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『麦色の犬』エッセイ+短歌21首

◤ このエッセイ+短歌について

家族の犬を見送ったことがある人なら知っている。
あたたかな感触、散歩の時間、じゃれあう愛しさ、そして最期の日。
もう名前を呼ぶことはないのに、犬の毛だけがまだあちこちにくっついている。そんな記憶を短歌とエッセイで綴る。

(⏳約6分で読めます )



すべてを明るい面にするほど溌溂とした太陽を浴びているから、昼の芝生はぴかぴか光って美味しそうなつやつやの緑だった。マヨネーズや卵やクルトンみたいな犬たちが転げまわってここはドッグラン。真っ赤なボールを抱えて弟が走り出したらプチトマトとクルトンがからまりながら転がって、私すこし寂しくて棒立ちになってきみたちを見ていた。あの日ってもうずっとずっと前のことだけど、私あの日が眼に灼き付いている。



少年と犬 この世界 少年と犬 この世界 光ふる丘


弟が両手につつむ犬の頬ふたりを世界とおもう白日



まだまだ時間がいっぱいあるね。自販機でそれぞれ好きなのを買おう。会議室みたいに無感情な長机を囲んでいるとなんだかとても喋りにくい、ねえあの犬のこと話すの照れくさいね泣いてしまったら照れくさいよね、缶のジュースを飲みながら何でもない話をしてみたりして、だからこれはすべて私の脳内家族対話だ。



記憶からきみの毛並のやわらかな麦色あつめ頬をしずめる


初夏の犬はじめてきみを抱えればポップコーンのバケツの匂い



ねえ弟、きみが大型犬くらい小さかった頃にあの犬は来たんだよ。私すごく羨ましかった、私だって小さなころに犬と暮らしてみたかった、きみを支えるために来た犬だから私あの犬のことずっときみの犬だとおもってた。

ぽつりぽつりと少ない街灯が最低限だけ立てられた町。私の心のわるい部分が煮詰まりそうで黒焦げシチューになりそうで、私あの町にいるのがすごくいやだった。うぬぼれて生意気な私はハタチ前にあの町を飛び出して、でもきみとあの犬があの町にいるからそこだけきっとホワイトシチューのあじわいだった。ねえ私は弟がかわいかったのと同じくらいあの犬がかわいかったよ。あの頃はきみだって犬くらいかわいい弟だった。



犬の名は困った顔の〈こまたろう〉何かと何かの謎めく雑種


砂浜のタールのように黒い目は収容時代をおぼえているか



あの犬が初めて家に来た日、姉さんの私はもう18で弟のきみはまだ10才だったね。姉さんはきみが初めて家に来た時のことを覚えていて、それはあの犬が家に来た時とじつはとってもそっくりだった。母さんがきみを連れてきて「これが弟だ」って言った日から、きみはぷりぷりしていてつやつやですぐに世界の中心だった。母さんがどこからかあの犬を引き取ってきてうちの犬にしたとき、はじめて弟が現れた日を思い出したんだよ。
きみのうんちを拭うのも犬のうんちを拾うのも、ほかの命のおどろきだった。きみの耳をさするのも犬の耳をさするのも、私姉さんで良かったきみたちすごく可愛かったから。



少しずつきみは家族だ 少しずつきみはいちばん下の弟


暴風にゆれる稲穂の右左右左右みたいな尻尾


遺伝子のとおい獣をこんなにもわかってしまう これはよろこび



これで時間は半分みたい、ほら蝉が鳴いて虫が鳴いて私わからないけれどたくさんの生き物が鳴いている。夏の終わりに山の途中の古びた建屋で、いま30分あと30分、家族で向き合うこの小休止がぎこちないよね。
私はすぐに家を出ちゃってあの犬のことみんなより知らない、あの家に15年間もいた犬は私より家のこと知っていたんだとおもいます。母さんも父さんも私との散歩よりあの犬と散歩した時間のほうがずっと長くて、どんな景色を見てきたんだろう。



