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闇なる盾 #2
そうして三十日が過ぎ、四十日後を迎えた頃。盾掃除の男に起きていた変化は、もはや誰が見てもわかるものになっていた。
「おい、アイツどうしたんだべ」
「前は毎日寒そうに背を丸めていたんに、最近はしゃんとして、キビキビ歩いちょる」
「前よりも肌艶が良くねえか」
「変な薬でも飲んじまったんじゃねえだろうな」
盾を掃除する男を見やりつつ、野良仕事の合間に語り合う男ども。まさかあの気味の悪い盾が原因だとは、まったく思いもしないらしい。ともあれ、村の話題は彼のことで持ちきりだった。そんな中、一人の男が手を上げた。村に残る若い者の中でも、一等若い。まだあどけなさを残した、青年だった。
「あんのぉ。こうして陰でコソコソ言うくらいなら、本人に聞いてみたらどうだがや?」
「……」
思わず、話をしていた男どもが顔を見合わせる。さもありなん。彼らは別段話題として語らっていただけで、さして盾掃除の男を心配していたわけではない。しかし、そう言われれば気になるもので。
「よし。ほんならお前行け。こういうのは言い出しっぺがやるもんだ」
「そんな!?」
なんやかんやで、若い青年が聞き出しの役目を負うハメになってしまった。
***
その夜。若い青年――ヘムスカは、盾掃除の男――ダラウを、自分の住まいへと呼び出した。
「急にどうしたんだべや。オラになにか用でも?」
「いんや、特には……」
年は若いが、さして大きくもない二人が顔を突き合わせる。だがそれだけでも、小さな住まいは窮屈だ。そして、ヘムスカの態度はぎこちない。大人たちの態度に疑問を呈した結果だとはいえ、普段から特別ダラウと親しくしていたわけではないからだ。いかに話題があるからといっても、このような振る舞いはヘムスカにとっては少々後悔がよぎるものである。こうなってしまうのであれば、普段から親しくしておけば良かったか。ヘムスカの思考は、袋小路へと落ち込んでいく。
「なんだぁ? なんにもない……どういうことだべ……」
案の定、ダラウが状況を訝しんでしまった。ヘムスカは己の失策を悔いる。だが同時に、相手がダラウで良かったとも言い聞かせた。生来の病弱が気の弱さに繋がっている彼でなければ、今ここで席を立たれている可能性さえもあったのだ。機会が残されていることを運命神に感謝し、ヘムスカは意を決した。
「……実はな。最近、アンタが元気に見えるっちゅうてな、村の皆がざわついてるんだ」
「そうだべか?」
一思いに、本題を切り出す。当然、嘘は混ぜない。嘘を混ぜれば、ダラウに疑われてしまう。ヘムスカは、あくまで素直に、最大の疑問へと話を繋げていった。
「自分で気付いてるかはわからんが、背筋が伸びてきている。顔色も良い。前はもっと、寒そうに背筋を丸めていた。蒼い顔をしていた」
「うん。まあ、たしかにのう」
ヘムスカの言葉に、ダラウもうなずく。ヘムスカはやや訝しんだ。この男、隠し切れると思っていたのだろうか。否、別段他人に言うようなことでもないと思っていたのだろう。彼は考えを切り替え、言葉を続けた。
「いやな。別にアンタを疑うわけじゃないんだろうが、みーんな不思議がっちょる。もし変な薬でも飲んじまってたら……」
「それはねえべ!」
それとなくヘムスカが続けた言葉に、ダラウが声を荒げた。これには思わず、ヘムスカも仰け反り。
「ど、どうしたんだべ。そんなに怒るような……」
「オラ、オラ、変な薬だけはやってねえべ。仮にそんな連中が来てたなら、村の皆もわかるじゃろうが。オラが、オラが良くなったんは」
「……良くなったんは?」
半ば涙目で訴えるダラウ。へムスカは引き気味の態勢のまま、病弱だった男に問うた。ダラウは、小さく頭を振った後。
「あの盾さんのおかげだべ……」
小さくうつむき、打ち明けた。
「あんの盾が?」
