7/19 考え『すぎる』も一つの財産【考察】
※11/20改題・リライト
南雲麗は考えすぎる
ごちゃごちゃ考え過ぎる人間である。気がする、ではない。考え過ぎるのだ。
自分で、自分のスペックの低さはもう承知している。だからこそ、分かる。
一つのことでくよくよ考え過ぎるし、過ぎたことはいつまでも引っ張ってしまうのだ。
もはやこれは、性分のようなものだと思っている。
なにかに即座に飛びつけるほど、身軽ではない。器用でもない。ついつい、先のことまで考える。
『死ぬこと以外はかすり傷』。聞いたことは幾度もあるが、やるとなるともっての外だ。実際死なないのに。
考えすぎる性格の利点
とはいえ、考えすぎる性格にもいい面はある。
インターネット社会極まる昨今。春秋時代ばりに論客が並び立つ時代になった。
無名有名問わずにである。インフルエンサーという一世を風靡する名前までつけられている。
まさに諸子百家と言っても差し支えはない。はずだ。
しかし、その論客たるや。手法はいわばなんでもありである。
極論。傍目から見たら以前と真逆の行動。先進的過ぎる論。
そりゃ現代社会炎上しやすいわけですね。誰だって噛み付けるように出来てるんですから。
ではこんな世の中で、最初に信じられるのは? 自分だ。
他でもない、自分自身なのだ。
その時、考えすぎるという性格は。『鵜呑みにしない』という利点へと変じるのだ。
考える人になろう
さてそういうわけで考えよう。
そもそもである。この世にたった一つの考えしかないのなら。
宗教戦争など起こりはしないし、人類はとっくに一つになっている。バベルの塔、多分完成してる。
考える人が複数いることで、いくつもの考えが生まれ。それがぶつかることで、新たな発想が生まれる。
人類は、そうやって歴史を作ってきた。
つまり考える人になるということは、歴史を作ることである。
特定人物の色に染め上がらないことは、自分の思想を作ることである。いいとこ取りでも構わない。自分の旗を立てても良いのだ。
南雲麗も考え続ける
自分も、考え続けながら。一歩を踏み出す行動を試みる。
だから、誰もが。振り返るなり、突き進むなり。一度考えてみてもいいと思う。
考えすぎる。それでもいい。
その性格を受け入れ。考えながら歩く。考えがぐるぐるし始めたら、考える前に動く。
そうやって動けるようになったら。きっと今よりも、もう一歩向こうへ行ける。
だからこそ、考えすぎる性格も一つの財産なのだ。
おわれ。
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