犬の名を母が呼ぶたびよみがえる5歳のわれを呼んだ声色


父親の手綱をひいてやれやれと人間散歩を終えてきた犬



私も弟もオトナになって憧れも失望もぐちゃぐちゃになって私たち若者時代をやっていた。一番下の弟の時間はけっこうずっと早いようで、睫毛に増えていく白髪がなんだかますます賢い犬って感じだった。きみはおじいちゃんになって動きものんびり。つやつやの毛が色褪せてもきみはきれいな毛並みが自慢で、父さんの髪なんて真っ白になったというのにきみは秋の金色麦色。



少年は青年になる 弟の弟だった犬は老いゆく


四足で駆けゆくきみは遠のいて速いさびしい速いさびしい


最期だと言って出かけた富士五合目にて世界をかぎまわる犬



初夏に実家へ帰ったらすっかり瘦せこけたあの犬がぐるぐるとリビングを回転していて、私少しぎょっとしたけど母さんに気付かれなかったらいいなとおもう。こんなに年老いてもきみは可愛い耳をぴしっと立てて、すっごくおじいさんになったけれどずっと可愛い私の弟。

夜中じゅう吠え続けるきみのこと、きみが感じている何かを想像したら私たまらなくなってしまった。わん、わん、わん、わん、吠えて吠えて時を刻んで疲れ果てたら泥のようにたおれて、忍び寄る影がこわくて吠えているのだとしても迎えが来るのは止められない。



靄のなか夜どおし吠える白病の瞳できみが見たものは何?



あの犬はいろんなことがわからなくなって、でも私たち大丈夫だった。あどけないきみがこの家に来た日から私たち君の成長する姿をたくさん覚えている。午前4時、きみが母さんの腕のなかで死んでよかった。きみが16年前に保健所で死ななくてよかった。ねえ私きみが与えてくれたものを考えながらせつなくて、弟も母さんも父さんも口に出して言わないけれどきっとそれぞれ思いを巡らせている。私よりずっと長くきみといた母さん父さんそして弟、照れて喋らないけどみんなきみのことずっとずっと考えている。



くれたのは振れるしっぽに熱い舌うるさい息の甘い花束


リビングに斃れる獣きみの顔から人格が薄まってゆく



「そろそろ上手に焼けたかな」ねえ母さんクッキーみたいに言うの好きだよね、おばあちゃんの時もそう言っていた。ねえ父さん、ねえ弟、私たちって誰から上手に焼いてもらうんだろうね。とっても上手に焼いてもらってクッキーみたいに焼けるの待とうね。骨になって灰になってさよなら地面さよなら太陽さよなら空気を吸う気持ちよさ。

火葬が終わる時間になって私たち博物館で見る骨格標本みたいになった〈こまたろう〉をみた。骨になっても可愛くて骨になっても〈こまたろう〉で、愛おしいからみんなで笑った。



粉々の骨を係が箸で取り かわいい犬の形をつくる


白骨を4人で分けてポケットに晩夏暮れゆくひぐらしの声


それぞれにえらんだ骨を抱く手には夏の綿雲とろける過日



こうして母さんの運転する自動車で山道を下りていると、いまよりずっと小さな車にぎゅうぎゅう詰めで家族4人と1匹乗り込んだ、あの八ヶ岳旅行の夏を思い出します。

私たち家族のはじめての自動車では急な坂道を登れなくって、私と父さんは降りて車を押したんだった。こんなんじゃ車の意味ないねって笑ったのも今日みたいな晩夏の夕暮れ遠くにひぐらし。アクセルを踏む母さんを犬と弟が応援して、4人と1匹と1台のまわりをスイスイ泳ぐ夕焼けとんぼに何だか笑われているみたいだった。あれが私の家族だったけれどそれもずいぶん前のこと。鼻を濡らした私の弟。

ねえ、家に着いていつものクッションを見てしまったらまだあの犬の麦色の毛がからまって、ほらきっとこれから3ヶ月半年1年いろんなところからあの犬の毛がでてくるよ。靴下をひっくり返せばそこにはまだあの麦色が風にゆられて、ずるいねこんなにもふわふわのきみは。



たましいについた尻尾を揺らしてよ いつもの場所に吹くつむじ風








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