6/26 なにが嫌いかより【考察】
11/22:リライト
なにが好きかで自分を語れよ。
確かどこかの少年漫画出典のお言葉でございます。
話に聞くには、打ち切り漫画と看板漫画で出典の誤解が生じてるとか。
とはいえ、これを枕にしまして、今日は好き嫌いの話でも。
おまえは嫌いをひろめて何がしたい
昨今ネットワークの大海でチラホラと目にするもの。
『嫌いなものを嫌いと宣言するだけにとどまらず、嫌いなもののなにが嫌かを拡散したり、嫌いなものの造り手にダイレクトアタックしたりする行為』。
人間は基本的人権、あるいはそれ以上の自由によって『好き嫌いを思うこと』を保証されている。
例え口にせずとも、思うことはできる。
しかし、嫌いを理由に相手を攻撃する理由にはならない。
我々にできる最大限のこと。
それは『嫌いを隠さないこと』だと考える。
嫌いを隠さない
例えば。南雲麗は、イチゴが死ぬほど大っ嫌いだ。隠そうともしない。
だが、イチゴ農家を滅ぼそうだなんて露程も思っちゃいない。
イチゴ嫌いを布教しようとか、考えもしない。
ただし、無理やり食わせようものなら意地でも抵抗する。
嫌いを隠さない。これは人との関係において、ある意味大切なことである。
嫌を嫌と言えなかった結果、躓いたことなんていくらもあるのだから。
過激派に関する考察
ではなぜ、人はダイレクトアタックを仕掛けるのか?
自分の思考に賛同が欲しいのか?
確かに気持ちは分かる。だが、好きなものに賛同をもらう方が。嬉しくなれないだろうか?
実際問題として、『合う』より『合わない』の方が対人会話で範囲は広い。故に、理解できなくもない。しかし、なんか違うと思う。
なにが違うのか。それが言語化できるともっと考察が深まりそうだ。
ただ、今言えること。それは。
『嫌いを隠しても、なんにもならない。ただし嫌いを理由にして、排斥を試みるのは絶対におかしい』
これだけだ。
好きも嫌いも、異論も反論も。普通に言い合えるようになるのが、多分理想なんだろうな。今回のサッカーの件もそうだと思う。
そんなところで、終われ。なお、俺は刺し身や焼肉が大好きだ。
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