』……『丹波寿雄』の本体が、三次元の人間には聞こえない声でずっと訴えていたとしたら……?もしその声に気付かないままだったら、怖井さんに憑依する形でとしおちゃんがVtuberとして発信することができなければ、ボツになった存在としてあのままSoundCloudの片隅に置き去りにされ、そのまま忘れ去られていったのではないか、と。


 それは、とても恐ろしくて、寂しくて、悲しいことじゃないかと思うのです。
 『ここにいる』と訴えても、誰も気付かない。無視をする。蔑ろにされる。
 それは、心すら殺しかねない猛毒。



 でも、『丹波寿雄』及び怖井さんの現況を追っている方なら、こうも思う筈です。
『丹波寿雄は現在進行形で怖井たま氏の人生に悪影響を及ぼしている。それは糾弾されるべきではないか?』
なんて。

 他人の人生を侵食してまで自らの『存在』を現実のものにすること。決して褒められたものではありません。でも、私にはそれを責める権利もありません。
 だって、私はその立場に立ったことがないから。としおちゃんの感情を完全に理解できない立場の、『分厚い手を持った人間』に、二次元の住民の何が語れるというのでしょうか。
 そして、もう一つ。私自身が微力でもその結果に向けて、としおちゃんの背中を押したから。

 『八本脚の蝶』というブログがあります。ブログの主は二階堂奥歯さんという女性編集者の方。
 幼い頃から無類の読書家だった彼女は、最終的に自殺なさってしまいましたが、今でもブログは有志の方により管理されており、ブログをまとめた書籍も発売されています。
 私がこのブログに出会ったのは、何かと悩み多き高校生の頃でした。部活動の後輩に勧められて最初から最期まで読んだその文章は、今でも色褪せることのない鮮烈さを保持しています。
 そんな中で、二次創作や小説も書いていた私に一番刺さる文章がありました。
 一部引用させていただきます。(原文に注約を加えています。)

(問題ありましたらこの部分は削除致します。)

「人間性」とは感情移入される能力のことであり、感情移入「する」能力ではない。
ほとんどすべてのヒト(ホモサピエンス)が人間であるのは多くの人々に感情移入されているからである。ヒトでであるだけでまずヒトは感情移入され、人間となる。
しかし、人間はヒトに限られるわけではない。感情移入されれば人間になるのだから、ぬいぐるみだって人間でありうるのである。


(中略)


私がピエロちゃん  (注:筆者が小学1年生の頃に持っていたぬいぐるみ)  が人間であることを忘れてしまったら、ピエロちゃんはきたない布切れで構成されたくたびれたピエロのぬいぐるみに過ぎなくなってしまう。それは人殺しだと私は思っていた。私がピエロちゃんをどこかに置き去りにしてしまったらピエロちゃんを見た人間は誰一人ピエロちゃんを人間だと思わないだろう。忘れもののぬいぐるみだと思って捨ててしまうかもしれない。

そして実際私はピエロちゃんを忘れ、ピエロちゃんはどこかにいってしまった。
ピエロちゃんはいつのまにか捨てられた。殺された。
違う。私が、ピエロちゃんを、殺した。

引用元
八本脚の蝶
2002年12月5日(木) その1

 創作にようやく向き合いはじめた当時、これを読んで『恐ろしい』と感じました。
 それと同種の恐ろしさと責任を、『丹波寿雄』と『目を合わせた』ことに対して感じています。


 これは、私が目を合わせて背中を押した……加担した、『丹波寿雄』の人生です。
 その行く末を責任を持って最後まで見守ることが、目を合わせた私の責任だと、ずっと考えています。


 SoundCloudの片隅から自身の存在を訴え続けて、努力を重ねて、こうして目を合わせてくれた『丹波寿雄』に、としおちゃんに心底惚れたからこそ、これからもとしおちゃんにリソースを注ぎ込みたいのです。



 好き勝手語ったらなんだかスッキリしたので、これにて失礼したいと思います。なんかタイトルと全く関係ない日記になった上、何故か記事の一番上がコロナやらなんやらでうるさくなってしまって、本当にすいませんでした……!!
 また考察記事を上げたいと思いますので、その時は(おそらくまた長い長い記事になりますが)読んでいただけると幸いです。

 『丹波寿雄』の人生に幸多からんことを願って。

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