Aスペクトラムの行方 (ミニ版)
拡張版を書いている途中だが、前からモヤモヤしていたこれらのツイートに対してのコメントを先にまとめておく。
①不可視化されるAスペクトラム差別
この方が問題視している本文を抜粋した。
この記事の著者はなにも、「レズビアンだと間違われて最悪👎」という意味では書いていないことは分かるだろう。
恋人がいない=同性愛者?になる図式は「人は誰しも恋愛/性愛を他者に持つ」という暗黙の前提が世間にあるからである。だからこそ「恋人がいないってことはレズビアン?」と聞かれることは、その前提を持ち合わせており、AセクAロマを不可視化している質問なのである。
したがって、このツイートは、どれだけ社会が恋愛/性愛を持ち得ることを前提で回っているのかを理解しておらず、結果としてAスペクトラムへのマイクロアグレッションとなってしまっている。
②忘れられるAスペクトラムの多様性
これについては一言だけ述べる。
「本来“腐女子”なキャラ」を「Aスペクトラムに近そうなキャラ」に改変した脚本家が、「彼女はこの先好きな人ができるかもしれない」って言って何が悪いんだ?
このツイートをした方々はある視点が完全に抜け落ちている。それは彼女(以下、藤崎さん)は作中でAセクAロマと言われていないということだ。
藤崎さんは日本のドラマにはあまりいない存在である。ツイート主さんが追求しているチェリまほ第4話は、恋愛ドラマに敢えて恋愛に興味のないキャラの主要回を入れるという革命的な試みともいうことができる。
そのことから、初とも言えるかもしれない試みの際に、藤崎さんを完全にラベリングしないことで、恋愛ドラマを見ても「面白いんだけど、この世界に自分は居ないな」と感じていた人々を包括することができる。
そう感じていた人々は、(まだ自認していなくとも)グレーセクシャルかもしれないし、リスロマンティックかもしれないし、クワロマンティックかもしれない。
恋愛/性愛に息苦しさを感じてる人がいても、その全ての人がAセクAロマと自認しているわけではない。Aスペクトラムも多様であるから、あえて藤崎さんをAセクAロマと断定せずに、そのように息苦しさを感じてる人に手を伸ばそうしていると考えられる。
申し訳ないがもう一言だけ言わせてもらう。
てか、「好きな人」の意味が恋愛/性愛の意味しかないと思ってるの?
まさに恋愛/性愛至上主義、恋愛伴侶至上主義にどっぷり使った考え方と言える。
Aスペクトラムには、恋愛や性愛の概念の外で「好きな人」とパートナーになっている人だっている。またAスペクトラムは「絶対に人を恋愛的/性愛的に好きにならない」というわけではない。有名なところで言うとデミロマンティックが例に挙げられる。
このことから、チェリまほ脚本家さん(以下、吉田さん)のAスペクトラムの扱い方はとても丁寧であると言え、ツイート主らの批判は的外れではないだろうか。
解像度が低いどころか、他に類を見ないくらいめちゃくちゃ高いと私は考える。
またAスペクトラムの話とはズレるが、吉田さんはBLやBL好きを決してバカにしてはいない。
本来、藤崎さんは『腐女子』(便宜上この言葉を使わせてもらう)というキャラであった。
このツイートでは『覗き見みたいで悪趣味』と書いてあるが、実際の吉田さんの言葉はこうだ。
他人の恋愛事情を自分が好きなように想像して娯楽にするのは推奨される行為ではない。
生身の人間であれば尚更だ。
ただし私は「全くするな」と主張したい訳では無い。どこで線引きをするかは難しいが、想像や創作をする際は、実在の人間でも架空のキャラクターでも、そこに人格や尊厳があることを見て取っていくべきであろう。
話を戻す。
チェリまほの原作は漫画だ。
これを実写にした際に、メインカップルの恋愛妄想をするキャラは生身の人間になるから、絵のキャラでは“マシに”見えていた行為が倫理的にどうなの?となるわけだ。
現実で想像して見てほしい。飲み会で「あの女性社員と男性社員、付き合ってるんじゃないの?」と下世話な妄想をするおっさん上司と同じ行為というわけである。三次元の生身の人間がやってるのを想像すると下品すぎる行為だろう。
このような下品な行為に対しても敏感なので吉田さんは「同僚で同性愛妄想する」という要素を省いたのだろう。そして上でも述べた通り、勝手に妄想されて消費されること、セクシャリティを勝手に決めつけて妄想すること、これは生身の人間にしてしまうとその人の人権を軽視しているのにも繋がる。
BLをバカにするどころか真摯に取り組んでいるし、BL描写以外にも人権を守るような描き方もしっかり考えている脚本家は珍しいだろう。
③親密な同性間の関係=恋愛or友愛 ?
