見出し画像

内向的人間は大人数の飲み会をどう乗り切るべきか

飲み会という地獄


内向的な人間にとって、日常の最もストレスフルな瞬間は飲み会である。

親しい友人との飲み会、あるいは少人数の飲み会であればいいが、集団の中に生活している限り、大学や会社の集まりでそれほど親しくない人と大人数での飲み会に参加しなければならないこともある。そして、内向的人間にとってそういった飲み会は概して地獄である。

内向的と自覚のある方なら、大学あるいは職場で苦しかった飲み会の経験の1つや2つあるのではないだろうか。自分のテーブルだけお酒や料理の減るスピードが異常に速かったことはないだろうか。かく言う私も大学時代には様々な飲み会に参加したが、心の底から楽しめたものは片手で数えるくらいしかない。

このnoteではそんな内向型人間が飲み会で何を感じているのか、そしてどのような対処法を取るべきかを解説する。このnoteは、内向的人間にはもちろん、外向的人間の方々にもぜひご一読いただきたい。そして、世の中にはこのような思考の人間が少なからずいるということを知っていただければ幸いだ。

飲み会の試練(1)


飲み会は、内向的人間にとっては試練の連続となる。
居酒屋に着くと、内向型にとって第一の試練が始まる。
それは、「自分の席を選ぶ」ことである。

内向的人間にとって、席を選ぶという行為は実は難しい。普通の居酒屋であれば、4人テーブルずつに分けられて各自座っていくだろうが、

「自分がそのテーブルに座っていいのか」
「同じテーブルの他の3人は自分の存在を快く思っているだろうか」
「本当は仲の良いグループで4人で座りたいという思惑があるのではないだろうか」

という不安が自分の脳裏をよぎるからである。

自分の席を選ぶという状況において、内向型は自分の意思よりも他人の意思を尊重してしまう。「誰々の近くに座りたい」ではなく、「この人の隣に座ったら不快に思われないかな」というような思考回路である。

可能であるならば、居酒屋の席は「Aさんはここ」、「Bさんはこっち」というふうに不可抗力によって決められていて欲しい。それならば自分の意志によって席を選ばなくて済む。人に不快感を与えてしまったとしても、「でも自分でこの席に決めたわけじゃないから」という逃げ道が欲しい。

学生時代の「それじゃあ4人組作って」という教師の一言にはトラウマを覚えるが、もし「この4人でグループを作って」とメンバーを指定されていたら、そのうちの1人に嫌がられていたとしても受け入れられる。要するに自身の行動に起因して人から拒絶されてしまう場合の方がダメージが大きいのだ。

自分の行動によって他人に予期せぬ害を与えうるなら、何も選択しないで堂々と他人に拒絶されたい。私はここに現代を生きる内向型人間のトロッコ問題を定式化する。

飲み会の試練(2)


無事に自分の席が決まったら、第二の試練、「集団の会話に参加している感を醸し出す」ことに全神経を注ぐ。

飲み会では普段の学校や職場と違い、会話を強制される。普段忙しいフリや寝ているフリをして他人の会話にろくに参加していない内向的人間にとっては、こうした会話への参加は大いなるストレスとなる。

多くの内向型人間は、親密度の高くない人に対してそもそも話したいことがあまりないと思う。話したいことがたとえあったとしても、自分から率先して話すことでその後の会話を回していく責任を負いたくない。

普段人と話さないから「会話の責任を負う」ことは重労働であるし、万が一盛り上がらなかった場合には「なんであんなこと言ったんだろう」と再起不能なまでに落ち込んでしまうだろう。

無論、飲み会での会話なんてどんなことを話してもいいのだ。上記のような思考は明らかに考えすぎである。誰々が喋って誰々が面白かった、滑っていたなど気にしている人は一人もおらず、明日にはみんな忘れている。そんなことはわかっている、理解しているはずなのだが、頭ではわかっていても内向的人間はその恐怖を克服することができない。どうしても思考が内向きになって、自分のことや自分の発言ばかり無意識に意識してしまうのが内向的人間なのである。

