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海神顕現 #1

<参照:ガノン北辺行・発端>

 多神教と北辺――ヴァレチモア大陸北部域よりもさらに北となる、雪氷と海で構成された辺境――が抱える歴史の因縁に巻き込まれる形で、【荒地の魔女】バンバ・ヤガによって北辺へと送り込まれてしまったヌルバダ王・ガノン。その目的は【真なるポセドー神の鉾】を届けること。そして攫った中原の娘を据えているという伝聞のある、【ポセドー神の巫女姫】を救出することにあった。
 一足飛びに巫女姫の地へと送り込まれ、彼女と取り巻きの説得に挑んだガノンは、苦闘しつつも北辺本土へと向かう船を手に入れることに成功する。【真なるポセドー神の鉾】の神威でもって氷海を開いた彼は、北辺――ノルゴルド王国の中枢を目指すこととなった。

***

 海は、非常に穏やかであった。ヴァレチモア大陸を指呼の間に見据え、ガノンを乗せた船は征く。舳先に据えられた【ポセドーの鉾】はほのかに輝き、その傍らでは巫女姫の世話役――もっとも年嵩の、筆頭格にあたる人物――が祈りを捧げ続けていた。

「港は、どこになる」

 不意に、ガノンが口を開いた。黄金色にけぶる瞳は、大地を見据え続けている。未だに接岸しない事実を、訝しんでいるようでもあった。

「都の港に、直で乗り入れることは難しいので。さりとて、遠くの街を選ぶわけにもいきません。もう少し、西を目指す腹積もりです」

 わずかに祈りを中断し、年嵩の世話役が応じた。彼女たちは年嵩を含めて三人いるが、残りの二人は舵と海図を相手に、悪戦苦闘している。おかげで、今は監視対象であるはずの巫女姫が自由の身となっていた。もっとも海の上に逃げ場はなく、本人にも逃亡の腹積もりはない。ガノンにその正体――大陸本土から、攫われた娘である――を看破され、帰還に助力してもらう約定を交わしたからだ。ここで逃げてしまえば、すべてが水泡に帰してしまう。今の巫女姫にとって、逃亡は無意味でしかなかった。

「……いいだろう」

 ガノンは、小さく首を縦に振った。思えば己は、北辺の地図一つさえも持たされてはいなかった。いかに急ぎ働きに近い状況だったとはいえ、【荒地の魔女】にはもう少し強く言うべきだったか。そんな後悔が、首をもたげる。しかしそれも、ほんのわずかな時間のこと。それとは比にならぬほどの問題が、船を襲いつつあったのだ。

「空が」

 問題の惹起は、巫女姫の呟きだった。応じて、ガノンと年嵩が空を見上げる。にわかに、黒雲が集まっていた。

「ぎゃっ!」

 続けて、舵を手にしていた付き人が声を上げた。船の動きが、大きく揺さぶられる。ガノンは両の足で踏ん張ると、即座に状況を察知した。穏やかであったはずの波がにわかに高くなり、女の細腕では舵取りが困難になっているのだ。

「っ! 許せ!」

 ガノンはそのまま、舵を奪う。結果どうなろうとも、転覆よりはマシであった。今やガノン以外の全員が船にへばりつき、必死に海神うみがみ――ポセドー神に祈りを捧げている。それは巫女姫も、同様であった。だが。しかし。

「なっ――」

 おお、見よ。物のことわりでは解き明かせぬ、不可解なる事象が起きてしまった。舵が効かず、船がその場に『立ち止まった』のだ。周囲の海は波打っているというのに、ガノンを乗せた船、その周りだけが固まっていた。

「これは」

 ガノンは舵から手を離し、腰に佩いた宝剣を抜いた。ヌルバダ王の証とされる、武具一式――この場においては、宝剣と鎧――、その輝きを、見せるべき時か。そう思われたが。

『中原の男よ、今はその時ではない。しばし待て』
「!?」

 ガノンの脳髄を、『声』が叩く。ガノンは過去にも幾度となく、似たような事象に出会ったことがあった。『それ』を起こしたのは、いずれも劣らぬ使い手ども。であれば、『声』の主は――

『これよりそなたらを、我が元へと連れて行くのだからな』
「まさか……」

 ガノンが声をもって応えんとした。その時である。『落ちる』という感覚が彼らを襲った。巫女姫と世話役たちが、声を上げる。ガノンですら、膝をついてしまった。それほどまでの、落差だった。そして、速度はにわかに上がっていき――

「どうする、つもりだ」
『なに、命を取るつもりはない。我が愛する鉾を、我が目にて真偽を見る。それは正しきことであろう』
「おま、え、は……」

 抵抗の声を上げるガノン。しかし船の『落下』は、いよいよ激しいものとなった。ガノンをもってしても、耐え切れぬ速度となった。遂には彼もが、船の床へとへばりつく。彼の意識は、それを最後に遠のいていき――

「…………」

 再び目覚めた時には、奇妙な場所に眠っていた。

「とま、った?」
「なにが……」
「……ここは、もしや」
「もしや?」

 時を同じくして目覚めたのか、巫女姫と世話役たちも声を上げた。船の『落下』は止まり、周囲も穏やかである。皆が皆、船に乗ったままであった。だが、そこに『海』はない。さりとて、陸地でもない。ガノンたちは、奇妙な確信を共有していた。ならば、この地は?

「目覚めたか」

 呼び掛ける声が、ガノンたちの耳を叩いた。厳かな声。それが先刻脳に響いたものと同一であることに、ガノンが気付けぬ道理はなかった。故に彼は、早速に声を張り上げた。

「ここはどこだ。海でもなく、陸地でもない。声の主よ。おまえが手を、下したのであろう。ならば」
「焦るでない。答えぬ道理もない。故に、我は言う。我はポセドー。ノルゴルドの民に崇敬されし、海神である。この地は我の領域。すなわち【異界】である。しかと心せよ」
「やはり水底か」

 答えを聞くことで、ガノンは即座に現況を看破した。己らは、神の御業によりて海底に佇む【異界】へと引きずり込まれたのだ。

「海神様! 何故に。何故にこのようなご無体を!」

 年嵩が、ガノンの前へと躍り出た。すわ、異議申し立てか? 否。疑義である。【真なるポセドーの鉾】を用いて海を越えたにもかかわらず、どうして水底へと引きずり込まれたのか。神の意図を知らぬ者においては、必然の問いであった。

「おお、その装束は。地上における我が妻の、世話役であるか。務め、大儀である」

 未だ姿を見せぬ海神。されど、どこからかは見ているのだろう。年嵩に対し、礼をもって言葉を発した。

「されど、大儀と此度の仕打ちは異なるもの。代わりではない、我が鉾。幾百年の時を経て我が手に帰ってきた鉾を。この目に、この手にしなければならなかった。そして」

 再び海神は言葉を切った。その時、ガノンは強く睨まれた気配を感じた。戦神の加護が、直感させたのか。それとも、近き場所から覗かれているのか。いずれにせよ、その気配は重いものであった。思わず腰を落とし、身構えてしまうほどには。そして、そこに向けて。

「遥か南に陣取りし戦神の愛し子よ。そう構えるでない。我はそなたにも用がある。その御力みちから、我に見せてみよ」

 いと厳かに、海神の命ずる声が響いた。

#2へ続く

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南雲麗
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