ヘムスカは、目を見張った。たしかにあの盾、異様なほどに黒々しかった。気味が悪いという言葉が先に出そうなほどに、黒かった。しかしそれほどのものとは、ついぞ思わなかったのだが。
「ああ、あんの盾さんだべ」
ダラウが、顔を上げた。ヘムスカは、さらに目を見張った。かつては陰気に淀んでいたはずの眼に、一点の曇りさえもが見当たらない。にわかに、信じ難い変化だった。半ば押し付ける形でダラウに盾磨きの職務を預けてから、まだ百日さえも経っていないのである。だというのに。
「……どういうことだ?」
ヘムスカは、いきさつを問うた。結果はどうあれ、経緯を聞かなければ判断ができない。ヘムスカとて、頑迷な男ではない。すべてを聞いてから、判断する程度の余裕は持ち合わせていた。
「四十日ほど前のことだべ……」
ダラウは、淀みなくすべてを打ち明けた。その口ぶりは、なにかを決心したようなものだった。さもありなんである。これを明かせば、村の者どもに盾の深いところが知られてしまう。そうなれば、盾になにが起きるかわかったものではない。誰もが誰も、村の現状を受け入れているわけではない。盾を使って、村を復興させようとする者が居るやもしれぬ。それが、盾の本意に沿うかとは、関係なく、だ。
「……よくわかったべ」
すべてを打ち明けられて、ヘムスカは敢えて大仰にうなずいた。はっきり言えば、にわかに信じ難い話であった。盾が意志を持ち、生来の病を抱えた他者を癒やし得る。そんな話は、常識の外にあることだった。だが、目の前に実例がいる。盾によって癒やされ、十全なまでに快復し得た者がいる。それを否定するほど、彼は頑迷でもなかった。そして。
「ひとまず、この話はオラの胸にしまっとくだ」
彼は決断した。この話は一旦己で預かり、おいそれと他者には打ち明けぬと。おそらくは、それこそが。
「なんでだべ。オラは別に……」
「黙っていたのは、聞かれなかったからだべか? 信じ難い話ってのもあるだろう。だども、一番は。あの盾を、取られたくないんじゃねえか?」
「……」
ヘムスカに問われて、ダラウは黙り込んでしまった。そのまま、沈黙が続く。しかし、やがてダラウは顔を上げ。
「多分、アンタさの言うた通りだべ。オラに掃除をやらせといて、いざ重要だとわかったら自分たちのものにする? そんなが、まかり通っちゃいけねえだ。別に、オラは盾さんを独り占めしたいとは思っちゃいねえ。だども」
「……そうだよな。オラが同じ状況でも、多分そうするよ」
ダラウの熱弁に、ヘムスカはうなずいた。彼はまったくもって、ダラウに同意していた。たしかに、盾は村に益をもたらすかもしれない。されど。だからといって、いきなり手のひらを返すのは態度が違うのではないか。そんな思いを、汲み取ったのだ。
「わかって、くれるだか」
「ああ。だからこの件は、オラの胸にしまっとく。安心してくれ」
「ありがてえ……」
ダラウが、ヘムスカに近寄る。ヘムスカはその身体を引き寄せ、抱擁した。ダラウの目からは涙がこぼれていたが、ヘムスカはそれさえも許した。こうして、盾の一件は、村人二人の胸にしまわれた。……かに見えたのだが。
「……とんでもねえことを聞いちまっただ」
小さなヘムスカ宅の、窓の外。そこに、招かれざる者がいた。男の名はサンザ。彼はヘムスカに誘われたダラウを見かけ、好奇心から後をつけた。それだけだった。まさかダラウの快復にあの盾がかかわっているなど、夢にも思わなかった。
「どうする。オラはどうする」
サンザは、激しく震えていた。二人の会話を端々まで聞き取った彼からすれば、二人の行いは村への反逆である。村に益をもたらすかもしれぬ事実を、隠し立てしようというのだから。されど、事実として己らはダラウに、掃除の役目を押し付けていた。益をもたらすからと言っても、今から擦り寄るのはお門が違う。そのことにも、合点がいった。
「……皆に、相談してみるべ」
サンザは口を押さえ、抜き足差し足で自身の家へと戻って行った。
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