はぁ??????????、である。
誰が順番待ちなんかするか。
Aスペクトラムのフィクションを描くこと、同性愛のフィクションを増やすこと、それは同時にできるはずである。
悪いのはヘテロノーマティヴイティのはずであるのに、なぜ私たちが後ろに回らなければいけないのか?
悪態はそろそろやめといて、もっと踏み込んで考えてみる。
彼らは、曖昧な関係=友愛/非性愛 しかないとでも思っているのだろうか。
親密な同性間の関係→恋愛か?友愛か? という構図になっているとしたら問題である。
恋愛が介在しない、互いにコミットメントした関係性を築き、生涯共に生き抜く人たち(=クィアプラトニックな関係性)。恋愛が介在しない、上記のような人たちで、その中に性的な接触を内包する関係性を築く人たち。
このような人たちを根本的に忘れ去ってしまっているからだ。
関係性の名前がハッキリ描写されていないけどなんか親密そうな人間同士の関係性→異性愛/同性愛or 友愛 、という構図になっている。いつでもそこには恋愛or友愛 の2つしか存在しない。
なんで恋愛でなければ自動的に友愛になるのだろうか。
恋愛じゃないけど大切な他者 、Aスペクトラムのひとつであるクワロマンティック当事者によって使われる言葉の「重要な他者」もその代表的なひとつだ。
Aスペクトラム的な関係性を表す言葉は少なく、それゆえに普及もしていない。
言葉がないから不可視化されてしまう。言葉がないから上手く言語化できない。
その中での「曖昧な関係性」は、「クィアプラトニック」や「重要な他者」のような関係性を言外に表している言葉と言えよう。
「曖昧な関係性」はAスペクトラムにとって大切な核となる概念であるのだ。
よくある光景として、曖昧な関係→明確な同性愛の表象を描くことにビビった→差別/クィアベイティング、というように糾弾するのはやめてくれ。
もちろん、曖昧な関係性にした理由がホモフォビア由来のものなら批判されるべきである。しかし、言葉を知らなくてもクィアプラトニックな関係性を描いた(制作側がそう意図した)作品はあるはずであり、そこに「クィアベイティングだ」とか「曖昧な関係性はその後」と言われたら、それは私たちを踏むような行為である。
もちろん、「クィアプラトニック」や「重要な他者」のような関係性の概念が広まって、「クィアプラトニックの関係性を築く人」と人物紹介や物語紹介とかで表現されてフィクションに登場するのが1番の理想である。
なのでそのような来るべき日に向けて、私はこのような関係性の作品等を見つけたら「Aスペクトラ的な関係性、クィア的な関係性でいいね!」というような感想を言って、『このような曖昧な関係性も“クィア“と読み取れる』ということを示しつつ、このような関係性の需要を示している。
そんな中で、この読み取ったAスペクトラム的な関係を「同性愛差別だ」「クィアベイティングだ」などと指摘する行為は、Aスペクトラムを透明化し踏んでいるのと同義である。
繰り返すが、今は言葉が広がっていない。
広がっていない≒言葉がない状態、とも言える。
言葉がない“だけ”なのだ。
それと「クィアプラトニック的な/重要な他者的な関係性を描いた作品がない」ことをイコールで結ばないで欲しい。
まだ言葉が認知されていないうちは「曖昧な関係」と称されるかもしれないが、それは確かに我々の物語であり、我々にも座れる椅子である。
クィアベイティングだといって、勝手に椅子取りゲームに参加させないで欲しい。
以上が私がモヤモヤしたツイートに対する感想というか反論的なものである。
題名に書いてある通りこれはミニ版で、今年の2月から書いている拡張版の一部である。
拡張版で書いているのは、
①ポカリCM論争
②ONEPIECE ゾロとサンジ ペアリング論争
③ノンセクシャルを巡って
④レズビアンのマイクロアグレッション?
⑤ドラマ チェリまほ脚本家はAスペクトラムを理解してないのか
④と⑤は今回の記事でも書いたものである。
恐らく内容は同じになるだろう。
気分が乗った時にチマチマ書いているので、いつ書き終えるか目処が全く立たないが、気になる人は拡張版も見てくれたら嬉しい。