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北辺の巫女姫 #1

 ヴァレチモア大陸の北辺。さらにその北の果てにある海上には、人跡未踏の孤島がある。否。真実を申せば、未踏ではない。すでに何人もの、到達者がいる。未踏というのは、あくまで他者に、到達が知られていないという意味でだ。
 見よ。今も氷山の海をかき分け、孤島を目指す船がいる。舳先には顔の下半分を髭で覆った男が一人。その後ろには、幾ばくかの荷物が載せられていた。後ろの方には、櫂を構えた男が一人。どうやらこの男が、船を操っているようだ。

「オーウ。オーウ」

 いささか陸の民には意味を伝え難い声を上げつつ、船は氷の海を行く。氷山の動きなど一寸先すら読めぬというのに、その動きには淀みがなかった。櫂一つで、巧みに動かされていた。彼らにもまた、なんらかの神の【加護】がもたらされているのであろうか。外面からでは、その有無はわからない。ややもすると、多神教における加護とは種類が違うのやもしれぬ。

「オーウ……オウッ!」

 やがて船は、滑らかに孤島へと滑り込んだ。淀みがないとは言いつつも、我々の目に入ってからはゆうに一刻が過ぎている。それだけの慎重さが、この操船には必要だったのだ。

「よくやった。荷を下ろすぞ」

 髭面の男が、船を降りる。櫂を構えた、後ろの男もだ。見れば二人は、毛皮を使ったであろう、分厚い服に身を包んでいた。寒さ極まりない極北においては、必需品とも言えるものだった。それでも今の時期は、まだ風がない。これがもう少し時期が進むと、風が出る。そうすると氷河の動きが勢いを増し、船が閉じ込められる恐れがある。そうなると、とてもこの島までの船は出せない。

「恐らく、今回が今年最後の渡航だ。荷物を水に漬けるんじゃないぞ」
「わかっている。『おつとめ』も、難儀なもんだぜ」
「そう言うな。この院は、おれたちの護り神なんだからな」
「わかってるって」

 男二人は、軽口を叩き合いながら荷を下ろす。口ぶりからするに、この孤島における必需品の類であろうか。食料と思しきものも、それなりの量が積まれている。だというのに、筋骨隆々たる男二人は、すいすいと荷を下ろしていた。よく鍛えられているのだろう。彼らの動きには、淀みというものが一切なかった。

「よーし、仕上がったぞ」
「まったく、巫女姫様様々だぜ」
「そういうこったな」

 一刻も掛けずに荷下ろしを終えた男二人は、孤島の対岸へと向けて歩き出す。そこには一軒の、白亜の院――多神教で言う、聖堂に近い建造物だ――があった。いつ、誰が建てたのか。男二人は知らぬ。その前の『おつとめ』も知らなかった。ややもすると、北辺の民すべてが、この院のいわれを知らぬのやもしれぬ。されど、彼らにとってはそれで良かった。この院そのものが、彼らにとっての『護り神』なのだから。

「来たぜ」
「ああ、『おつとめ様』。ありがとうございます」

 手慣れた様子で髭面が院の戸を叩くと、現れたのは三人のおなごであった。一人は年嵩、二人はまだ、うら若い。いずれも北辺の民が住む村々から、選ばれし者たちであった。彼女たちは清冽な衣服に身を包み、年嵩は長として死ぬるまで、うら若き二人は一定の期間、この島で生活をするのだ。なお、仮に年嵩が海に送られる身となれば、二人の内のどちらかが年嵩の役目を引き継ぐ。そういう決まりに、幾年いくとせも前から定められていた。

「やるぞ」
「はい」

 男二人は己が腕で。女三人は台車を引いて。岸に置かれた荷物を院へと運ぶ。彼ら彼女らの肌は、ヴァレチモア大陸の者に比して赤みが強い。北辺の民に、共通した特徴だった。道中において、髭面と年嵩は言葉を交わす。

「巫女姫様に、お変わりはないか」
「ええ。日々お祈りに、励まれております」
「そりゃあ良かった。ここに来た折には、日々泣き腫らしておられたからな」
「まったくです。当時、ポセドー様のお怒りは激しいものでした」

 ポセドー。北辺の者における海神うみがみのことである。多神教においても様々な海神が名を連ねているが、北辺における海神はまた性質が違った。氷に閉ざされ、風が吹き荒れがちなこの地の性質を反映してか、より荒々しい気質を帯びているとされていた。その気質を鎮めるために設けられているのが……

「ともあれ。巫女姫様がお役目を全うされているようでなによりだ」
「ええ、ええ。まったくです。ポセドー様のお恵みがなくば、我ら北辺の者は即座に滅びの道を歩むでしょう」

