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柱 ィイ・ヤシロ・チ⑭

来年は虎の年。諏訪の御柱祭り催行の年である。豪快な奇祭は、日本各地の多彩なお祭りの中でも抜きん出て特異性を放っている。

https://www.onbashira.jp/

わたくしは、前回の申年の御柱祭のあとに、諏訪に初めて訪れた。諏訪は重大な祭祀遂行の名残のすがすがしさも漂わせ、それまで訪れた、どことも似通わない、独特な雰囲気に満ちた聖処(イヤシロチ)だった。(ただ、同行の友人は、自身の父母の故郷である島根の人々と、諏訪で出会った地元の方々に共通するメンタリティーや穏やかな雰囲気を指摘していたけれど)

http://suwataisha.or.jp/

諏訪大社の四社を下社秋宮、春宮、上社本宮、前宮の順で参拝した。わたくしには、秋宮は明るく溌溂、春宮はゆったりと典雅、本宮は規律がきりりと発動する緊迫感、前宮はプリミティブな躍動感といったそれぞれのイメージが心に遺っている。

全く異なる趣をたたえた四社が諏訪大社の名を共通に持ちながら、それぞれ固有のエネルギーを強烈に放ち、参り来る者たちをおおらかに迎えていた。

それらのもう一つの共通点は、モミの木の御柱。わたくしは立てられたばかりのぴかぴかな4本の御柱がそれぞれの社を囲んで、天に向かってグンと屹立している光景に目を奪われた。その瞬間「神様が天から社を目指す為の、標のピンみたい。」反射的に、そう思った。俯瞰する存在から、見つけやすいように、地上の人の仔が「ここですよ!」と一生懸命に背伸びをして合図を送っているような。

柱(ハシ・ラ)は天と地の橋(ハシ)なのか?天橋立に伝わる神話も、神がそれを伝って天から降りてくる、となっていた。

そうだ、空から降りてくる、といえば雷。御柱は社殿を守る避雷針としての機能も持っているのだろうか?ふとそんな考えもわたくしの中で起こった。雷神は必ずや高い柱に降り来られるであろう。タケミナカタはタケミカヅチを避けたいであろうし、と一人合点でこっそりと頷いた。

さて、改めて「柱」について考えようと、思考の道草を取止めて調べると、依代の役割がメインと確認できた。

https://kotobank.jp/word/%E6%9F%B1-71675

この志向は、人類の樹木を命のよりどころとする共通認識からだろう。

だからこそ、柱は、神話の重要場面にも登場し、命(エネルギー)を生み出す法則を示しているのだ。イザナギとイザナミの婚姻。女神(陰)と男神(陽)が天の御柱(宇宙軸)の周りを回転し、新たな生命エネルギーを発生させる物語。

https://www.kankou-shimane.com/shinwa/shinwa/1-2/index.html

諏訪大社で6年間天と地をつないできた御柱は、様々な形に変えられて、その神性を分け与えてくださる。わたくしは、参拝の折に御柱の材で作られる御朱印を下社の秋宮で授けていただけた幸運を得られたのだった。その御朱印を久しぶりに取り出して眺めていると、当時現地で体感した新たな御柱から放たれる力強いエネルギーや、巡り旅の道連れである友人らとの嬉しいアレコレがわたくしの胸に鮮やかによみがえってくる。

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わたくしは今、あの時(過去)と現在を意識の中でつなげているのだな、とまた興味深いことを自覚する。何かを思い出そうと記憶の引き出しをアチコチ探す行程とは異なり、自ずと関連する記憶が立ち上がってくる感じ。

若い時のような、ハイスピードで大量のインプットからのアウトプットというスムーズで直線的かつ反復の作動とは異なる脳の動き方。ある事柄に派生する関連情報がストックの中からするりと提示されて、思いもしなかったパッケージに組み立てられるような感覚は若い時にはなかったもの。五十路の脳は新しい機能を発揮している。一方、恣意的に思い出すことには、なかなかに苦労するようになって、名指しで情報をアウトプットする検索機能の低下は激しい。上手になった、記憶の連結作用(関連付け)は50代に入った脳の得意分野だと黒川伊保子さんの「成熟脳」に書かれていた。五十路の脳はなるほど面白い、と納得する。

再び「柱」に戻ろう。神様を数えるときの助数詞も柱である。

https://www.jc.meisei-u.ac.jp/action/course/001.html

古代の人の仔は、神様は、木のような存在だと想像したのだろうか。人の暮らしに無償かつ無尽蔵に恵みを与え、自分たちよりもずっと長い命を生き、いろいろな時代を眺めて生き抜いてきた。一神教であれば、数える必要もない。多神教の世界でも、神様を日本語のように数えないそうな。そして、木は接ぎ木でそのままの命をいくらでもつないでいける、つまり、クローンなのだから、それは神社の神様の御霊分けと同じ

そして、人を数える助数詞も古代の人の仔は「つぎき」で数えていたとなれば、その意味するところは、人の仔は、神の子(これは決して選民思想ではなく、人間という存在の定義であり、特定の民族の優位性をひけらかす意味ではない)だということである。今の日本人は、自らが神の子であることをすっかり忘却し、不必要に苦しんでいるように感じる。まるで逆柱に建てられたかのように。

今時流行りの漫画では、超人的な登場人物を「柱」と呼ぶという設定だけれど、わたくしは人の身で「柱」を背負い込むのは、「犠牲の存在」とイメージしてしまう。神の守護から外れてしまい、他の人の仔のために身を挺する、哀しい感じが抜けない。生まれ故郷のため池で、少女が決壊防護のために埋められた昔話を聞いて育ったせいかもしれない。

諏訪の古代神道が伺い知れる、大切な七つの木があったそうな。柱の意味を持つのかわかる由もないけれど、七の数もその意味するところが深そうだ。

https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/7boku.htm

今では一本だけ残っているらしい、その大樹に会いに行きたいと切に思う。きっと素敵な聖処(イヤシロチ)に違いないから。わたくしは、天と地を繋ぐハシラの働きを持つかもしれぬ御神木に憧れる、あり触れたひとツギキの人の仔として。


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