敗将と蛮人 #1
いかに豪壮な軍勢とて、敗れてしまえば皆、暗澹たるものだ。故に将たるものは、勝利に対して手を尽くし、策を尽くさねばならぬ。いかなる軍学書にも書かれている、あまりにも基本的な事項だ。しかしながら、私はそれを怠った。少々調子に乗った野盗どもの征伐であると、高を括ってしまった。その結末が、現状だ。辺境伯から預けられた七百の虎翼軍は散り散りになり、私は配下と二人、ほうほうのていで荒野をさまよい歩いている。逃げるさなかで、馬も失った。とてもではないが、辺境伯には顔向けできない状況だ。
「敵勢はいないか」
「どうやら、まけたようですぞ。遠巻きにされている可能性はありますが」
「そうか……」
辺りを見回した後、私は息を吐いた。戦……というのもおこがましい無惨な顛末から早数刻。私の疲労は、限界に達していた。このままでは、辺境伯の居城へと戻るのも難しい。いや、あの敵勢のことだ。その辺りの主要な経路は、おおよそ押さえていることだろう。つまるところ、詰みであった。私にできることは、一つだ。
「ここで私は自決する。お前はなんとしても辺境伯の元へと帰れ。あの野盗どもの真実を、閣下にお伝えするのだ」
「そんな! 二人で戻らねば、辺境伯様はお怒りになられますぞ!」
疲れ切っていたはずの配下の形相が、必死のものに変わる。だが私は、首を横に振った。
「私は顔が割れている。連中は必死で捜すことだろう。だが、お前一人なら」
「閣下……」
私たちは視線を交わす。彼とは確か、十年来の付き合いだったはずだ。でなければ、傍働きになどしていない。言葉はなくとも、想いは伝わるはずだ。
「……わかりました」
はたして、すべては私の思った通りとなった。私の目を見た彼が、力なく首を縦に振る。
「なれば、閣下のご最期を見届け、そののち」
「わかってくれたか」
私は彼に詫びた。このような不甲斐ない主人の配下で、本当に申し訳ない。だが彼こそは、私の最高たる配下である。私の想いを汲み、形に変えてくれるのだから。そう信じ、私は荒野に座る。荒涼たる風が、頬を撫でた。
「閣下……!」
配下の、すすり泣く声。だが関係ない。彼が辺境伯の元へと帰るには、私こそが足手まといなのだ。私は長剣を抜き、首元に当てる。だが、その時。
「閣下、向こうに人影が!」
配下が、不意に叫んだ。すわ、追手か? 私は立ち上がる。遠方へと目を向ける。しかしながら、人影は一つだった。増える気配もない。
「追手かと思えば、旅人ではないか。早とちりも、ほどほどにせい」
「いえ、斥候という可能性もありますれば」
「むう……では、場所を変えるか」
私は考えた。考えようによっては、運命神の悪戯ともとれるこの偶然。いかに好機とするべきか? ともかく、場所を移そうとして――
「おまえたちは、なにをしている」
その行く先に、男が立っていた。
「なにを、とは」
配下が前に立ち、言い返す。彼の首は、明らかに上を向いていた。それもそのはず。男の身体は、ひどく大きかった。ただ身長が高いのではなく、その身体全体に隆々たる筋肉が備わっていた。上半身は裸だが、陽に良く灼け、赤銅色に染まっていた。髪は赤く、そして長い。顔は五角形をしており、その構成物はいやに大ぶりだった。背中に剣を括っているのだろう。肩から、酷く地味な柄が覗いていた。
「そのままの意味だ。おれから見た限り、己の剣でもって、己を刺さんとしていた。そう見えた」
「……」
私は、答えなかった。見ず知らずの男、しかも風体から見るに蛮人と思しき者に、答える理由は皆無だったからだ。配下も、私にならって無言を貫く。そうだ。それでいい。
「……相応の装備の割に馬もなく、そこかしこにかすり傷。敗軍の将か。責任を取って、自裁を試みたか」
しかし蛮人は動かなかった。それどころか、的確なまでに私の状況を見透かしてきた。こうなれば、無言ですら肯定へと変わってしまう。やむをえず、私は首を縦に振った。どうやら運命神は、どうあっても私に『生きよ』と言いたいらしい。半ば自棄糞に、私は口を開いた。
「私は、とある国に属する辺境伯の配下。されど匪賊野盗どもの征伐に失敗し、辺境伯の虎の子たる虎翼軍を失ってしまった。もはや辺境伯閣下に顔向けできぬ。私に対して情を抱くのなら、どうかこのまま死なせてくれ」
「それがしからも、お願い申す。どうか戦士の情け。閣下のことは、どうかこのままに」
配下からも声が飛ぶ。彼は地面に膝を突き、頭を下げて乞うていた。本来であれば、情けなしと叱るところである。だが、今回ばかりは状況が違った。されど。
「妙、だな」
蛮族が首を傾げた。ああ、わかってしまうか。私は、私の迂闊を後悔した。そう。虎翼軍の敗戦は、只の敗戦ではない。一歩間違えれば辺境領の、否、荒野全体の治安にさえ影響しかねない敗戦なのだ。あの野盗は。あの匪賊どもは。
「角馬、人形じみた兵隊ども、表情無き戦士。そういった者どもにでも擦り潰されたか」
はたして、蛮人は正鵠を射た。そうだ。虎翼軍は。げに悪しき【闇】の支援を受けた連中に嬲り殺されたのだ。正規兵を上回る機動力。死をも恐れぬ軍勢。率いいる戦士の戦闘力は凄まじく、数の差など無に等しいものだった。五十かそこらと七百人がぶつかって、一刻も経たぬ内に捻り潰される。いかに我が軍が相手を見くびっていたとはいえ、起きてはならぬ事態だった。
「そうだ。おぬしはなぜ、それを知る」
私は問うた。問わねばならなかった。【闇】の存在は秘匿されている。否定されている。多神教において【闇】は禁忌であり、知ろうとすることですら死罪の対象であった。目前に立つ蛮人は、そのようなものを知っている。それは、すなわち。
「以前に、【闇】のかかわっていた連中とやり合ったことがあった。首魁も含めて、すべて滅ぼしたが」
「ほう」
私は、思わず感嘆の声を漏らした。【闇】の配下を相手に戦果を上げるなど、並の戦士には成せぬ所業である。私の中に、希望が生まれる。しかし、それは。
「お願いがございます!」
芽生えかけた葛藤は直後、配下の声によってかき消された。彼は今一度、蛮人に向けて頭を下げていた。そして、乞い願った。文明人の矜持など、無いに等しい行いだった。だが私は、到底止める気にはなれなかった。彼がいなければ、私がそうしていたであろう。それほどまでに、希望は切実だったのだ。
「ここでお会いできたのもなにかの縁! 運命神の思し召しやもしれません! どうか、どうか。閣下にご助力を! 【闇】に呑まれし野盗どもを、成敗して下されい!」
「……」
蛮人の、動きが止まる。恐らくは、想定外のことだったのだろう。私の目前で、蛮人が考え込む。少ししてから、蛮人がようやく口を開いた。
「わかった。だがおれは、漂泊の身だ。報酬がいる。それで良ければ、縁に従おう」