 男と女は、にこやかに言葉をかわす。ポセドーという神が、彼らの生活と心に深く根を下ろしている。その証左であった。そうした会話を繰り返す内に荷物は減っていき、二刻ほどを掛けて、すべてが院に飲み込まれていった。

「いつもありがとうございます。我々院の者、おつとめ様の助けがなくば生きられぬ身。巫女姫様に代わって、お礼をば」
「なぁに。おれたちだって、巫女姫様がいなくちゃ猟や狩りにも出難くなる。お互い様だ。巫女姫様に、礼を言っておいてくれ」
「必ずや」

 定型的な、さりとて砕けたやり取りを経て、男二人は船へと戻っていく。やがて漕ぎ出した船が氷山の向こうへと消えて行くのを見送ったのち、年嵩はようやく口を開いた。

「さあ。巫女姫様に、おつとめ様のご奉仕を言上しましょう」
「はい」
「はい」

 年嵩は娘二人を引き連れ、院の中へと向かう。その院は丈夫に見えるが、大変に簡素な造りであった。内装も、右に同じ。祈りのための部屋と、生活のための領域しかない。豪壮という言葉とは、まったくの無縁であった。しかしその中で、唯一聖堂と異なるものがあるとすれば。

「参りましょう」
「はい」

 祈りの領域。その一角に、階下へと降りる階段があることだ。年嵩は蝋燭立てを手に持ち、娘が蝋燭に火を灯す。それだけで、階段一面がまばゆく照らされた。三人はひとかたまりとなり、ゆっくりと階段を降りる。数十段ほど降りたところで、広い空間が三人を待ち受けていた。多数の蝋燭によって明かりが灯された、厳粛さを思わせる地であった。

「巫女姫様。巫女姫様はおわしますか」

 年嵩が、声を上げた。すると、即座に『はい』という言葉が返って来た。年嵩は巫女姫の空間に踏み込む非礼を詫び、空間を進んでいく。その先には。

「……」

 純白の、花嫁さえも思わせる装束をまとった娘がいた。娘が静かに顔を上げ、年嵩を見る。歳の頃は、十三から十五ほど。少々違和を感じるのは、蝋燭越しにでも肌の白みが強いことであろうか。ヴァレチモア大陸の民に、近しい色合いであった。

「巫女姫様におかれましては、今日もご機嫌麗しく」
「……ええ」

 正対ののち、年嵩による、通り一遍の言上が始まる。娘はそれを、言葉少なに受け流した。年嵩も長々と話すつもりはないのだろう。速やかに、流れるように本題へと入り。

「……かくたる働きをもって、此度のおつとめ、あとは港に戻るばかりなり。巫女姫様におかれましては」
「ええ、ええ。ポセドー様の鉾に、確たる祈りを捧げましょう」
「ありがとうございます。巫女姫様のはたらきにより、民の暮らしが成り立ちます。それでは。海に永久とこしえの平穏があらんことを」
「あらんことを」

 驚くほどにさくりと、挨拶のこと述べは終了した。即座に三人はまた来た道を戻って行き、巫女姫はそれを座したままに見送る。やがて、足音が聞こえなくなったのを見計らって。

「……はあ」

 巫女姫は大きく息を吐いた。花嫁めいた装束を脱ぎ捨てたい衝動に駆られるが、それはこらえる。しかし彼女は、端正な顔を物憂げに歪めていた。

「一体いつまで。いつまでここに居ればいいのよ……」

 誰にも聞かれていないことを確認してから、巫女姫は大きく嘆息した。そう。実のところ、彼女は北辺の人間ではない。北辺よりも、ヴァレチモア大陸に近い箇所に住む人間だった。幼き頃ーーおよそ十年ほど前に、いかなる経緯によりてか、この地へと連れて来られたのだ。以来あの年嵩に教育を受け、最初は抵抗しつつ、のちに諦め半分でこの職務ーーポセドーなる神の鉾へと祈りを捧げ、北辺一帯の海の平穏を祈るーーについていた。
 しかしながら、彼女は今も覚えている。元の家族との食卓を。温かかった村での生活を。それらを一切合切奪ったのが、この北辺に住まう連中なのだ。許すまじとまでは言わないが、いつかどこかで、この職務から解き放って欲しい。そう考えていた。

「……?」

 不意に、蝋燭の炎が揺らいだ気配がした。彼女は訝しむ。この【祈りの間】には、あの階段以外に入口はない。すでに十年も暮らしているのだ。彼女はこの地の構造を良く知っていた。あの階段の入口が蹴破られ、助けがやって来る。そんな妄想を何度繰り広げたかわからない。されど、そんなことは一度たりとて、起きなかった。しかし。

「……あの魔女、なにを考えている。直に送り込むにしても、ほどがあるだろう」
「いっ……!?」

 不意に聞こえた声こそが、彼女の不審と妄想を現実のものにした。

#2へ続く

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