
海神顕現 #5(終)
ガノンとノルゴルド王の対峙は、無言から始まった。しかし即座に、神が割って入る。否、これは全くもって必要な会話であった。
「うむ。そなたの言う通りであるな。これなるは、我に我が鉾を返さんとした、中原の多神教者どもからの密使である」
「ほう! 我らが神の手に、真なる鉾が! それは喜ばしいことでございますな!」
快哉を叫ぶ王に、神は機嫌良く言葉を続けた。
「うむ。きゃつらは複雑長期極まらぬやり取りを避け、単刀直入に使者を送り付けて来たのだ。それ故に我も、単刀直入に鉾を見分した。結果」
「まさしく、【真なるポセドー神の鉾】であったと」
「いかにも」
神が、鷹揚にうなずく。すると王は、喜色満面に叫んだ。
「これは重畳! 今すぐにでも城に戻らねばなりませぬ! 今日この日より十日ほどを、祝祭のための休日に当てねば!」
今にも【神域】からの脱出を企図しかねない王。しかし神は。
「まあ待てまあ待て。そう急くでない。此度はあくまで顔繋ぎ。対外的な本命は、正式な使節を立てて行われる、見栄えも良き模造品のやり取りよ。面倒を避けるためにも、本物を先だって突き付けておく方が話が早い。先方は、そう踏んだのだ。だろう?」
「……言葉を選ばずに言うのなら、そういうことだ」
バンバ・ヤガから聞かされた言葉をそのままなぞったかのような海神の言葉に、ガノンは思わず苦笑を浮かべてしまうところであった。いやはや、まったくもってその通りである。『それそのもの』を遠距離に渡って運び行くなど、強奪の恐れなどを考えても恐ろしいものでしかない。しかしながら、模造品のやり取りであればどうだろう。たとえ奪われたとしてもそれそのものは無為となる。相応の目を持つ人物であれば模造品と気付くであろうし、その裏でなにが行われていたかについても、勘付くはずだ。いささか希望的観測に偏ったかに見える策謀ではある。だが事実として、強奪回避には有益な策であった。
「ふむ。つまるところ、騒ぐにはまだ早いと。そういうことなら……さては我らが神、異なる面倒を余に持ち込むおつもりですな?」
輝かんばかりの覇気を備えた男は、才気もまた煥発であった。神からの言葉を一瞬で飲み込んだ彼は、その意図さえも喝破してみせたのだ。神もこれには、気を良くしたようで。
「応、その通りよ。この密使はな、我に『地上における妻……巫女姫をすげ替えろ』などと要求して来おった。まあ鉾が戻った以上、妻も中原に帰さねばならぬからそれは必然だが、巫女姫はそなたらからの捧げ物でもある。つまるところ、そなたらに急ぎ仕事を頼むことになるわけだ」
「ふむ。余のすべきことは、臣下の説得――今後に向けての地均しと、新たな巫女姫の選定ですな?」
「さすがは才気煥発の声も高き光輝王よ。我の考えを、余す所なく読み解きおった」
玉座の神が、相好を崩す。どうやらこの神、当代のノルゴルド王を相当に気に入っているようだ。しかし一方でガノンは、ささやかな疑問を抱いていた。先刻よりこのノルゴルド王、誰に対しても己の名を名乗っていない。今しがたにして【光輝王】などと呼ばれているらしきことは明らかになったが、そのような呼称は、ヴァレチモア大陸では諡――死後の敬称として扱われるのが一般的であった。これは、一体。
「おお、そうか。多神教の地では、高貴なる者でも名を隠さぬのであったな。ノルゴルドでは呪い避けの為に、高貴な者ほど名を伏せる。故に、生前から通称を名乗るのだ」
おそらく顔に出てしまっていたのだろう。その疑問には、神が答えた。続けて、【光輝王】と呼ばれた男がうなずく。これにはガノンも得心せざるを得なかった。搦手を使う者どもにとって、相手の名を知ることはそのきっかけとなる。戦神信仰故に搦手を嫌うガノンをもってしても、その事実だけは幾度も痛感していた。
「火傷を恐れるが故に、火傷の元を絶つ、か。なるほどな」
「呪いの術を封じるための知恵、と呼んで欲しいところだ」
とはいえ、ガノンは戦神を奉ずる者である。搦手を恐れず、正面を切って戦う男である。そんな彼からすれば、北辺の抱く習性は怯懦だと言えた。口に出さぬまでも、近しい言い回しをもって評価する程度には、思考の端々に躍り出てしまった。必然、それはノルゴルド王にも察知される。反駁の言葉を放たれる。両者の間に、火花が走り――
「おお、光輝王が牙を剥くか。久々にそなたの武を見るのもまた一興か」
先刻鉾を納めたはずの海神が、おどけた調子で囃し立てる。これにはガノンも目を剥いた。先の戦で、彼が持つヌルバダの宝剣は歪んでしまった。ここで無闇に争おうものなら、剣を失ってしまう可能性さえもある。いかに王権にこだわりを持たぬ彼とはいえ、そうなった折にやって来る面倒はわかる。たとえ歪もうと、戦に使えなかろうと。象徴を抱えておく必要はあるのだ。
