闇、いと近きもの #8(終)
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荒野に、沈黙が満ちていた。餓狼だった男と蛮人が互いを見据え、静止していた。襤褸の少年も、最初の叫び以外は沈黙していた。それほどまでに、空気は重苦しかった。
「なぜに、闇へと身を預けた」
空気を最初に蹴破ったのは、蛮人だった。鋭い問いを突きつけ、視線にて告げる。絶対に逃さぬと。
「……居場所を、奪われた」
しばらくの間を経て、黒狼――否、ルアーキーは答えた。己が闇に堕したのは、居場所を奪われたからであると。その時に、憎しみに染まってしまったのだと、詳らかに告げた。
「ルア兄……」
襤褸の少年が、小さく声を上げる。そして、ルアーキーに近付こうとした。だが、彼は。
「来るな!」
声を張り上げ、制止した。同時に、黒き爪牙を残す手を、少年に差し向ける。未だ闇に侵されているのだと、彼は言葉なくして少年に告げたのだ。
「……!」
少年は目を背け、その場に立ち止まった。ルアーキーの意図を、理解したのだ。彼はその姿を満足げに見ると、改めてガノンと対峙した。
「憎しみに染め上げられた際に、おれは闇の眷属へと堕しました」
「それがわかっていて、なぜ闇に身を任せていた」
「おれの、最初の想いを、果たすためです。そして」
ルアーキーは、そこで一拍置いた。彼はおもむろに息を吸う。そして吐き出すように、告げた。
「おれが、おれでなくなった。その報いとして。始まりを付けてくれた、あなたに斬られたかった」
「……そうか」
ガノンは、冷たく一刀命奪の刀を振り上げた。少年が、声を上げようとする。しかしガノンは、眼光一つで抑え込んだ。この場に勘や頭脳の鋭き者がいたならば、見抜いたであろう。彼の目にも、わずかながらの哀切があった。
「その首、せめて一振りで」
ガノンの刃が、ルアーキーの首へと伸びる。まさしく命を奪い去る一振り。しかしその刃は、首元一寸先で押し留められた。いや、正確には、『黒』に弾かれた。ルアーキーを守る闇からの加護が、生き物めいて刀を弾き返し、相殺したのだ。
「そうそう上手くはいかねえか」
ガノンが、刀を構え直す。その間に闇は、再びルアーキーを侵食しつつあった。彼は抵抗の意志を示していたが、此度の闇は容赦がなかった。青年の身体を、無慈悲に黒へと染め上げていく。
「ガノンさ……たのみ……ます……お、れ、を」
「ルア兄!」
少年の声が、荒野をえぐる。少年もまた、理解したであろうか。この場を乗り越えるには、哀れな青年を殺す他にないと。少年はルアーキーへ駆け寄らんとし、ガノンの太き腕に阻まれた。弾き飛ばすでも、押し止めるでもなく、ただ、腕を差し出した。それだけだというのに、少年の意志はあっさりとくじかれてしまった。なぜなら。
「少年。俺はやらねばならぬ」
ラーカンツのガノンの、短き言葉。しかし言葉以上に、少年に通ずるものがあった。それは頬に伝う、一筋の流れ。かつて一時をともにした男への哀しみ、殺さねばならぬ悔しさが生み出せしもの。そんなものを見てしまった以上、少年は歩みを進められなかった。
「来いよ、黒狼。お前のすべてを剥いでやる」
「グルウ……」
両者が、五歩の間合いで睨み合う。少年はそれを、目の当たりにしていた。だが直後、少年の目には異様な光景が飛び込むこととなる。二人が微動だにせず、固まってしまったのだ。あたかも、時間神がその生命を止めたのかの如くに。石像めいて、硬直してしまった。
「なに、が」
少年がつぶやく。彼には、なにが起きているかがわからぬ。神々からの加護を、持たぬが故にだ。しかしながら、加護を持つ者には明確にわかる。南方蛮族。ラーカンツ出身の傭兵ガノンの前に、漆黒の大鏡が姿を現していた。そう、ルアーキーを闇の眷属へと誘った、【闇そのもの】である。
『なるほど。我が加護を剥ぎ取るとは何者かと思えば、戦神の使徒であったか』
「……【闇】。それも【闇そのもの】。叩き割れば」
『無理ぞ。我は闇。鏡は預けしもの。闇なれば、乗り移ることなどいくらでも』
「堕ちようが『神』たるを失おうが、神なだけはあるか」
『ほう。我を知るか。我を知悉せしは禁忌とされておるはずだが』
「戦神に愛されし者なれば」
『そうか。戦は闇に近きもの。故に』
「戦神は闇に惹かれ、そしていと気高く闇を嫌う。戦いの気高さを、知る故に」
『くく。隙あらば汝もかと思うたが、そうは行かぬか』
「行かぬ。俺は、信仰を揺るがさない」
『そうか。ならば、我が眷属を』
「斬る。たとえ知る者であろうと、闇は生かしておけぬ」
『くくく。なれば、進むが良い。その先に、闇は待ち受けておる。いと優しきが故にな……』
おお。問答の果てに、大鏡が消えていく。ガノンが、闇の誘惑を断ち切ったのか? 否。闇を知る者はこうのたまうであろう。『闇は最初から、ガノンを誘うつもりはなかったのだ』と。此度はあくまで小手調べ、己の加護を払いし者を見に来ただけであると。故にガノンは、一寸たりとも気を緩めていない。さもありなん。これが小手調べであることは、彼自身が一番承知していた。
「危ないっっっ!」
そんな彼の姿勢を打ち破ったのは、少年の声だった。ガノンは思わず、顔を上げる。その視線の先には、黒狼の飛び掛かって来る姿!
