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縁起と四諦:リスクマネジメント視点で仏教を説明します②

その辺の自称仏教者が語るダメ思考のパターンを説明しています。
せめて、本文にある事例を読んで、
この問題、あなたならどうするか?ということを考えてみてください。

このnoteの対象読者は、何らかのプロジェクトマネジメント、システムの設計開発、リスクマネジメントや防災に関する業務に従事していて、因果関係と相関関係の違いを理解しているビジネスパーソンやエンジニアです。
そして、このnoteの目的は、これらの人たちに向けて、厳しい人生の状況は仏教で変えることができるということを、可能な限り現代のビジネス用語で説明することです。

この事例を語るためにボクが設定した重要なキーワードは、
仏教の実践とは、人生の防災、人生のリスクマネジメントである
というものです。

そして、
その辺の仏教を語る自称仏教者やスピ系の人たちの中に、この問題に真正面から向かい合って答えている人が存在するであろうか?
と考えながら最後まで読んでいただけるとありがたいです。

第1回目を読まなくても大丈夫だと思うのですが、仏教用語である「縁起」と「四諦したい」の定義の確認が必要であれば参照ください


考察事例:仕事中に子供が事故って死にました 

事例

このnoteでは、下記の事例を中心に説明を進めていきます。

幼い我が子が事故で死にました。
私が仕事中、子供を保育園に預けていたときのことです。
子供たちの散歩中の出来事で、こちらは交通法規上全く問題なく、歩道を歩行していたところ、対向車線側で近所の子供の飛び出しがあり、それを避けようとしたトラックの運転手が急ハンドルを切った所で車両のコントロールを失い、そのまま、反対車線にいたこちらの子供たちの列に突っ込みました。
トラックと衝突した我が子は即死。
事故対応をした警察には子供の遺体は見ないほうが良いと言われました。
さらにトラックの後ろを走行していた自動車も急な出来事で対応できず、自動車の制御を失って、飛び出しをした子供と衝突し、その子供も即死しました。

作り話の事例ですが、似たような事件は、残念ながらあるはずです。

状況を整理すると
主語は、仕事中で現場にいなかったあなたです。
飛び出した子供が悪いといえば悪いのだが、この子供は何も考えていない。
トラックの運転手に、子供を轢き殺したいという欲望は無い。
保育園の保母さんたちも、事故に見せかけた子供の殺害を企図していない。
子供たちも車に轢かれて死にたいとは思っていない。
仕事中のあなたも、子供が事故で死ねば良いとは思っていない。
つまり、誰も意図していない大事故です。

この事故を未然に防ぐこと、これが目標です。

結局自分のことしか考えていない

その辺で仏教を語る自称仏教者やスピ系の人たちの主張は、もっともらしい事を言っているように感じるかもしれないけど、結局のところ

自分が
自分が
自分が・・・

しか言っていません。
自分が瞑想するとか、自分が何かを知るとか、そんなのばかりです。

これらの人たちの中に、家族も含めた事件事故(しかも現場に自分はいない!)を未然に防ぐという人生の防災、人生のリスクマネジメントについて、真正面から説明している人は、果たしてどれだけ存在しているでしょうか?

・事例のような事故を、そもそも発生させないこと
・たとえ発生してしまったとしても、我が子は無傷で帰ってくること

という結果を生み出すには、事前に何をどうしておけば良いでしょうか?

第1回目に説明した仏教の四諦したいで考えれば
苦:我が子が事故死するのは、残された親にとって「苦」である
集:誰にも制御できない「何か」があって、我が子を失う事故が発生した
滅:事故が発生する前に、この「何か」を滅する必要があった
道:その具体的な方法はどこにある?
と、なります。

事件事故を引き起こす何かを事前に滅しておくこと
これは仏教における人生の防災、人生のリスクマネジメントであり、人生の課題解決プロジェクトです。

仏教を語るつもりがあるならば、

事例のような事故は「苦」なのだから
これを引き起こす何かとは何で、
その何かを事前に滅しておけば、事件事故は発生しないと言い切り、
そして、その何かを消滅方法は、これであって、
その影響範囲は、自分だけでなく、家族も含める必要がある!

と語ってもらいたいのだが、ボクが見かけた範囲内では誰も語っていません。
読み手の皆さんは、それを堂々と語っている人を探してほしい。

ダメな思考パターン

その辺の自称仏教者及びスピ系の人たちが語る思想や方法では、このnoteの事例のような事件・事故を回避する人生の防災、人生のリスクマネジメントは不可能です。 

彼らの書く内容は、概ね下記のパターンの範疇にあり、「自分の意志とは関係なく巻き込まれる制御不可能な事件事故を防ぐ」などは考えたことも無いかもしれません。

前提の確認:これは「苦」ですか?

