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海神顕現 #2

<#1>

「とはいえ、我も踏ん反り返っていてはならぬか」

 厳かな声に対して、顔をしかめたガノン。しかし次の瞬間には、海神うみがみは声色を変えていた。わずかに穏やかなものとなり、自ら出向かんとする姿勢を指し示したのだ。

「そんな。海神様にお出まし頂くなど、不敬にもほどがございます」

 これに対し、年嵩が再び抗弁した。いや、抗弁と言うには不適切か。奉ずる神に、その神域から出歩かせる無礼を犯す。敬虔な信徒であればあるほど、それに耐えられるものではない。地に頭を擦り付ける年嵩の方が、正しいとまで言えた。されど。

「構わぬ。そなたらもまた、我が元に鉾を持ち来る偉業を成したのだ。称えねばならぬ。褒めねばならぬ。我が直に出向くことなど、それに比すれば些事である」

 ポセドーの意志に、変化はなかった。それどころか、より意志を強固にしてしまった。これでは海神を知る者どもでも制止はできない。かくして。

「どおれ。我が神体を拝する栄誉に与らせてやろう」

 出で来たるは、ガノンよりも色濃きあかがねの肌を持っていた。無駄な脂肪は皆無で、肉体美を刻み込んだ彫刻がそのまま現れたかの如く、無駄の一片さえもない、引き締まった身体をしていた。顔の下半分に髭を蓄え、腰まで伸びた、うねる白髪を引っさげている。衣冠の類はほぼほぼなく、腰蓑めいた下穿きのみを付けていた。
 ガノンは、おののいた。北辺……否、ノルゴルドの海神は、ここまでの偉容を誇るのか。美しさを持つのか。まごうことなき神体からだ一つ。それのみで、人間ひとに膝を付かせるのか。口の端を噛みつつも、ガノンは久しく味わっていないものを得た。それは、『敵わぬ』という感情。心底からの、敗北。この神に対して、己は届かぬ。身体では、敵わぬ。そう感じざるを、得なかったのだ。

「おお、なんたる……」

 年嵩が、己の手で目を塞いだ。妻たるはずの巫女姫も、その世話役どもも、己が頭を【異界】の地平に擦り付けた。人が神体を仰ぎ見るなど、畏れ多い。彼女たちは、そうせねばならなかった。しかして、ガノンは。戦神の、【使徒】は。

「恐悦、至極……」

 片膝を付き、拝謁の礼を取った。おお、なんたること。その肉体からだは、震えていた。そこへ向けて、海神からは。

「ふむ。我が神体を目にしてもなお。礼を欠くことなく振る舞うか。まずは及第としよう。面を上げい。我が妻も、世話役どもも。我が差し許す」

 ずん、と響く声を用いての、ガノンたちに対する許しの声。ガノンは、真っ先に顔を上げた。いかに肉体において膝を屈したとはいえ、ガノンはポセドーを奉ずる者ではない。人としての礼は尽くすが、それ以上ではない。その矜持を示すためにも、彼は顔を上げねばならなかった。

「差し許す」

 海神が、二度目の声を上げた。それでもなお、女どもは顔を上げなかった。奉ずるものを、己が夫を前にして、あまりにも畏れ多いのだ。いかな豪胆極まりなきガノンといえども、そこに横槍を入れることはかなわぬ。ガノンは、北辺の民ではない。あくまでも闖入者であり、部外者であった。

三度みたびは、我も怒るぞ」
「お許し下さい。たとえ栄誉として賜わろうとも、御神体の威容を浴するなど、大変に恐れ多く……」

 海神が、三度目を発せんとしたすんでの所で。まずは年嵩が顔を上げた。なるほど、とガノンは舌を巻いた。中原の作法において、『たとえ望むものであろうと二度は断り、三度目をもって受け入れる』というものがある。彼女らは、それを実践したに過ぎぬのだ。いや、うら若き三人は年嵩に倣っただけやもしれぬのだが。

「うむ、たしかに。我を奉ずる民にとって、我が神体は尊ぶべきもの。不躾に見るなど、死よりも許されざる行いであるか」
「左様でございますれば……なにとぞ」
「うむ、許す。改めて命ず。我が地上の妻よ。その介添よ。面を上げい」
「は、はい!」

 ここに至りて、遂に巫女姫たちも顔を上げた。それでも伏し目がちなのは、あくまでも神を畏れているのだろう。特に巫女姫は、その姿が顕著であった。引きつった顔を見られぬためか、他の者よりも伏し目がちである。強張りが、表に出てしまっていた。

「うむ。ではまず。南より来たりし使節よ、名乗りの栄誉をくれてやろう」
「ガノン。密使ではあるものの、多神教の者どもより全権を預かっている」
「ガノン、か。南の戦神を奉ずるのであれば……ラーカンツの辺りと見る。どうだ?」
「慧眼、見事なれば」