「カアアッッッ!!!」
ガノンは段平を掲げ、黒狼の牙を受け止める! 無論響くは鈍い音。だが、流石は一刀命奪と戦神の加護。その動きだけで闇牙が折れ、霧散した。
「闇よ。来るが良い。すべて剥ぎ取り、ルアーキーを殺してやる」
黄金色の瞳に光をたたえ、ガノンは段平めいた刀を構えた。闇ではなくとも、昏き情念によりてか、闇に近い性質を持つ一刀命奪。彼がこれを操れるのは、ひとえに戦神の加護によるものであった。
「ガルッ!」
ガノンの挑発じみた声に、狼が唸る。しかし今度は飛び掛からぬ。己が身体から、幾重もの『黒』を伸ばして来たのだ。それらは見る者を惑わす軌道を描き、ガノンに四方八方から襲い掛かる。常人――この場においては少年――の目には、あたかもガノンが闇に包まれたかの如く見える程にだ。
「……」
だが、ガノンは冷静であった。意識を冷たく、保っていた。戦神への聖句を捧げ、その身体をにわかに光らせた。彼には、『黒』の軌道が見えていた。わずかなズレによって仕留めに掛かる、精緻な攻勢。しかしながら戦神の加護は、彼にそれをも打ち破る能力を与えていた。
「ハッ!」
闇を貫く暖かき光が、少年の目を開かせる。『黒』がガノンを貫くかに見えた一瞬の間に、どれだけの攻防が行われたのか。少年にはわからぬ。だが、ガノンは立っていた。一筋、二筋の傷は負えども、そこにいた。五体満足のまま、立っていたのだ。
「……!」
少年の感涙を待たずして、ガノンは雄々しく地を蹴った。またしても『黒』が伸びるが、今度は意に介さない。かつて振るったように、彼は『黒』の芯を斬り裂いていく。剥がしていく。ルアーキーへの道を、切り開いていく。
「ガアアッ!!!」
黒狼が吠える。爪牙を振るう。ほの光るガノンは、それすらも掻い潜る。斬り飛ばす。ルアーキーの、あの日敵討ちに燃えていた少年の。最期の願いを果たすため。再び、その身体を覆う『黒』を引き剥がしていく。薄皮一枚を引き裂き、その身体を露わにしていく。
「グルウウッ!」
ルアーキーを覆う、『闇』が薄まる。ガノンに突破され、斬り裂かれ、その加護が勢いを減じているのだ。今やルアーキーを護るのは、斬り飛ばされた両腕の代わりをこなすものばかりである。しかしながらその攻勢も。
「ぬんっ!」
ガノンに四度斬り飛ばされれば、いよいよそれさえも成せなくなる。ルアーキーを覆う『黒』は、『闇』は。もはや霧めいてその周囲に漂うばかりであった。
「払え! それくらいはできるであろう!」
「!」
そしてルアーキーが覚醒する。ガノンの一喝が、彼を闇の支配下から目覚めさせる。彼は弱った肉体に、最後の意気を込めた!
「んっ!」
咆哮が、男の一心が。霧めいた闇を遠ざける。打ち払う。消し飛ばす。果たしてそこには痩せ衰え、髭を生やした青年が立っていた。
「ルア兄……」
今度こそ、少年は駆け寄った。ガノンも、止めなかった。少年は襤褸を脱ぎ、目を光らせて青年へと飛びついた。
「ルア兄!」
「済まない」
青年は短く、少年に応えた。今や彼には、少年を抱擁する腕さえもない。そして彼の悔恨の念は、その程度で癒やされるものでさえもない。だが彼は、一時ばかりの熱い涙を流した。少年に、謝罪を告げた。しかしその時間も、一年の空白を埋められるほどには長くはない。終わりは、ガノンが短く告げた。
「そこまでだ」
「……」
少年は、ガノンの大いなる肉体を見上げた。その黄金色の瞳には、変わらず哀切の情が籠もっている。それだけで、少年は理解した。してしまった。
「切らなくちゃ、いけないんだね」
一縷の望みを託した問いも、無情にうなずかれる。しかし少年は道を開けた。涙をこぼしつつ、兄と慕った男に別れを告げた。
「ルア兄、オイラは」
「ああ、生きてくれ」
それが。闇に堕し、闇を打ち払った青年による、最期の言葉だった。
***
ルアーキーの首と身体は、即座に焼き払われた。一度は【闇】の使徒と成り果てた身である以上、肉体を残せばどう使われるかさえもわからない。そのためには、この世より確実に消す必要があったのだ。
「さよなら……」
少年の言葉が、荒野に切なく響く。既に荒野には夜闇の帳が降り、星々――神々のおわすところ――が煌めいている。しかしながら、彼らは道を急ぐ必要があった。期日までに、戻らねばならなかった。故に、彼らは闇の中でさえも馬を歩ませている。良く調教されたホクソー馬は、あの戦の中でも無事だったのだ。
「……」
ガノンの瞳は、ただただ荒野を見つめていた。ルアーキーを想い、変わった己を想い。戦いを想っていた。街へと戻れば、また指揮官の立場となる。一人の、荒野の戦士としてあの青年に向き合えたことは、あまりにも幸運だった。彼はそう、自身に言い聞かせていた。
「戻るぞ」
彼は短く、言い放った。少年は彼の背に、身を預けた。戦神のほのかな光が、少年を寒さから守る。
神々が照らす無辺の大地に、馬の足音だけが小さく響いていた。
闇、いと近きもの・完