「……客分の立場でありながら、物言いが過ぎた。謝罪する」
結果としてガノンは、頭を下げた。平伏とまではいかないまでも、直角に近い角度まで頭を下げた。内情はどうであれ、北辺を嘲るような物言いとなってしまったのは事実である。ガノンはその事実だけを取り上げ、瑕疵があったと頭を下げた。彼にしては、あまりにも珍しいことである。だが今は、無為な争いを避ける必要があった。己のためにも、北辺と大陸の関係のためにも。この密議を、破談に終わらせるわけにはいかなかった。過剰な時間を掛けるわけにはいかなかった。
綱渡りのようだと、ガノンは内心で己を嘲る。昔の己なら、このような姿を晒すことを是としなかったであろう。しかし己には、あまりにも多くのものがこびり付いてしまった。その手に提げた宝剣や、その身体にまとう鎧のように。重苦しいものが、備わってしまった。肉体一つで荒野を駆け巡った時節を懐かしもうと、もはや戻れぬ立場となってしまった。その事実を、ことさらに痛感せざるを得なかった。
「……謝罪を受けよう。いかに我らが神が許し給うたとて。神の聖域にて、人が剣を交えるは穢れに繋がる。誰一人として、喜ばぬ」
「なんだ、振るわぬのか。せっかく酒の肴になると思うたのに」
「大陸……多神教の本元との全面戦争がお望みであるのでしたら、やぶさかではありませんが」
「……我とて、我を奉ずる民を滅ぼしたいわけではないわ」
いささか不満げな神からの横入りを、【光輝王】が切って捨てる。かくして、不意に生じた北辺と大陸の衝突は無事に回避された。その上で。
「申し遅れた。【光輝王】どの、おれはガノンだ。大陸はヌルバダで、王を務めている。いかなる導きによりてか密使となった。よろしく頼む」
「おお。名は確かに預かった。よろしく頼む。余はノルゴルド……大陸では北辺と呼ばれる地の、ただ一人の王だ。【光輝王】と、呼ばれている」
ガノンは頭を下げつつも名乗りを上げた。神からの補足などもあり、未だ正式な挨拶を済ませていなかったのだ。ノルゴルド王もこれにははたと気付いたらしく、表情を改めてそれに応じた。
「……話を戻したいが、よろしいか」
「良いだろう。いつまでも先だってのことを深堀るわけにもいかないからな」
ガノンは、慎重に話を切り出した。自らが食い付いておいて、そこから矛先を変える。非礼とは言わぬまでも、分の悪い行いではあるからだ。しかし幸いにして、ノルゴルドの王は乗って来た。終わった話題を蒸し返すことよりも、実利を取ったと言える。なるほど、才気煥発を謳われるだけはあるようだ。
「少し前にポセドー神が申された通り、おれは神器の交換に加えて、巫女姫の返還をも望んでいる」
「うむ。それ故に、余が請け負うべき役目もよくわかった」
ガノンは、内心で胸を撫で下ろした。ここで話がこじれることだけは、正直言って回避したかった。それ故彼は、非常に安心したのだが。
「とはいえ。余の力をもってしても、此度の手配には時間が掛かる。その上ガノンどのの要求は、我々にとってかなりの無体。新たなる巫女姫も見つけねばならぬ。それ故に。期間中、そなたには少々働いて貰うこととする」
「なっ……!?」
「なに。王たるガノンどのの力をもってすれば、おそらくは些事。なに一つとして、問題はないでしょう」
ガノンの顔が、かすかに曇る。ヌルバダの王権は、未だしかと定まっていない。旧勢力や王権を狙う者、反王国の勢力が、各地でその力を蓄えている。ガノンの不在を勘付かれれば、それらが一斉に牙を剥く恐れがあった。長らくは、王宮を空けてはいられぬのだが。とはいえ、ここで足元を見られるわけにもいかず。
「いいだろう」
バンバ・ヤガから請け負った使命のためにも、彼は快諾せざるを得なかった。するとノルゴルド王は、相好を崩して。
「では我らが神よ。ガノンどのの気が変わらぬ内に、かの地まで」
「よかろう。そなた、暴れるでないぞ」
「む」
いずこかへと、飛ばされる。話の口ぶりから、ガノンはそれだけは理解した。しかしながら、請け負う任務などについては、露ほどにもわからず。
「なに、先方へ赴けば、おのずからわかり申す」
「百聞かされるより、一度現地を見たほうが話もわかろうというもの」
特に説明もないまま、神が再び、手ずから鉾を振るう。またしても、空間にねじれが生じた。
「さあ。大陸の勇敢なる戦士、戦神の愛し子よ。この先に、望むか、否や?」
「……戦神にもとる真似など、できるわけがない」
「では、進むがいい」
ガノンは促されるままに、ねじれへと足を運ぶ。その行く先は、未だ見えず。されど彼の瞳には、不安は微塵も感じられなかった。
海神顕現・完
いいなと思ったら応援しよう!
