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11/13 歴史から南雲麗の結婚観を読む……あれ?
前回はあくまで個人の結婚観で終わってしまったが、思うところがあり、少し続けてみることにした。
前回の記事はこちら。
一言に結婚観と言っても、それは時代ごとに大きく様相を変えている。歴史の観点から、今少し。南雲の結婚観がどんなものか確認してみようと思ったのだ。
追求開始
平安の昔、高貴な方々は通い婚にあらせられた。故に、百人一首の女性作品にもメンがヘラったようなものが見受けられたりする。そりゃあ来ない男を待ち続けるのは辛いものな。
千年愛される源氏物語にしたって、そういう女の愛憎などが物語を彩っているのは確かなのだ。ほら、原初のマザコンやヤンデレ(あくまで現代的ざっくばらん価値観による翻訳)もいるし。
では下々はどうであったか。農民は家族で田畑を耕す。耕すには人手がいる。人手を増やす一番手っ取り早い方法はなにか? 子どもを作ることである。そのためには結婚が必要である。
つまり結婚とは家の結びつき。これは現代にも通じるアレですな。『○○家・△△家結婚披露宴会場』みたいなやつ。
もっとも、下々にそんな式典をやる余裕はないので。下手すりゃ一緒に住んで終わりとか、村で祭りとかでしょうけど。結婚の有無が村にも関わる以上、そりゃ育成過程として夜這い風習とかあるよねえ。などとも思います。
もうちょっと近付けてみる
さて、時代をぐっとこっちに近付けまして。近代の結婚とはいかがなものかと言いますと。まあ駆け落ち婚や恋愛婚ですら非常識にされてた時代はございます(特に戦前。身分が高ければ高いほど。衛星再放送で見た『花子とアン』は衝撃的でしたなあ)。
そうなると見合いな訳ですが、前提として結婚するのは跡取り息子の必須役割、子どもを産んで夫に尽くすのが嫁の役割、とされてた時代にございます。
それがなぜかといえばやはり家。その昔の家制度ほどではないにしても、家の存続というのがいろいろな意味で重要視されてた時代の産物でございます。
まあお見合いおばさんが今でも残る訳ですね。結婚が一人前の大人としての通過儀礼になっている。そういう価値観だけは今も昔も変わっていませんし。
しかし時の流れは残酷なもの。個人主義の台頭、高度成長による資本主義経済の普及、人口の一極集中。そういった要素が「家」の概念を過去のものにしていくのです。
結婚は大人の階段から、家からの自立として価値観を改めていき。資本主義経済による需要の創出が、それを後押ししていきます(住宅や家電は核家族が沢山ある方が需要が増える)。
そうして今や。結婚とは好きあった者同士の結びつき・パートナーシップのより強固となった形として。かつてよりも遥かに開けたものとなりました。
悲しいかな、法律が追い付いていないけども。後、制度の外の結婚というのもございますね。事実婚とか。同性婚でも婚姻届に準ずるやつが生まれてたりしますし。
結論……?
とにかく。他人の目さえ気にならなければ、なんとでもなる時代になってる訳です。凄い!
これを踏まえて、新たに昨日の記事を読み直しますれば。……あれ? 今こそ南雲さん、結婚しやすい所まで来てるんじゃね?
リアルの出会いはないけど。資金もなければ人付き合いも下手だけど。
なんかオチが付きましたね。おわれ
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