2024年のはじまり
元旦に地震。とても大きな、一週間経っても全容が把握できないほどの。翌日には飛行機事故がある。炎上の瞬間が暗闇に浮かぶ映像が何度も流される。
これといった新年の抱負もなく、努めねばならぬ仕事も役目も試験もなく、ただ正月三日の「休日」を過ごす身であっても、この情報量と内容に打ちのめされる。
立て続けのニュースに思ったことは、これでガザの紛争が「より」遠くなったな、ということだった。ウクライナの戦禍も、よりいっそう。事実、報道情報量は格段に減っているのだろう。
世界の中心を自分におけば、距離の近い情報が重くなるのは当然だ。
正月休みを返上してすぐに動き出す役所や自衛隊や警察、消防の方々への敬意と尊敬はもちろんのこと、道路整備や電気ガスなどインフラの復旧に大活躍するに違いないブルーワーカーの方々にこそ光が当たってほしいと願う。
報道の方々もそれぞれのお立場をお務めなのはわかる。でも、被害にあって、打ちひしがれているご家族へのインタビューなど、しなくていい。どうしてそんな苦しい気持ちを「全国のみなさんに」伝えなくてはいけないのか。それは報道する側の、傲慢なドラマ演出でしかない。時間つなぎの声が欲しいなら、実際に道路の修復作業をした方々に、何が大変で、これから何が必要になるかという感触を尋ねる方がよっぽど建設的ではないか。
いてもたってもいられず、衝動的な思いつきで動く人を「めーわくな人」と責める「だけ」の報道も、またしないでほしいと願う。目の前にいる人を(たとえその場しのぎであっても)助けていることもありうるのだから。「そばにいる」ことの力をわたしたちはコロナ禍で学んだ。
即座に動けない、世の多くの人たちは、被害のニュースに心を痛め、ただ悶々としているのではないかと想像する。「自分のいる場所で自分にできることを」というのは、簡単なようでいて、とても難しい。特に日ごろから、自分の存在意義を考えざるを得ない主婦や、ひきこもり、仕事を休んでいるなど、社会から少し距離を置いている(置かれていると感じている)者たちにとっては、なお。
建設的で、健常な考え方を醸すには、「日常」が安定していることが重要なのだろう。報道はいたって一般的な視聴者に向けられるが、世の中は、すべからく「一般的な」生活や考え方で満たされているわけではない。
日本人は勤勉で真面目で少々のことに怒り狂ったりしない、というのが、惨事が報道される際の「海外反応」とよく言われる。一部ではその通りだし、そうでない面もあるだろう。
抗いようのない自然災害に直面する時、これを受け入れながら、今を生き延びること、明日どうするかを考えざるを得ない。これにはとてもエネルギーを必要とする。一方では事実を認識し、もう一方ではイメージする「この事実とは違う」姿を創り出す手段と方法を考えるのだから。考え考え考え続けている人には、少々のことに怒り狂ったりしている暇はないのだ。
一方で、ネット上に流言飛語を流し、一刻を争う方々の邪魔をしているという論外なヤツが出現していると聞くと、ヤツらの暇さ加減を気の毒にさえ思う。
話が飛躍するようだが、どうか、どうか世の政治を司るみなさん、抗いようのない災害は、誰にでも起こりうるのだから、人為的な戦争や紛争を起こさない方法を考え、その手段をとっていただけないだろうか。長い長い歴史背景も、双方の積り積もった怨念も、「お前にわかるか」と言われたら返す言葉は、ない。それでも、戦争は「抗いようのない」出来事ではなく、避けることができたはずの、もうやめようと言えば言える余地のある、人為的な行為だと思いたい。青いと言われても。
日本人は、抗いようがない災害を、受け入れざるを得ない機会が、多いだけなのだから。
そしてキックバックのニュース報道が減っている事実にも、日本人として溜息をつかざるを得ない。これも情けない事実ではある。
2024.01.08