この潜在的思考のもと、内向的人間の選択する飲み会での行動は、「聞き役に徹する」というものだ。「聞き役に徹する」と言えば聞こえはいいが、自分から相手に興味を持って話を傾聴するというのではなく、ただ目の前の相手の口から流れてきた音声に反応して「おー」とか「すごーい」とか適当な言葉を発するだけである。

内向的人間は、飲み会でボールが自分に回ってくることを極端に避けている。ボールが回ってくることで注目を浴びたくないし、ボールをうまくキャッチできるか、うまく次の相手に回せるかの自信もないのである。会話のキャッチボールとよく言うが、外交的人間がキャッチボールをしている一方で、内向的人間はそのボールに当たらないように必死に逃げ回っている。思えば自分はドッジボールのときも逃げ専であった。

当然こんなことをしている飲み会が楽しいはずもない。せめて料理やお酒が美味しければ耐えられるのだが、親しくない人がいる飲み会ではビールや焼き鳥も美味しく感じない。それなのに参加したら安くても3000円は飛んでいく。

できれば内向的人間は一人でテレビやYouTubeを見ながら飲み食いがしたい。あるいは気の置けない仲間と少人数で料理を楽しみたいのだ。

飲み会の試練(3)


飲み会における最後の試練、それは「飲み会から帰る」ことである。

飲み会から帰ることは、戦地から退くことに相当する。内向的人間は誰しも足早に戦地から離脱し故郷に帰還したいという思いを抱えている。もちろんさっさと退散したら良いのだが、大っぴらに「帰ります」というとつれないやつだと思われたり、注目を浴びたり何かといやである。かといってのろのろしていると二次会やカラオケに連れて行かれそうになったりする。

よって内向的人間の至上命題は、あまり目立たずに飲み会から離脱することになる。存在感を消すことによって、他人が自分のことを考える時間を少しでも減らしたい(実際には他人は自分のことに1ミリも興味はないのだが)。

飲み会から離脱する時には、同じ帰り道の人がいないかをチェックすることも忘れてはならない。内向型人間は、速やかに集団から解放されることを悲願としている。当然電車には一人で乗りたいので、同じ方向の電車に乗る人がいるのならば帰るタイミングをずらしたりもする。

内向的人間は、集団での会話に参加する場合には普段使わない筋肉を必死に動かしながら、自身の持てるコミュニケーション能力を総動員する。悟空が3倍界王拳を使うように、内向的人間も精神力を削りながら人付き合いモードに移行する。

界王拳というのは時間制限付きのパワーである。自分が飲み会の間だけと条件を決めて発動しているのに、飲み会のあとにまで界王拳を延長させてしまったら間違いなく精神が崩壊し明日からの活動に支障が出る。したがって一人で帰ることは精神衛生上非常に重要なことだ。

帰り道、ひとりで電車に乗っている時には清々しさを感じることもあるが、飲み会の時の自分の発言や相手の発言がフラッシュバックしてくることもある。あの時なんであんなこと言っちゃったんだろう、絶対あの人は不快に思ったはずだ、など一人反省会は経験がある人も多いのではないか。

なぜ飲み会はこれほど苦痛なのか


なぜ飲み会はこれほどに苦しいのだろうか。

思うに、普段のコミュニケーション、例えば職場などではコミュニケーションに目的が存在する。「この資料を仕上げるために~しといて」や「~の進捗はどうなっていますか」などは業務上必要なコミュニケーションであり、これらの言葉を発したところで誰も気に留めやしない。言い換えると、これらの発言は誰にでも平等で許されている。

しかし、飲み会においてはコミュニケーションに目的が存在しない、というより会話を楽しむことが目的である。この点において内向的人間は拠り所をなくし混乱する。自分の発言が業務連絡ではなく特別な意味を持つようになってしまう。レールから外された電車のように、どんな発言が求められていて、周りとどんな会話をすべきなのかということに迷子になってしまうのである。

