東国三社巡り旅 その2 鹿島神宮朝詣 ィィ・ヤシロ・チvol.76
神社そのものの御神気を感じるのに、朝詣は最高のタイミングだと思う。
初めての伊勢参りで神宮会館に宿泊したら、神職の方に早朝参拝に連れて行って頂けた。その清々しさと美しい光景に感動したので、可能な限り、参拝旅のスケジュールに早朝参拝を組み込んでいる、わたくし。
この度は、宿が鹿島神宮の直ぐそばであるロケーションだから、勿論そうしない手はない。
宿からの道すがら、思いがけず、龍神の社に出逢う。高龗神と闇龗神を祀る龗(りゅう)神社。そういえば、鹿島神宮の境内にも高龗と闇龗を祀る津東西神社が在った。海が今よりもずっと近かっただろうこの地で、龍神を祀る(祀の字も巳・ヘビを敬うから来るし)のは至極当たり前のことだったろうと想像しながら。この旅の天候をお願いと、雲一つないすっきりとした朝空のお礼も伝えて、龍神祝詞を捧げた。
それから先を進むと、ほどなく未だ日の出前の明かりが灯された鳥居が立っているのが見えてきた。
鳥居を潜ると、殆ど人の姿は見えなかった。前日午後の賑わいとは打って変わり、鹿島神宮そのものの祐気が穏やかに、そして豊かに拡がって、呼吸がとても楽になった気がする。
拝殿に「おはようございます」とご挨拶をしてから、奥宮への参道を進む。驚くほど多くの大樹たちが両脇に並ぶ参道に入ると、ぐっと御神気が濃くなり、森林浴としても素晴らしい空間と体感できた。
右手に鎮座されている熱田社にもご挨拶して、さらに歩むと、奥宮の場所に到着する。
こちらの社殿は本宮として徳川家からの寄進され、現在の本宮の場所にあったものを此方の奥宮に遷したそうだ。
確かに本殿の格式の風格を帯びており、後方では立派な杉の巨木が天に伸びていた。この大樹のそばに引き寄せられ、「これは、いわゆる龍灯のご神木なのでは?」などとふと思う。
奥宮の参拝の次は、ヘッダー画像のナマズを踏みつけた神様の石彫のある交差点をさらに右奥に進んで、要石に向かった。
此方の要石は凹形であり、やはり前日の香取神宮の要石とは雰囲気が異なった。「凹の場所に貨幣を載せられたら、願いが叶う」という無邪気な話もあるようだ。が、要石に向けて小銭を投げつけることに、なんとなく抵抗を感じて、そうできなかった。
わたくしはただ立ち尽くして、要石から感じられる波動のようなものを探るような心持ちでじっと見つめていたけれど、特に力があるわけでもない人の仔の身、ただ、陰陽のバランスが取れた在り方がこの地と国の全てに及べば幸い、と祈った。
元来た道を戻り、先ほどの石彫の左手にすすみ、禊池へと向かった。少し階段状の緩やかな傾斜を経ると、パッと拡がる空間に出た。その一角に美しい水場が清らかな波動を放っていた。
鯉が悠然と泳ぐ水面は、風のない朝の風景を逆さまに映し出し、幻想的な光景を作り出していた。それは、何もかも嘘偽りなくそのままを表すことを、意味しているようだった。わたくしは、「なんだか試されているような気持になる。」と独り言ちた。
豊かな水がやむことなくこの禊池に流れ込んでいた。此方に心を込めてご挨拶と、これからも生命の清水を人の仔たちに与えてくださるように、とお願いした。これほどの宝物があるだろうか、と感じたから。
松の木だと一見わからなかったが、その根が思いがけない場所にある。その樹皮は鱗のようで、まるで空飛ぶ龍神に見えて神聖さがいっそう深く、人の仔に敬虔の意を自ずともたらす。
鳥居のこちら側、あちら側と禊池をぐるりと回ってひとしきりこの場の波動を体感し、離れ難いけれど、そろそろ戻らねばならない。木々の梢の間から小鳥のさえずりがキラキラと降ってくる。その参道を拝殿に向かって戻っていくと、だんだんと明るくなってきた。
楼門そばに来ると、青空が広がってきた。予報は曇りだったはずが、ピカピカの朝空で、これも眼福ご褒美。
朝食に宿へ戻り、改めて、昇殿参拝のために鹿島神宮に向かった。
昇殿参拝をさせていただくと、自らの心が安定することにありがたさを感じた。神頼みしかないこのお願いは、まずは心を込めて祈ってこそ、自らが確りし、それが実現化する力になると思うから。
前日の曇天下、喧騒な東京駅から高速バスで2時間走って辿り着いた鹿島神宮駅前は、これまで訪れた何処の門前前とも異なる、なんとなく寂寥なイメージも胸に届く地であった。が、今朝のイヤシロチは神々しく、聖地のパワーと人の仔の経済活動は全く無関係と教えられた気がした。
また、間を置かずに鹿島神宮と香取神宮を続けて参拝させて頂くことで、その陰陽のコントラストがわたくしのなかでより明確になった気がする。
我が目で見て、我が耳で聴き、心身丸ごと聖処に置くことで、自ずと沸き起こる疑問や違和感、既視感を否定せずに、そのまま素直な心で神前に向かう大切さも改めて感じたことだ。
現代を生きる者たちには、二千年以上昔のことなど正確に分かるはずもない。だからこそ、嘗て此の地で起こった出来事を神話に縛られずに想像する自由を与えられている今を存分に味わいたい。
せっかくのこの機会を拝受し、磁場や光、雨風、動植物たちなどからのサインも後押しに、自分の頭で考えてみること。
その大切さを思い知る一の宮参拝であった。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。和風慶雲。