このnoteの事例について、仏教的な視点で前提条件の確認をします。

事例の主語である仕事中で現場にいなかったあなたにとって、我が子を事故で失う事件は「苦」ですか?

ボクは「苦」であるという前提で話を進めます。

でも、世の中には「仏教の「苦」は自分に直接ダメージを与えるものに限定すべきであるから、我が子の事故死は仏教の考える「苦」に該当しない」という主張をする人がいるかもしれない。もし、このnoteを読んでいるあなたがその主張の持ち主であるならば、ここから先は読む必要がないので、今すぐ画面を閉じてください。

というわけで、ここから先は、我が子の事故死は親であるわたしの人生にとって「苦」であると認識している人だけになった前提で話を進めます。

質問1.煩悩の介在がどこにありますか?

仏教的な質問の第1問目です。
この事件の中に、煩悩とか執着はどこにありますか?

仏教学者を含む、その辺で仏教を語る自称仏教者に非常に多いのだが、

仏教のなにかを知ることで、執着や煩悩が消滅するから云々

ということを主張する人が、実に、非常に多い。
昔からの仏教説話で煩悩の話がありますので、仕方ないかもしれない。

繰り返しになりますが、事例の主語は、仕事中で現場にいなかったあなたです。

で、この事例の、どこの誰に事故を引き起こす煩悩や執着がありますか?
ボクが問うているのは、事故発生原因と当事者たちの煩悩や執着の関係性であって、事故後に親が子供に対して持つ執着の気持ちではありません。

何かに対する煩悩や執着があったから、意図せず事故死する
何かに対する煩悩や執着が無いなら、事故死しない

この因果関係は成立するでしょうか?

そして事例の主語は、仕事中で事故現場にいなかったあなたです。
自分の子供以外の全ての登場人物全員とあなたは面識が無いのですが、どこの誰のどのような煩悩を、どうすれば、この事件の発生を防ぐことができたのでしょうか?

ちなみに、この事例は煩悩や執着という言葉では説明できません。
「煩悩や執着を消滅させることが仏教の目的・目標である」と断言している仏教者がいるとするならば、こういう事件事故の発生原因と防止について、真剣に考えたことが無いのではなかろうか?

質問2.原因を知ったら事故が発生しないのですか?

仏教学者を含む、その辺で仏教を語る自称仏教者、特に南伝テーラワーダ仏教の詩歌みたいな意味不明瞭な文章で上っ面だけを学んだ人に多いのだが、
縁起論を中途半端に学んで

原因がなくなるから、結果もなくなるという真理を知ってしまえば、疑いが消える

という趣旨の主張をしている人がいます。

繰り返しになりますが、事例の主語は、仕事中で現場にいなかったあなたです。
あなたが、どのような原因を知ると、自分が物理的に存在していない場所で、自分の意志が全く関与していない事故の発生という結果が発生しなくなるのでしょうか?
それは、どのような仕組みでしょうか?

システム開発の事例で説明すれば、
「バグの原因を知ったら、バグが消える。以上終了!!!」
という感じです。
原因を知ったからといってバグは無くならないわけで、さっさとバグ修正作業をして、ついでに再発防止策も考えなさい。

南伝仏教系の甘っちょろい主張をする人の仏教の説明を読んでいると、この人は社会人として、ちゃんと仕事してきたのかな?と思うことが頻繁にあります。

質問3.瞑想して心が清らかになると事故が発生しないのですか?

仏教の修行とは、座禅や瞑想にあります。
マインドフルネス瞑想が有効で、それによって心を安定させることが仏教の修行の実践です。

という趣旨の主張をする人がいます。
主にスピ系の人たちです。あとはチベット仏教系の人たち。

繰り返しになりますが、事例の主語は、仕事中で現場にいなかったあなたです。
あなたがマインドフルネス瞑想を頑張って心が清らかになると、自分が物理的に存在していない場所で、自分の意志が全く関与していない事件事故が発生しなくなるのでしょうか?

もしも、マインドフルネス瞑想の範囲は自分だけであり、自分が瞑想をすることで、自分に対する事故が発生しなくなるという現象があるとした場合、幼い子供にマインドフルネス瞑想の実践ができると思えませんから、子供が事故に遭遇して死亡してしまうのは自業自得です。
子供だからといってマインドフルネス瞑想を実践しなかったのが悪い。
そういうことでしょうか?
本当にそれで良いですか?

マインドフルネス瞑想その他の瞑想は、自分の心を安定化させる効果があるかもしれないけれど、所詮それだけであって、この事例の解決には無力です。

つづく

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