北辺の巫女姫 #4(終)
海岸に、一艘の小舟があった。三人も乗ってしまえば、即座に満員になる。そういう船だった。櫂も取り付けられており、一応は操縦も可能である。とはいえ、海上あちこちにある氷山にぶつかってしまえば、ひとたまりもないことは明らかであった。
「……なるほどな」
「ええ、そういうことです」
ガノンの首肯に、年嵩は満面の笑みで応じた。ガノンは小さく息を吐く。予想はしていたが、ここまで陰険な対応をされるとは。しかしガノンは、はたと思いついたように口角を上げた。
「いい機会だ。目が潰れる類の神器ではないようだし、一つ試してみるとしよう」
手に持っていた箱を、彼は地面に置いた。恭しくでもなく、その蓋を開ける。三叉の鉾が、顔を出した。これには思わず、年嵩も顔を引き攣らせた。
「貴君、なにを」
「知れたこと。この氷海を、祈りをもってこじ開ける。祈りの言上は知らぬが、真にこれが【ポセドーの鉾】であるならば」
「海神を試すか!」
「試すのではない。ただ一心をもって、祈りを捧げるのだ。それともなにか。言上を知らぬ者の祈りは、海が穢れるとでも」
「くっ……」
年嵩の、やや皺の深くなった顔が歪む。彼女は暫しの間、沈黙した。しかしそののち、せめてもの案を繰り出した。
「良いでしょう。貴君の祈りは、正当なるもの。ですが、誤った祈りで海が荒れては、わたくしどもの生活にも関わります。その言上、わたくしが行いましょう」
「わかった」
ガノンはいともあっさりとうなずいた。騙し討ちの可能性も否定はできぬというのに、なんたる豪胆さであろう。否。おそらくガノンは、彼女の信仰に賭けたのだ。彼女の信仰が真なるものであれば、その対象を彼を追い込む道具としては扱わない。そう信じる他に、彼の道はなかったのだ。
「…………」
見よ。海岸にひざまずいた年嵩が、祈りの言葉を紡ぎ始めた。ガノンはゆっくりと、そのかたわらで鉾を掲げる。この鉾が、真なるものであれば。祈りは続き、やがて。
「っ!」
最初に声を上げたのは、付き人二人に見張られた巫女姫だった。その声によって、二人も気付く。鉾が、輝きを発していた。そして!
「道が、開ける……」
「海が、割れていく……」
付き人たちが、声を漏らす。氷海を構築していた氷山が、道を開くかのように左右へと分かれて行く。それは、まさに神威であった。それは、まさに奇跡であった。女たちは今、まさしく神話の光景に立ち会っていた!
「…………。どうやら、神器は真なるものだったようですね」
祈りに集中していた、年嵩が顔を上げた。
「最初から、そう言っていたであろう」
応じて、ガノンも口を開いた。年嵩は小さく、首を横に振って。
「我々は神に比してあまりにも小さく、弱き者なれば。神の御業を目にする栄誉がなくば、神の御心を知ることなど」
棘が抜けたような口調で、言葉を紡いだ。続けて。
「さて、こうなれば猶予はございませぬ。船は改めて有事の際のものをお出しします故、わたくしども四人とともに、早く」
「む!?」
「え?」
年嵩の言葉に驚きを見せたのは、ガノンだけではなかった。一番高い声を上げたのは、無論巫女姫である。当然だ。ほんの少し前まで、見張りの直下に置かれていたのだから。
「なにを言っているのです。真実この事象を説明できるのは、ポセドー様の妻たる巫女姫様のみ。文を仕立てている暇などございませぬ。道中の祈りは、わたくしが捧げます。とにかく、この奇跡がいつまで続くかわかりません。早うお支度を」
「は、はい!」
巫女姫が、世話役が、なにかに跳ね飛ばされたかの如き勢いで院へと戻っていく。ガノンはその姿を見つつ、事態の方向性に意外さを感じていた。彼は、年嵩を見る。先ほどまであった陰険さが、あまりにも綺麗さっぱりと消えている。彼は思わず、苦笑いを見せた。