自分の発言が業務を遂行する上で必要なもので、その発言は皆に認められている、という土台が不安定になり、一つ一つの自分の発言が相手の感情を刺激する可能性を持つようになると、内向的人間はうまく話せなくなってしまう。概して内向的人間というのは他人に注目されることが苦手である。

こうした飲み会の場においてよりショッキングなのは、飲み会という異空間に容易に適応する外向的人間の存在である。外向的人間は、自分の興味の対象が自分ではなく相手であるため、一つ一つの発言によって自分が相手にどう思われるかをそれほど気にしない。自分が不快だと思われるリスクなど歯牙にもかけないのである。

外向的人間の存在は、周囲での人間関係構築から逃避してきた内向的人間に、強い疎外感、無力感、劣等感を与える。内向型にとっては、この場を楽しめていない自分は人間としておかしい存在なのではないかと考えてしまうこともあるかもしれない。

そもそも飲み会とは、外向的人間が楽しむためのイベントである。
外向的人間はこういった飲み会によって日々の仕事の疲れやストレスを晴らし、明日に向かって充電をする。対して内向的人間は、疲れやストレスを蓄積したまま飲み会に向かい、さらなるダメージを蓄積して帰路に着くのである。

飲み会を忌避する内向型への処方箋


それでは、このような生きづらさを感じる内向的人間はどのように飲み会に対処していけば良いのだろう。

簡単なのは、飲み会に参加しないということである。

しかし、私は飲み会には参加するべきであると思う。飲み会に参加しないという選択肢を取ったとしても、家に帰った後からふつふつと自己嫌悪や罪悪感が湧いてくるものだ。「今頃自分が会話のネタにされているのではないか」とか、「飲み会に行かなかったから今後の人間関係で何か支障が出るのではないか」とか全く不要の心配をし始めてしまうだろう。

また、飲み会に行かないのは自分にとってマイナスであるようにも思う。そもそも内向型は、人とコミュニケーションを取るのは苦手だが、他人と一切の人間関係を持ちたくないと思っているわけではない。「自分は広い交友関係はいらないんだ」と言う一方で、心の奥底では誰とでも仲良くできる外向型を羨ましく思っている。

人間関係は0か100ではない。学校や職場の人間関係は簡単には変えられないので、ある程度社会に迎合して円滑な人間関係を目指した方が良いのではないか、と私は思う。

では、飲み会に参加するとして内向型がうまく立ち回るにはどうすればよいか。おすすめは、自分の役割を探すことだ。

飲み会で自分の役割を探す。
例えば、注文のために店員さんを呼ぶ、サラダを取り分ける、誰かのグラスが空いていないかを確認する、潰れている人を介抱する。

このような行為は他人のために見えて、全て自分のためである。
自分自身に役割を課すことで飲み会における拠り所を見つけ安寧を得ることができる。私はBBQに参加した際には片時もコンロから離れることはない。火起こしをし、野菜を焼き、肉を焼き、後片付けもする。何か役割を持っていると、人から話しかけてもらえるし、自分の存在価値を見失わないで済む。

また、現実的な話をするのであればすぐに酔っ払ってしまうことも効果がある。内向的人間が飲み会でうまく話せないのは、結局のところ自分の歪んだ認知が言動を規制しているからである。この認知のバリアを破壊する装置としてアルコールは機能する(ただし、抑うつ傾向の強い方はアルコールの過剰摂取は控えた方がいい)。

そして最も重要なことは、飲み会でうまく馴染めない自分を受け入れることだ。結局のところ性格を変えることはできない。性格は遺伝である。したがって飲み会を楽しもうと気負ったとしても、うまくいかなくてもともとなのである。よって、自分にあまり期待しないで、「今日はいつもよりリアクションを大きくしてみよう」「前の飲み会より一言多く喋ろう」くらいの低いハードルで飲み会に臨んでみると良いのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?