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聖処めぐり イィ・ヤシロ・チ①
神社にもお寺にも ちっとも興味がなかった。
ご利益を期待してお参りするのは、神様相手に取り引きしてるようで、なんだか気が引ける。基本、自分のことは自分でなんとかする他ない、むやみにモノを頼むもんじゃないと考えている。なので、受験の時も初詣でも、「精一杯頑張りますので、応援よろしくお願いします!」と祈りというよりも宣言をしていた。
そして、「そもそも神様や仏様が存在するのか?」という至極素朴でありながら答えが出そうにない疑いも持っていた。わたくしにとって、お祭りなどは季節の恒例イベントであり、宗教心からの参加ではなかったように思う。
そんなわたくしが神社巡りにハマってしまった。初めての伊勢参りでそれまで見たこともない不思議過ぎるモノを目撃し、どうにも謎な写真が撮れ、自身のからだに異変が現れるなどという、想定外の実体験をしたからである。それらの現象に対してムクムクと「わかりたい!!!」欲求が膨らみ、そのメカニズムを探究せざるを得なくなった。
そのようなわたくしを更に後押ししたのは、神社に行くとスカッと調子が上がる体感であった。わたくしにとって、ケガレは穢れではなく「気枯れ」のようで、ガス欠のような体調が神域ではまるで充電するかのように、英気養われていくのだ。御神木や豊かな植物群のフィトンチッド効果なのだろうか?
日々のストレス生活で消耗した心身が、参拝で賦活する。息継ぎをするように彼方此方のお社を訪れ、ご由緒や諸説を調べて考える。そのループが始まった。
初期には行き先を自分で選んでいると思っていたが、段々とアレ?違うなと感じ始めた。自分の意志ではなく、勢いよく目的地に向かって流されているような感覚がある。時処も一緒に参拝するメンバーも、まるでスーパーコーディネーターがいるように自然と整っていく。いわゆる「召喚」に近い。わたくしはソレを「市中引き回しのうえ参拝ミッション」と呼ぶようになった。
そうやって、神社について完全なド素人のわたくしがお社詣でを通じて、神社にまつわる用語、しきたり、作法などを諄々と知り、文献資料を読み、フィールドワークと考察を続けたのである。最初は「調べる」スタンスでのアプローチだった。
そのうちに、目には見えない不思議で素敵な何かの存在を確信するようになっていった。その何かがいわゆる「神様」であると今のわたくしは考えている。
そして、わたくしのいうところの神様は、人の子(神様にとって人間は子どものような存在なので、子孫という意味で使う)に自由を与え、いのちを輝かすことだけを求めておられると妄想する。
なにごとの おはしますかはしらねども
かたじけなさに なみだこぼるる
今現在のわたくしは、この西行法師の御歌とおりの心境にある。ありがたいなあ、生きてるなあ、生きてるということは物質のからだと非物質のなにかしらエネルギーがわたくしの中ではたらいているからだろう。非物質であるエネルギー=「気」が神社に行くと補給されるのではないか?その「気」が神様の一部なのかもしれない。そのような考えに至ったのである。
命は何か?その疑問に答えを与えるために「神様」というアイデアを人間は思いつき、自分と神様の関係をどう結ぼうかと考えたのかしれない。わたくしは既存の集団や組織に与することなく、神様と自分の一対一の「結び」を大事にしたいと願っている。
宗教評論家ひろさちやさんのご著書「やまと教ー日本人の民族宗教」にあるとおり、他者に対する「やさしく まごころをもって ともいきする心」を大事に敬虔にいのちを愛でてゆくことが、平和な暮らしの道筋だとも思う。
「一人やまと教」でお社を巡る旅は、既に15年続いた。いっときのやたらめたらの引回しはいつの間にか姿を消して、コロナの影響もあって昨年からは節気ごとの日帰り参拝のペースに落ち着いた。
iyasi-logy 癒やし学では、心もちの良くなるお社を聖なる処としてその参拝の思い出と考察を綴ろうと思う。
この聖処めぐりシリーズ、イィ・ヤシロ・チをよろしくお願い致します。