サキュバス・ナイト①

「……凄い、良かったよ?」
 寝台の上、僕に跨った女性が優しく口付けをしてくれている。だけど、僕は。
「ど、どうも……」
 呆然として、その一言しか返せなかった。でもそれが癪に障って、僕はもう一度女性を見上げた。
 長い黒髪。
 目鼻立ちの整った、一目見て美人と分かる顔。
 少し目を下げれば大きく、それでいて型崩れのない乳房。
 そして腰のクビレもハッキリしていて、正直彫刻めいて綺麗で。
 一つ一つが素晴らしく、非常に素晴らしく僕の好みに合致していた。
(ダメだ)
 早鐘の如く鳴り止まない心臓を疎んじながら、僕は思った。既に貪られたと言うのに。僕の中の獣が、また。
 そう。僕の『初めて』は、なし崩しにこの女性に奪われたのだった。まったく恐ろしい体験だった。四つん這いでなされる、あのグラビアポーズ。雑誌でよくあるそれを見てしまったこともある。当然、興奮してしまったこともある。だが現実に、目にするとあんなに恐ろしいものだったことを初めて知った。獣だった。肉食だった。そして。
「おや……?」
 女性の声で僕は我に返った。下腹部に熱を得る。不覚。記憶を掘り返したことでかえって猛りを訴えていた。
「これはまだまだ……ですね?」
 密着され、耳元で甘く囁かれる。長い髪が。胸部の感触が。下腹部の熱が。劣情をそそり、抵抗を押し流す。

 その日、僕の夜はとても長く。その間、僕はどうしてこんな事になったのかと思い返し続けたのだった。

 遡ること数時間前。僕は寂れた橋の欄干に足を掛けていた。時は夕暮れ。周りには誰一人として居らず、死ぬには持って来いの状況だった。
 話はひどく簡単で、そして仕方のないことだった。友人が金銭難のあまり質の悪い金貸しから金を借り、僕が何気なくその連帯保証人を引き受けた。それだけならまだマシだった。友人がきちんと耳を揃えて返せばいい。だが、破局は余りにも早かった。というよりも破局前提の契約だったのだろう。僕の所に金貸しがやって来た時には、借金は数倍、というのも生温い額に跳ね上がっていたのだから。そして取り立ても脅迫まがいのそれであった。もちろん、手も早い。あっという間に身ぐるみ剥がされ、保険金を懸けられ、何時『そう』なってもいいように手筈を整えられてしまったのだ。
 とはいえ、そう簡単に死ねたのなら苦労はしない。欄干に掛けた足は今にも滑り落ちそうなほど震えており、背中や額、首筋を覆う脂汗は冬にも関わらずおびただしい量であった。最初に構えを取ってから、どれだけの時間が経ったかすら。僕には分かっていなかった。

「――ッ!」
 震えに耐え切れず足を下ろす。次の瞬間、身体が崩れ落ちる。大きく息を吐いた後。小さく声が漏れた。
「死にたくない……」
「そうですか」
「はい。……え?」
 有り得ない筈の声が聞こえた。思わず顔を上げる。そこには黒のシルクハットに黒の燕尾服。黒のズボンに黒の靴。杖を携え、背筋は伸びて。いかにもな出で立ちの老紳士がいた。
「お困りなら、いい仕事がありますが」
 身を起こされる。素早い動きだった。返事など聞いてもいない風だった。
「え、あ、その……え?」
 戸惑う間にズボンを叩かれ、靴を履かせられ。そしてそのまま手を引かれる。少し歩けばそこには車があり、瞬く間に乗せられてしまう。
「いや、僕は。その、借金で……」
「なに。無駄に死ぬこともございませんよ。仮に死ぬにしても……」
 慌てて降りようとするが、オートロックに妨げられる。そして急発進。
「極上の体験をして死ねるのなら。悔いもございませんでしょう?」
 そのエンジン音はけたたましく、老人の次の言葉は、僕には全く聞こえなかった。

 そうしてこの場に連れ込まれ、現在に至る。隣で寝ている女性には、先程までの獣の面影は全くない。むしろ少女のような寝顔だった。既に外は明るい。一睡もできなかった。当然だ。いや、意識は途中から飛んでいたのかもしれない。何回上り詰めたのかすら。行為がどのように行われたのかすら、思い出せない。一時的な健忘症かもしれない。
 改めて自分が押し込められた場所を見る。決して広くはないが、その辺りにある安ホテルよりも遥かに調度品は豪華で、洋風で、整っていた。少なくとも『そういうホテル』とか、ビジネスホテルの類ではないことはハッキリした。
「……」
 身を起こし、自身の身体を見る。特に鍛えてもいない身体のそこかしこに、激しい行為の痕跡が残されていた。分かる。このまま外に出る訳にはいかない。いや、外に出られるのか分からないのだけども。ともかく、自分からは出られない。と、すれば。
「シャワーを浴びるぐらいは……」
 隣の人物を起こさないように席を立ち、浴室へ向かう。服は着ていないから、手順は簡単だ。分泌物を洗い流し、髪を洗い、整える。そして数時間ぶりに服を着た。そのまま鏡を見る。が、絶望した。薄汚れたジャケットに単色のTシャツ。所々剥げているジーパン。全てのパーツが。今居る場所に対して、あまりにも釣り合っていない。よくこんな所に入れたものだ。あの老紳士の力だろうか。
 そんな風に黄昏れていると、扉を叩く音が聞こえた。老紳士か、あるいは。もしかして。
(後者だったら……詰みかもしれない)
 そう思いつつも、抜き足差し脚。女性を起こさないようにドアスコープを覗く。果たして。

 ざっくばらんに言ってしまえば、結果は前者だった。安堵した僕がドアを開けると、老紳士は流れるように入室した。無論、部屋の惨状は気にも留めていない。
(手慣れているのか)
 何気なく僕はそう思った。恐らく、冷静さよりも作業感の方が垣間見えたのだろう。彼は手に持っていたスーツケースを開く。すると、そこには折り目正しく整えられた衣服が入っていた。それを僕に差し出しながら、老紳士は笑顔で告げた。
「お疲れ様でございます。ともあれ、お話もございますので。朝食でもいかがでしょうか?」

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