 ガノンは、神に一礼を捧げた。奇妙とも言うべき運命に流され、中原の王にはなった。されど、己の心は今でもあの故郷にあった。たとえ故郷に二度とは戻れぬ身であろうとも、故郷への誇り、愛着だけは失ってはならぬ。過去の経験から、彼はそう定めていた。

「うむ。問いたきことは幾重にもあるが。まずは我が鉾。それを見なければ始まらぬ。ささ。はよう見せい。地上に祀るのは差し許す故、とくと持てい」
「ははっ!」

 幼童さえも思わせるような、海神の言葉。それに真っ先に反応したのは、やはり年嵩だった。舳先に据えていた【ポセドー神の鉾】を、その見た目に能わぬほどの速さで手に取り、恭しく捧げ持つ。神はそれを、事も無げに手にとって。そして。

「おお、おお。多少は古びても、わかるぞ。人の手に穢れても、わかるぞ。我が鉾。我が神器。我が用いる、ただ一つの武具。良くぞ、よくぞ我が元に」

 人目をはばからず、涙した。けして長くも大きくもない鉾を胸に掻き抱き、滂沱の涙を流したのだ。必然、巫女姫たちは唖然とする。口をあんぐりと開け、呆然としてそのさまを見る。しかし、戦士であるガノンにはわかった。己の武具と、長く分かたれた者の悲しみ。再度見えたことの嬉しさ。人の身が、数年離れただけでも狂喜するのだ。いわんや、神ならば。ましてや、幾百年。あるいは、それ以上ならば。

「おお、おお。我は謝らねばならぬ。汝を人に預けたことを、詫びねばならぬ。故に、振るわねばならぬ」

 しばし涙したあと、海神は決然と顔を上げた。その視線の矛先は、ガノンへと向けられていた。続けて、ガノンよりも高い背を持つ男が、身体を向ける。その手に下げていた、鉾は。

「神器、故にか」
「その通りよ。戦神の愛し子よ。我はそなたの業前が見たい。鉾もさることながら、そなたに興味があったればこそ、かような振る舞いに及んだのだ。さあ、我に技を示せ。満足させよ」

 おお、見よ。真なる主人の手に返り来たった鉾は、今やガノンの背丈ばりに長い逸物と化しているではないか。これならば、中原より貸し出された物と比べても劣らない。まさに神器そのものであった。

「やや、これは。巫女姫様、そして皆も、こちらに」

 年嵩が、いささか大仰な仕草で女どもを遠ざける。だが、その判断は的確と言えた。神と、神に愛された男の間に、戦の機運が生まれつつある。そこに女が、介入できる余地はないのだ。武の心得もない女にできるのは、ただただ見届けることのみだった。

「……いいだろう」

 ガノンもまた、剣を抜いた。ヌルバダの宝剣。王たるを示す剣。抜き身が晒されると同時に、刀身がほの光った。ガノンが戦神に祈りを捧げ、戦神がガノンに加護を与えたのだ。

「ゆくぞ」
「来い」

 先に動いたのは、ガノンだった。瞬く間に間合いを詰めると、並の者には追い切れぬほどの速さで剣を振る。されど。

「それがおぬしの全力か?」

 いとも容易く、神はかわした。これにはガノンも、小さく唸る。ただし一撃では終わらない。二撃、三撃と剣を振るう。だが届かぬ。神の身のこなしは、まさしく神域にあった。空気さえ断たんばかりの斬撃を、かくもあっさりとかわすのだから。

「まだ!」

 ガノンは、己に強いて神を称えた。ほのかだった光が、にわかに強まる。戦神からの加護が強さを増す。再び地を蹴り、一息に踏み込む。【異界】の大地を叩き割らんばかりの重い踏み込みが、離れてうずくまる女どもを揺るがした。

「おお、恐れ多い」

 年嵩が、震え声を響かせる。されどガノンには関係なかった。彼は衝動のままに、縦横無尽に剣を振るった。一振り、二振り、三振り……振れば振るほどに、ガノンの剣は勢いを増す。さしもの海神も、これには。

「ほう! ほうほうほう! ようやく戦神が見え隠れし始めおったわ!」

 歓喜の声を上げて、遂に鉾を振るった。剣と鉾が激しくぶつかり、鈍い音を放つ。火花を散らす。ガノンが一筋、汗を顔に垂らす中、海神は狂喜を顔に浮かべていた。なんたる余裕。なんたる狂気。これが、神というものなのか? だが、だとするならば!

「見え隠れ? その程度で喜ぶでないわ! 先があるぞ!」

 そうだ。ガノンもまた、神に愛されし者である。否、今や戦神の寵愛は、彼を依り代とするまでに深まっていた。ガノンが一筋に祈りを、鍛錬を捧げた。戦神はその褒美に、彼に己が意志を降ろし給うた。それが起こったのは、かの――

「構わぬ、来い!」

 神が吼え、剣を受ける。両者の争いは、いよいよ神の領域へと踏み込みつつあった!

#3へ続く

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南雲麗
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