「なにがおかしいのですか?」
年嵩が、困ったような顔を見せる。するとガノンは、苦笑を隠さぬままに答えた。
「いや。おれはおまえほどの人間を、そうそう見たことがない」
「左様ですか。ともあれ、船を出さねばなりません。貴君も、よろしければ」
「そうだな。手伝おう」
「感謝します」
こうして二人は、院へと戻る。両者の間にあった蟠りは、少なからず薄らいだように見えていた。
***
かくておよそ二刻後。四人は船上の人となっていた。先の小舟よりはそこそこの空間――生活という要素も含む――を備えた船は、悠然と海原を進んでいく。その舳先には真なる【ポセドーの鉾】が取り付けられ、年嵩の祈りによって輝き続けていた。
「……対岸の大地まで、幾日掛かる」
「この海の開けぶりでしたら、数刻もあれば」
「存外に近いのだな」
「海神様の加護が、ございますれば」
なるほど。世話役の答えにガノンはうなずき、再び舳先を見る。現状、未だに対岸は見えない。されど、そういうことであれば。
「……おれは、北辺について通り一遍のことしか知らぬ。到着までの間に、おまえたちの知ることだけでも、教えてはくれぬか」
「そうですね……では一つ。北辺とは、貴君たち中原の者から見た呼び方でしかありません。わたくしどもは、我々の国を『ノルゴルド』と呼びます。大王様によって治められし、荘厳なる国でございます」
「ふむ」
ガノンは舳先に目を向けたまま、首を縦に振った。続けて問いを発し、話を促す。
「その大王とやらの人となり……そうだな、好みなどが分かる話はないのか」
「残念ながら……そもそもわたくしどもは、一年のほぼすべてをあの院にて過ごします。今回の事態こそが、大いに稀である。その事実を、貴君にはわかって頂きたく思います」
「……苦労をかける」
ガノンは、黄金色の瞳をけぶらせつつ、世話役をねぎらった。まったく、実に大層なことになってしまったものだ。あの鉾でもって海を開き、出されていた小舟にて、海を渡る算段だったというのにだ。こうなった以上、年嵩と巫女姫は北辺……否、ノルゴルドとの仲立ちとなるはずだ。その事実は、実に大きいのだが。
「……巫女姫君の、監視は解かれぬのだな」
「当然でございます。巫女姫様は、ポセドー様の妻。故に、純潔でなければなりませぬ。そこに疑わしきがある以上は」
「……」
巫女姫はうつむき、ガノンと目を合わせようとはしなかった。ガノンにはその心情が、手に取るようにわかった。わかってしまった。己が巫女姫の領域へと踏み込んだばかりに、彼女は今、己が立場を失いかけている。ガノンには、謝ることしかできない。そして、【荒地の魔女】を恨む他なかった。たとえあの女が幾重もの手管を勘案し、結果的にはあれが最良だったとしても。救うべき対象の一つを追い詰めていては、本末転倒の極みである。
「必ずや、約定は守る」
ガノンは、口の中で呟いた。己は王であり、吟遊の語る騎士英雄譚の如き麗しき人物ではない。蛮族呼ばわりが常の、ラーカンツの民だった男である。されど。ああ、されど。
「戦神に誓って、巫女姫は必ずやすげ替えるぞ。ノルゴルドの王」
彼は、まだ見ぬノルゴルド王に思いを馳せた。その人となり、神器や巫女姫に対する考え方は未だわからぬ。しかしだからといって、約定を守らぬという決断はない。神器を返さぬという決断もない。男は静かに、想いを定めた。
そして見よ。狙いを定めたガノンの視界。その先に。おぼろげながらに、大地が見えた。ガノンはただただ、近くなり行く大陸を見据えていた。
のちに【ガノン王の北辺行】と史書に記されることとなるガノンの旅路は、まだ始まったばかりであった。
北辺の巫女姫(ガノン北辺行・その1)・完
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